第1話 クローゼットの奥の「原色」
父の遺したカメラを首に下げて歩くことが、いつの間にか私の新しい習慣になっていた。
ファインダー越しに世界を切り取ると、これまでモノクロームに見えていた実家の風景が、少しずつ彩りを取り戻していくような気がする。
父の四十九日を終え、あれほど鼻をついた線香の匂いも、今では「誰かがそこにいた証」として、優しく鼻腔をくすぐる程度に落ち着いていた。
今日は、母・佐和子の荷物を整理する日だ。
母は今も施設で、穏やかな記憶の海を漂っている。
実家に戻ることはもうないだろう。
そう思うと胸が疼いたが、私は意識的に手を動かした。
寝室の大きなクローゼット。
その一番奥、父の古いコートに隠されるようにして、それは置かれていた。
「……何、これ。重い」
引きずり出したのは、焦げ茶色の、角が丸く擦り切れた木箱だった。
留め金を外すと、独特の、けれどどこか懐かしい匂いが立ち上がる。
埃の匂いを突き抜けて、鼻を刺したのは――リンシードオイルと、乾いた絵の具の匂いだった。
「嘘……お母さんの?」
箱の中には、銀色のチューブが所狭しと並んでいた。
使いかけの「ヴィリジャン」、「クリムソン・レーキ」、「コバルト・ブルー」。
どれもキャップの周りに固まった絵の具がこびりつき、持ち主がかつて、寝る間も惜しんで筆を動かしていたことを物語っている。
パレットには、混ざり合った色がそのまま乾燥し、地層のように重なっていた。
それは、私の知っている「控えめで、いつも一歩引いていた母」のイメージとはかけ離れた、激しく、鮮やかな原色の記憶だった。
私は、震える指でパレットの表面をなぞった。
私が美大に行きたいと言ったあの夏、母は困ったような顔をして私を見ていた。
あの表情は「父に反対されるから」という心配だけではなかったのではないか。
母自身もまた、この色彩の渦の中に、何かを置いてきてしまったのではないだろうか。
ふと、絵の具箱の底に敷かれた、黄ばんだ古い新聞紙が目に留まった。
何気なくそれを剥がすと、一枚の小さなメモが滑り落ちた。
そこには、あの、父の無骨な筆跡でこう記されていた。
『佐和子へ。この色は、まだ死んでいない。』
日付は、私が生まれるよりもずっと前。
父と母がまだ若く、何者でもなかった頃の、青い時代の記録。
私は、絵の具箱を抱きしめた。
父のカメラが私の胸にカチリと当たり、まるで「続きを読み解け」と急かされたような気がした。
父が守ろうとしたのは、私の夢だけではなかったのかもしれない。
父は、この箱の中に封印された母の「情熱」をも、誰にも触れられないように、ずっと守り続けていたのではないか。
私はスマートフォンを手に取り、施設の母へ電話をかけようとしたが、すぐに指を止めた。
言葉で聞くよりも先に、確かめなければならないことがある。
私は、父のカメラと、母の絵の具箱を車に積み込んだ。
行き先は、施設ではない。
かつて母が、そして父が、二人で眺めていたはずの「はじまりの風景」だ。




