第11話:新しい光の中で
半年後の初夏、銀座の路地裏にある小さな画廊は、午前中の柔らかな光に満たされていた。
白く塗られた壁面には、十数枚の油彩画が並んでいる。
かつての私の作品は、どこか刺々しく、見る者を突き放すような冷たさがあった。
けれど、今回の個展を訪れる人々は、皆一様に、絵の前で長く足を止め、穏やかな顔でキャンバスを見つめていた。
会場の中央、最も大きな壁面に飾られた一枚の絵。
タイトルは、『三十六枚目の光』。
それは、具体的な形を持たない抽象画だった。
画面全体を支配するのは、圧倒的なまでの白。けれど、その白の中には、幾重にも重なった微かな色彩が息づいている。
朝靄のような青、体温を感じさせる淡い桃色、そして、使い古された金属が放つ鈍い銀色。
父が最後に残した、あの真っ白に飛んだ写真。
あの時、父の瞳に映っていたであろう、涙で滲んだ眩しい世界を、私は半年かけて描き出した。
首から下げた『ニコン F3』が、歩くたびに胸元で小さく弾む。
修理に出し、丁寧に磨き上げられたボディは、もはや死者の遺品ではなかった。
それは、私の心臓の鼓動を記録し続ける、現役の道具だ。
「いい絵ね、陽子」
車椅子に乗った母が、施設の職員に付き添われて入ってきた。
母は、正面の大作を見上げると、細くなった目をさらに細めて微笑んだ。
「お父さん、今頃、自慢げに鼻を鳴らしているわよ。『俺の撮った写真の方が、ピントが合っていた』なんて、負け惜しみを言いながらね」
「ふふ、言いそうね」
私は母の横にしゃがみ込み、その小さくなった手を握った。
父が遺したあの通帳の貯金は、母のこれからのケアと、この個展を開くための資金として大切に使わせてもらった。
父が「食っていけない」と心配した私の人生を、結局、父が一番確かな形で支えてくれたのだ。
母を送り出した後、私は一人、誰もいなくなった画廊に残った。
静寂の中で、壁に掛かった自分の絵と対峙する。
あの日、父がゴミ箱から拾い上げた私の夢。
震える手でシャッターを切り続け、私という存在を肯定し続けてくれた、あの沈黙の時間。
私はゆっくりと、カメラを構えた。
ファインダーを覗くと、四角い枠の中に、自分の描いた「光」が収まった。
ピントリングを回す。
かつては「父の逃げ場所」だと思っていたこのレンズの向こう側に、今は、限りなく澄み切った世界が広がっている。
父さん。
私はもう、迷わないよ。
あなたが捉えようとしたこの世界の美しさを、私は描き続ける。
あなたの震える指が教えてくれた、この命の重さを、私は忘れない。
私は、静かに息を吐き、シャッターを切った。
――カシャッ。
乾いた、心地よい金属音が画廊に響き渡る。
それは、過去と現在が、そして私と父が、ようやく一つの焦点で結ばれた音だった。
窓の外では、眩いばかりの夏の日差しが、街路樹の緑を鮮やかに照らしている。
私はカメラを胸に抱き、一歩、外の世界へと踏み出した。
新しい光は、どこまでも温かく、私の背中を優しく押し続けていた。




