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銀塩の嘘、現像される愛 〜不器用な父が遺した、世界で一番優しい「ピントの合わない写真」  作者: かーすけ
第1章 銀塩の嘘、現像される愛 不器用な父が遺した、世界で一番優しい「ピントの合わない写真」

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10/20

第10話:三人のピクニック

 写真館を後にした私は、その足で再び母のいる施設へと向かった。  

 抱えたカバンの中には、現像されたばかりの三十六枚の写真と、あの重いニコンが入っている。

 それはもう、私を拒絶する「冷たい鉄の塊」ではなく、父の体温を宿した大切な「手紙」のように感じられた。


 夕暮れの面会室。

 母は、昼間よりも少しだけはっきりとした瞳で、窓の外に広がる紫色の空を眺めていた。

「お母さん」  

 私が隣に座り、写真をテーブルに並べると、母の細い指先が、迷うことなくあの一枚――真っ白に飛び、父の走り書きがある最後の一枚に触れた。

「……ああ、昭三さん。やっと、陽子に渡せたのね」  

 母の口から漏れたのは、独り言のような、けれど確かな確信に満ちた言葉だった。


「お母さん、知ってたのね。お父さんが、夜中に私の絵を撮っていたこと。病気のことも」  

 母は、ゆっくりと私の方を向き、穏やかに微笑んだ。

「あの人はね、陽子。あなたが描く鉛筆の音が、この世で一番好きだって言っていたわ。書斎にいても、あなたの部屋から聞こえてくるカサカサという音に、じっと耳を澄ませていたのよ」

 私の知らない、父の姿。  

 あの日、私が部屋に閉じこもって、怒りをぶつけるようにスケッチブックを塗りつぶしていた時。

 父はその扉の向こう側で、私の奏でる「夢の音」を、愛おしそうに聴いていたのだ。


「お父さん、怖かったんでしょうね。自分が壊れていくのが」

「ええ。でもね、それ以上に怖かったのは、自分のせいであなたの翼が折れてしまうことだった。昭三さんは、自分がいなくなった後の世界で、あなたが一人で生きていける『強さ』をあげたかったのね。たとえ、そのために自分が憎まれることになっても」

 母は、ひどく手ブレした私の卒業式の写真を指でなぞった。

「この日もね、家を出る前に、お父さん、鏡の前で何度もネクタイを締め直していたのよ。手が震えて上手くいかなくて……『これじゃ、陽子に笑われるな』って、困ったように笑って。結局、式場でも遠くからしか撮れなかったみたいだけど」


 その光景が、鮮やかな映像となって私の脳裏に映し出された。  

 不器用な手つきで鏡に向かい、娘に会いたい一心で震えを抑えようとする父。  

「お母さんも、辛かったでしょう。二人で秘密にして」

「いいえ。私はね、お父さんのあの真剣な横顔を見るのが好きだったの。あなたを想って、現像液の匂いにまみれている時の、あの静かな顔。……私たちはね、三人でずっと一緒にいたのよ。あなたが一人で戦っていると思っていた時も、このレンズがお父さんの目になって、ずっとあなたを抱きしめていたの」


 母の手が、私の手をそっと包み込んだ。  

 カサカサとした、乾いた、けれど温かい手。    

 私は母の肩に頭を預け、二人で並んで、ピントの合わない写真たちを一枚ずつ見つめ直した。

 そこには、完璧な構図も、鮮明な色彩もない。  

 けれど、どの写真にも、父の「震えるほどの愛」が、光の粒子となって溢れていた。


「お母さん。私、また絵を描くよ。今度は、お父さんが見ていたこの光を描きたいの」

「そうね。きっと喜ぶわ。あの日、ゴミ箱から拾ったあなたの絵を、世界で一番の名画だって自慢していた人だもの」


 母の記憶が、再び夕闇の中に溶けていく。  

 眠たそうに目を閉じた母の横顔は、長く重い役割を終えた安堵感に満ちていた。    

 私は、父のカメラをぎゅっと抱きしめた。  

 ファインダーの向こう側で、父が、少しだけ照れくさそうに笑っているような気がした。

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