第1話:埃の匂いと、冷めた茶
憎んでいた。でも、父は闇の中で私の夢を拾い続けていた。最後の写真が、あなたの涙を優しく現像する。
線香の匂いは、しつこい。
四十九日を終えて一週間が経つというのに、築四十年の実家には、まだあの白く煙たい香りが、壁紙の裏側にまで染み付いている気がした。
窓を全開にしても、春先の湿った風がカーテンを揺らすだけで、家の中に澱んだ空気は一向に外へ出ていこうとしない。
キッチンの一隅、父がいつも座っていた定位置は、今はただの四角い空洞だ。
私はそこに座る気にはなれず、シンクの縁に腰を預けて、コンビニのレタスサンドを口に運んだ。パサついたパンの耳が、砂のように喉に引っかかる。
冷蔵庫のコンプレッサーが、時折、思い出したように低い唸り声を上げる。その音が止むと、家の中は耐えがたいほどの静寂に包まれた。時計の秒針が刻む音さえ、自分の鼓動を追い越していくようで、落ち着かない。
「……さてと」
誰に聞かせるでもない独り言をこぼし、重い腰を上げた。
二階の書斎へと向かう階段は、一段上るごとにギシリと悲鳴を上げる。まるで、招かれざる客を拒んでいるかのようだ。
そこは、父・昭三の聖域だった場所だ。
生前、私が掃除に入ろうものなら「触るな、出ていけ」と低く短い声で拒絶された。
父は、言葉の少ない人だった。いや、言葉を持たない人だったのかもしれない。
私が小学校の運動会で転んで泣いた時も、反抗期に当てつけのように深夜に帰宅した時も、そして美大への進学を猛反対されて大喧嘩をしたあの日も。父はいつも、不機嫌そうに眉間に深い皺を寄せ、黙ってカメラを構えているだけだった。
ファインダー越しに世界を見ることで、目の前の現実――あるいは、娘という存在から逃げているのだと、ずっと思っていた。
書斎の重い引き戸を開けると、埃っぽい空気と一緒に、古い革と現像液のような特有の匂いが鼻をついた。
棚の奥、防湿庫の中で、黒い金属の塊が、窓から差し込む斜陽を鈍く跳ね返している。
父が命の次に大事にしていた、一眼レフカメラ『ニコン F3』だ。
私は、吸い寄せられるようにその「冷たい遺品」へと手を伸ばした。
指先が触れた黒いボディは、三月の冷気を吸い込んで、氷のように冷たかった。革のストラップは、使い込まれてところどころが擦り切れ、父の節くれだった指の感触が残っているような気がして、一瞬、胸の奥がチリと焼けるように痛んだ。
「これの、どこがそんなに良かったのよ」
私は、吐き捨てるように呟いた。
私を否定し、私の夢を「食っていけない」の一言で切り捨てた父。そんな父が、何よりも大切に、磨き続けていた道具。
このレンズは、私の心なんて一度も捉えていなかった。
私の夢を、私の涙を、私がどれほど父の言葉を待っていたかを。
けれど、そのカメラを抱え上げたとき、微かな違和感を覚えた。
カメラの中に、フィルムが一本、入ったままになっている。
父は、最後になぜ、このシャッターを切ったのだろうか。
死を目前にした男が、その曇った瞳で、最後に何を写そうとしたのか。
私は、カメラを握りしめたまま、夕闇が迫る書斎の真ん中で立ち尽くしていた。
窓の外では、夕焼けが血のような朱色を帯びて、静かに、けれど激しく世界を塗りつぶそうとしていた。




