第2話:未完のブルー
絵の具箱を見つけた翌日、私は実家の離れにある物置を漁っていた。
母の絵の具があれほど使い込まれていたのなら、描かれた「画布」がどこかに残っているはずだ。
埃を被った古い扇風機や、私が幼い頃に使っていた浮き輪を退けると、一番奥の隙間に、キャンバス布を保護するためのカルトン(画板)が立てかけられていた。
それを引き出した瞬間、指先にざらりとした感触が伝わる。
「……これだ」
カルトンの中から現れたのは、数枚の風景画だった。
どれも驚くほど力強く、厚塗りの油彩が独特の立体感を持っていた。
描かれているのは、この街のどこにでもある風景――海沿いの防波堤、夕暮れの踏切、そして、街を一望できる小高い丘。
その中の一枚に、私の目は釘付けになった。
空を、狂おしいほどの「青」で塗りつぶした風景画。
けれど、その絵の右下だけが、下地の白い布を晒したまま「未完成」に終わっていた。
「……あ」
私は、カバンの中から父が遺したあの写真を数枚取り出した。
あのピンボケの失敗作たち。
その中の一枚、父が激しく震える手で撮ったであろう、丘の上からの景色。
重なる。
絵の構図と、父が最後に写そうとした景色が、完璧に一致した。
父は、母が描き残した「空白」を、自分のカメラで埋めようとしていたのではないか。
母が筆を置いたあの日から、父は母の代わりに、彼女が見るはずだった景色をファインダー越しに追い続けていたのではないか。
気づけば、私は車を走らせていた。
向かったのは、絵の中に描かれたあの丘――通称『風の岬』。
幼い頃、一度だけ父と母に連れられて行った記憶がある。
あの時、父は不機嫌そうにカメラを構え、母はただ静かに風に吹かれていた。
丘の上に立つと、絵と同じ、眩しい初夏の海が広がっていた。
私は母の未完成の絵を抱え、もう片方の手で父のニコンを構える。
レンズを覗き込むと、不思議な感覚に襲われた。
母が絵の具を乗せられなかった白い空白の部分に、父のファインダーが捉えた光が、レイヤーのように重なっていく。
「お父さん、お母さん……二人はここで、何を見ていたの?」
私は、父がいつもそうしていたように、ピントリングをゆっくりと回した。
すると、ぼやけた視界の向こう側に、一人の老紳士が座っているのが見えた。
使い古されたスケッチブックを膝に乗せ、海をじっと見つめている。
その人物は、私の気配に気づくと、ゆっくりとこちらを振り返った。
「……おや。そのカメラ、昭三さんのじゃないか」
それは、白鳥写真館の主人ではなく、また別の、父の過去を知る人物との予期せぬ出会いだった。




