表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀塩の嘘、現像される愛 〜不器用な父が遺した、世界で一番優しい「ピントの合わない写真」  作者: かーすけ
第1章 銀塩の嘘、現像される愛 不器用な父が遺した、世界で一番優しい「ピントの合わない写真」

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/20

第11話:新しい光の中で

 半年後の初夏、銀座の路地裏にある小さな画廊は、午前中の柔らかな光に満たされていた。  

 白く塗られた壁面には、十数枚の油彩画が並んでいる。

 かつての私の作品は、どこか刺々しく、見る者を突き放すような冷たさがあった。

 けれど、今回の個展を訪れる人々は、皆一様に、絵の前で長く足を止め、穏やかな顔でキャンバスを見つめていた。


 会場の中央、最も大きな壁面に飾られた一枚の絵。  

 タイトルは、『三十六枚目の光』。

 それは、具体的な形を持たない抽象画だった。

 画面全体を支配するのは、圧倒的なまでの白。けれど、その白の中には、幾重にも重なった微かな色彩が息づいている。

 朝靄のような青、体温を感じさせる淡い桃色、そして、使い古された金属が放つ鈍い銀色。  

 父が最後に残した、あの真っ白に飛んだ写真。  

 あの時、父の瞳に映っていたであろう、涙で滲んだ眩しい世界を、私は半年かけて描き出した。


 首から下げた『ニコン F3』が、歩くたびに胸元で小さく弾む。  

 修理に出し、丁寧に磨き上げられたボディは、もはや死者の遺品ではなかった。

 それは、私の心臓の鼓動を記録し続ける、現役の道具だ。


「いい絵ね、陽子」

 車椅子に乗った母が、施設の職員に付き添われて入ってきた。  

 母は、正面の大作を見上げると、細くなった目をさらに細めて微笑んだ。

「お父さん、今頃、自慢げに鼻を鳴らしているわよ。『俺の撮った写真の方が、ピントが合っていた』なんて、負け惜しみを言いながらね」

「ふふ、言いそうね」


 私は母の横にしゃがみ込み、その小さくなった手を握った。  

 父が遺したあの通帳の貯金は、母のこれからのケアと、この個展を開くための資金として大切に使わせてもらった。

 父が「食っていけない」と心配した私の人生を、結局、父が一番確かな形で支えてくれたのだ。


 母を送り出した後、私は一人、誰もいなくなった画廊に残った。  

 静寂の中で、壁に掛かった自分の絵と対峙する。    

 あの日、父がゴミ箱から拾い上げた私の夢。  

 震える手でシャッターを切り続け、私という存在を肯定し続けてくれた、あの沈黙の時間。

 私はゆっくりと、カメラを構えた。  

 ファインダーを覗くと、四角い枠の中に、自分の描いた「光」が収まった。  

 ピントリングを回す。  

 かつては「父の逃げ場所」だと思っていたこのレンズの向こう側に、今は、限りなく澄み切った世界が広がっている。


 父さん。  

 私はもう、迷わないよ。  

 あなたが捉えようとしたこの世界の美しさを、私は描き続ける。  

 あなたの震える指が教えてくれた、この命の重さを、私は忘れない。

 私は、静かに息を吐き、シャッターを切った。

 ――カシャッ。

 乾いた、心地よい金属音が画廊に響き渡る。  

 それは、過去と現在が、そして私と父が、ようやく一つの焦点で結ばれた音だった。


 窓の外では、眩いばかりの夏の日差しが、街路樹の緑を鮮やかに照らしている。  

 私はカメラを胸に抱き、一歩、外の世界へと踏み出した。

 新しい光は、どこまでも温かく、私の背中を優しく押し続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ