第5話:レンズに刻まれた祈り
図書館の冷たい空気から逃げるように実家に戻った私は、自室の机の上に父のニコンと、母の絵の具箱を並べた。
二つの遺品は、まるでパズルの欠けたピース同士のように、静かにそこにある。
私の心は、激しく波立っていた。
母が絵を諦めたのは、私の命を守るためだった。
そして父が、その「奪ってしまった筆」の代わりに、一生をかけて母の瞳となり、風景を記録し続けていた。
これまで「冷酷な独裁者」だと思っていた父の背中が、今は、一人の女性の情熱を背負い、よろけながらも歩き続けた「殉職者」のように見えてくる。
「……まだ、何かあるはず」
私は確信に近い予感に突き動かされ、父のニコンを手に取った。
白鳥写真館で現像したあの三十六枚。あれが全てではない。
父のような完璧主義者が、母の「未完のブルー」に応えるための答えを、あのピンボケ写真だけで終わらせるはずがない。
私はカメラの細部を、指先でなぞるように調べた。
フィルム室、裏蓋の裏側、電池蓋……。そして、レンズをボディから外した、その瞬間だった。
マウント(接合部)の、ミラーが跳ね上がる僅かな隙間に、ピンセットを使わなければ取り出せないほど小さく折り畳まれた、一枚の「透写紙」が挟まっていた。
震える手でそれを広げると、そこには図面のようなものが描かれていた。
いや、図面ではない。それは、**「色の配合表」**だった。
『海:コバルトブルー 6、ヴィリジャン 3、白 1』
『雲の影:ペイニーズグレー 少量、ウルトラマリン』
父の、あの無骨な字で。
カメラマンであるはずの父が、なぜ油絵具の混色をこれほど正確に記しているのか。
その紙の裏には、掠れた文字で、母への、そして私への遺言とも取れる言葉が綴られていた。
『佐和子、お前の色は、俺のフィルムの中では再現しきれなかった。
光を捉えることはできても、お前の情熱が持つ「温度」は、銀塩の粒子には重すぎる。
この記録は、いつか陽子が「自分の色」を見つけた時のための、道標にさせてくれ。
俺が奪ったお前の時間を、あの子が、新しい光で塗り替えてくれると信じている。』
私は、その紙を胸に押し当て、嗚咽を漏らした。
父は、自分がカメラを構えることで、母の絶望を「希望」に変換しようとしていたのだ。
母から筆を奪った罪悪感を、娘である私に託すことで、救われようとしていた。
「お父さん……重すぎるよ。こんなの、勝手すぎるよ……」
怒りが湧いた。けれど、それ以上に、この不器用で、一方的で、あまりにも純粋な愛の形に、私の魂は震えていた。
私が今、画家として生きていること。
それは、父が母に強いた「沈黙」の上に咲いた、残酷で美しい花だったのだ。
私は、母の絵の具箱から「コバルトブルー」のチューブを手に取った。
父がメモに記した通り、母が愛したあの海の色を、私の手で、もう一度この世に呼び戻さなければならない。
それが、この歪な家族の物語を、本当の「完成」へと導く唯一の方法なのだ。
外は、いつの間にか夜が明けていた。
窓から差し込む朝日は、父のニコンと、母の絵の具を、均等に、眩しく照らしていた。




