第10話:三人のピクニック
写真館を後にした私は、その足で再び母のいる施設へと向かった。
抱えたカバンの中には、現像されたばかりの三十六枚の写真と、あの重いニコンが入っている。
それはもう、私を拒絶する「冷たい鉄の塊」ではなく、父の体温を宿した大切な「手紙」のように感じられた。
夕暮れの面会室。
母は、昼間よりも少しだけはっきりとした瞳で、窓の外に広がる紫色の空を眺めていた。
「お母さん」
私が隣に座り、写真をテーブルに並べると、母の細い指先が、迷うことなくあの一枚――真っ白に飛び、父の走り書きがある最後の一枚に触れた。
「……ああ、昭三さん。やっと、陽子に渡せたのね」
母の口から漏れたのは、独り言のような、けれど確かな確信に満ちた言葉だった。
「お母さん、知ってたのね。お父さんが、夜中に私の絵を撮っていたこと。病気のことも」
母は、ゆっくりと私の方を向き、穏やかに微笑んだ。
「あの人はね、陽子。あなたが描く鉛筆の音が、この世で一番好きだって言っていたわ。書斎にいても、あなたの部屋から聞こえてくるカサカサという音に、じっと耳を澄ませていたのよ」
私の知らない、父の姿。
あの日、私が部屋に閉じこもって、怒りをぶつけるようにスケッチブックを塗りつぶしていた時。
父はその扉の向こう側で、私の奏でる「夢の音」を、愛おしそうに聴いていたのだ。
「お父さん、怖かったんでしょうね。自分が壊れていくのが」
「ええ。でもね、それ以上に怖かったのは、自分のせいであなたの翼が折れてしまうことだった。昭三さんは、自分がいなくなった後の世界で、あなたが一人で生きていける『強さ』をあげたかったのね。たとえ、そのために自分が憎まれることになっても」
母は、ひどく手ブレした私の卒業式の写真を指でなぞった。
「この日もね、家を出る前に、お父さん、鏡の前で何度もネクタイを締め直していたのよ。手が震えて上手くいかなくて……『これじゃ、陽子に笑われるな』って、困ったように笑って。結局、式場でも遠くからしか撮れなかったみたいだけど」
その光景が、鮮やかな映像となって私の脳裏に映し出された。
不器用な手つきで鏡に向かい、娘に会いたい一心で震えを抑えようとする父。
「お母さんも、辛かったでしょう。二人で秘密にして」
「いいえ。私はね、お父さんのあの真剣な横顔を見るのが好きだったの。あなたを想って、現像液の匂いにまみれている時の、あの静かな顔。……私たちはね、三人でずっと一緒にいたのよ。あなたが一人で戦っていると思っていた時も、このレンズがお父さんの目になって、ずっとあなたを抱きしめていたの」
母の手が、私の手をそっと包み込んだ。
カサカサとした、乾いた、けれど温かい手。
私は母の肩に頭を預け、二人で並んで、ピントの合わない写真たちを一枚ずつ見つめ直した。
そこには、完璧な構図も、鮮明な色彩もない。
けれど、どの写真にも、父の「震えるほどの愛」が、光の粒子となって溢れていた。
「お母さん。私、また絵を描くよ。今度は、お父さんが見ていたこの光を描きたいの」
「そうね。きっと喜ぶわ。あの日、ゴミ箱から拾ったあなたの絵を、世界で一番の名画だって自慢していた人だもの」
母の記憶が、再び夕闇の中に溶けていく。
眠たそうに目を閉じた母の横顔は、長く重い役割を終えた安堵感に満ちていた。
私は、父のカメラをぎゅっと抱きしめた。
ファインダーの向こう側で、父が、少しだけ照れくさそうに笑っているような気がした。




