第3話:岬の証言者
「……昭三さんの、ニコンだね」
不意にかけられた声に、私はカメラを構えたまま固まった。
振り返ると、そこにいたのは、使い古されたパナマ帽を被った小柄な老紳士だった。
足元には年季の入ったスケッチ台があり、膝の上には、風にパタパタと煽られるスケッチブックが乗っている。
「どうして、父のことを?」
「そのカメラの傷だよ」
老紳士は、私の手元を指差して穏やかに笑った。
「巻き上げレバーの横に、小さな凹みがあるだろう。
昔、彼が撮影に夢中になって崖から滑り落ちそうになった時、岩にぶつけて作った傷だ。私が隣で見ていたからね」
彼は「神野」と名乗った。
かつてこの街で小さな絵画教室を開いていた、元教師だという。
「昭三さんと佐和子さんは、私の教室で出会ったんだ。
……いや、正確には、昭三さんが佐和子さんの『絵』に恋をした、と言うべきかな」
神野さんは海を見つめ、遠い記憶を手繰り寄せるように目を細めた。
「佐和子さんの才能は、この街の光そのものだった。
彼女が筆を動かすと、何の変哲もない海が、命を宿した生き物のように輝き出す。
昭三さんは、その才能を誰よりも愛していた。
カメラマンだった彼は、彼女が描く世界を少しでも正確に残そうと、いつも彼女の横でシャッターを切っていたよ」
私の知らない、若き日の両親。
ファインダーを覗く父と、キャンバスに向かう母。
二人の間には、言葉を超えた「色彩の対話」があったのだ。
「でも、お母さんは絵をやめてしまいました。お父さんは、それを望んでいたんじゃないんですか?」
私の問いに、神野さんは少しだけ悲しげな首を振った。
「それは違う。……彼が望んだのは、彼女を守ることだった。ただ、そのやり方が、あまりにも不器用だったんだ」




