復讐?もはやそんなことは考えていません。夫には務めを果たしていただくだけです。
【1】
「オレは、ウェイクフィールド侯爵家の当主だぞ! 愛人の一人や二人、いて当然だろう!」
ウェイクフィールド家当主の執務室、そこで我が夫、コリン・ウェイクフィールドは執務机を拳で叩きながら叫んだ。怒っていると同時に泣きそうでもある。まるで追い詰められた子どものような顔だ。
「そうですわね」
私、エリナ・ウェイクフィールドは静かにうなずいた。
私が嫁いだウェイクフィールド家は侯爵家、一般的な侯爵家の実態としては、そういうこともありうるだろう。
――問題は、その「愛人の一人や二人」を養えるだけの財力が、この家にはなかった、ということだけ。
この十年、火の車だった帳簿を前に、泣きたいのをこらえながら数字と向き合っていたのは、いったい誰だったのだろうか?
私が嫁いだ十年前、ウェイクフィールド家はあなたとお義父さまの起こした〝ビジネス〟とやらで、もはや破産寸前。それを私の実家から借金してまでなんとかやりくりしたことをお忘れですか?
「それとこれは別だ! 男にはちょっと火遊びしたいときもある」
その火遊び、随分と延焼していますけど……。
それこそ自分で消火できないほどに、ボーボーと。
「火遊びで子まで設けられるとは……」
「ワザとじゃない! 相手が勝手に妊娠してそれをずっと黙っていたんだ!」
お相手のせいにしますか……。
「せめて、お相手は考えていただかないと困りますわ」
「……な、なんだ、その言い方は」
「セシル・アシュフォード伯爵令嬢」
はっきりと名を口にすると、コリンの肩がびくりと震えた。
「アシュフォード家といえば、武門の誉れ高いお家柄」
「そんなことは知っている」
「レイモンド・アシュフォード伯爵は東部戦争の英雄。今も軍務局の重職にあり、領内には相応の私兵も抱えておいでです」
「そんなことは知っている……」
「そのご令嬢を身ごもらせ、出産までさせておきながら、正妻である私に話が来るまで、何一つ手を打っておられなかった」
私もコリンのことだ、お金に余裕ができたら女遊びするだろう。その程度のことは予想できていた。しかし、まさか、子供まで産ませるとは……。
この男、悪い意味で想像を超えてくる。
人間としての器は小さいのに不祥事の規模だけデカい……。
「だって……、そんな、大事になるとは思わなかったんだ……、普通思わないだろう!」
(普通は思うだろ……)
と、いちいち口に出して反論はしない。
くだらない弁明を聞くのに耳が疲れてしまったから。
鼓膜を振動させることすらもったいない。
「とにかくアシュフォード家は本気でお怒りになれば、私闘も辞さないお家ですわ。侯爵家と伯爵家の私兵同士が刃を交えるなど、家のお取り潰しもありえますが、アシュフォード家は処罰覚悟で動くかもしれません」
「……っ」
コリンの顔から、さあっと血の気が引いていくのがわかった。
ようやく、この人は理解したのだろう。
自分がしてきたことが、「ちょっとした火遊び」では済まされない規模の火事だということを。この火遊びは家ごと燃やしかねないのだ。
「と、とにかく、今は夫婦で争っている場合じゃないだろう!」
「ええ、それはそうでしょうね」
「エリナ、頼む! なんとかしてくれ。アシュフォードと話をつけてくれ。もちろん本当はオレが話をつけるべきだけど、オレが行くと、変に相手を刺激するからな」
半ば泣き声のような懇願。
十年前、借金だらけの帳簿を前にしたときよりも、もっと深いため息が漏れそうになる。
しかし、それをぐっと堪えて、柔らかな笑みを浮かべる。
「……承知しました」
私は、侯爵夫人としての顔を被り直す。
「できる限りのことはいたします。ウェイクフィールド家のために」
――ただし、それがあなたのためになるかどうかは、もう知りませんけれど。
【2】
私が自室に戻ると、ルカがすぐにティーセットの乗ったワゴンを持って現れる。
ルカはウェイクフィールド家に仕えるメイドで私と同じ二十八歳。
とても気が合い、今では友人のような関係性だ。
もちろんルカはしっかりと主従を弁えてくれているけど。
「奥様」
いつもの柔らかい声とは違う、ずいぶんと低い調子だった。
「どうしたの、ルカ」
「聞きましたよ……旦那様のトラブル」
トラブルという言葉を選んだのはルカなりの気遣いだろう。もっとふさわしい言葉はいくつもある。たとえば――愚行とか、醜聞とか。あるいは、あのクソ馬鹿のサイアクのやらかし。でも通じるだろう。
「それで、また奥様に『なんとかしてくれ』って泣きついてきたんでしょう?」
「……ええ」
さすが長いつきあいとあって、予想が正確だ。
「……かっ、ったる」
ルカが、あからさまに顔をゆがめて天井を仰いだ。
「なんでいつもいつも、後始末をなさるのが奥様なんです? 十年前、この家が破産寸前だったとき、誰が徹夜で帳簿をつけて、誰が畑に出て、誰が手を泥だらけにして立て直したと思ってるんですかね」
ルカは一応、ウェイクフィールド家のメイドだ。形の上ではルカの雇い主はウェイクフィールド家であり、コリンはその当主である。
にもかかわらず、その口から出てくるのは、私への肩入れと同情の言葉ばかり。
「ありがとう、ルカ。そう言ってくれるだけで、少し気が楽になるわ」
「慰めているんじゃありません。あたしは怒ってるんですからっ!」
ぷいとそっぽを向きながらも、手は慣れた動きでティーセットを並べていく。湯気の立つ紅茶の香りが、少しだけ張り詰めた神経をほぐしてくれた。
「十年前、奥様がここにいらしたときのこと、あたし忘れてませんからね」
――十年前。
「男爵家からお嫁に来られたばかりの奥様、あのときは今よりずっと、こう、おしとやかな、ご令嬢って感じで……」
「今もおしとやかなつもりなのだけれど」
「それはそうなのですが、強くなられました」
「そうかしら」
そんなつもりはなかったけれど。
でも、十年という時間は、思っている以上に人を変えてしまうらしい。
――十年前。
思えば、あのときも私は、家のために「なんとかしてくれ」と頼まれたのだった。
ただし、頼んだのはコリンではなく、私の両親だったけれど。
◇ ◇ ◇
もともと私は、ハートレイ男爵家の長女として生まれた。
家格は高くも低くもない、ごく一般的な田舎貴族。稼業は綿花の栽培と、少しばかりの織物。贅沢はできないけれど、慎ましく暮らしていくには不自由のない家だった。
その私が、ウェイクフィールド侯爵家への縁談を持ち込まれたのは、十八になった年のことだ。
『侯爵家よ、侯爵家。お前のような娘には、二度とないご縁だよ』
母はそう言って目を輝かせ、父は、何度も何度も首を縦に振った。
正直に言うと、私はあまり気乗りがしなかった。相手のこともろくに知らないまま、家格だけを見て嫁ぐというのは、どうにも味気ない。
だけど、ハートレイ男爵家の財政事情もまた、決して楽ではなかった。
侯爵家の豊かな嫁ぎ先に行ってくれれば、それだけで家の負担は軽くなる。親孝行になる。
――あのときの私は、そう信じていたのだ。
ところが実際に嫁いでみれば、そこにあったのは「豊かな侯爵家」ではなかった。
応接室の帳簿をちらりと見ただけで、私は血の気が引いた。
赤字、赤字、赤字。繰越損失。利子。借金の名義。聞いたこともない商会の名がずらりと並んでいる。特にここ最近の損失額は酷いものだった……。
聞けば、東方からの陶器の輸入販売に手を出したのだという。
異国の精巧な陶器は、一時は社交界でも評判を呼んだらしい。そこまではいい。
問題は、その陶器を積んだ船が、東方戦線への物資を狙う敵国の軍艦に攻撃され、まるごと海の底に沈んだことだ。
戦時中に、戦場に近い海路で商売をしようとしたのだ。
そんなもの、沈んで当然だとすら思った。
『まさか戦争になるとは思わなかったんだ』
義父――ハロルド・ウェイクフィールドは、苦々しげにそう口にした。
義父にとっては、「タイミングの悪かった運のないビジネス」だったのだろう。
しかし、開戦の噂は十分にあったし、目端の利く者は、次々に東方での商いから手を引いていた。
それが運の悪さとしか思えなかったのは夫のコリンも同じようで……。
これまでにも何度となく〝運の悪さ〟とやらに見舞われ、ウェイクフィールド家は資産のほとんどを失っている状態なのだった。
義父とコリンはすでに戦意喪失。
通常の仕事も家宰にまかせっぱなしで昼から酒を飲んでいる始末。
――私は腹を括った。
ウェイクフィールド家には広大な土地があった。
しかし、農夫を雇う余裕がなく、ほとんどが放牧地という名の荒れ地の状態。飼育している牛の質も悪い。
土壌は肥沃で日当たりもよいのにもったいない。
私はまず、実家から綿花の種を取り寄せた。
繊維の質が良く、光沢のあるグロウス綿ではなく、繊維の艶は落ちるがしっかりとした強い繊維のとれるバスティオン綿。
最初は、従業員を雇う余裕もなかった。
私と、数人の下働きと、文句を言いながらも手伝いに来てくれたルカとで、畑を耕し、種をまき、水をやり、草をむしった。
侯爵家の奥方が泥だらけになって畑に立つ姿に、最初は領民も戸惑っていたに違いない。
『奥様、そんなことなさらなくても』
そう言われるたびに、私は笑って返した。
『いいえ。これは私の家ですもの』
やがて綿花が実り、綿が取れ、少しずつ売上が上がり始めた。
私はさらに欲を出して、綿の種を搾って油をとり、石鹸を作った。
戦時中、贅沢な香油は手に入りにくい。だが、兵士だって汚れは落としたい。
質はほどほどでも、手頃な値段の石鹸なら、いくらでも売れた。
石鹸による副収入により、経済状況は若干マシになった。
しかし、やはり少人数での手作業には限界を感じる。
石鹸の収入を全額投入し、実家に借金までして、紡績機を購入した。
これで綿糸の生産量を爆発的に高める。
ちょうどそのころ、最新の発明、力織機の噂を聞いた。糸から布を織る機械である織機、それを水力の力で動かすというのだ。
私は、残っていた土地を担保にしてまで、紡績工場を建てた。
領内の川辺に建築された石造り三階建ての建屋。
綿花の塊をほぐす、打綿、繊維をすき、繊維の束を作る梳綿、糸を作る紡績、そして布を作る製織。できるだけ水力を利用して自動化を目指す。いくつかの過程では職人にオリジナルの機械の設計もさせた。
こうなってくるともはや自前の綿花だけでは材料が足りない。実家の綿花を仕入れ、さらには周辺の綿花を買い集める。
ウェイクフィールド家の布は丈夫で防水性が高いと評判になった。力織機を使った布は繊維の密度が高く、強いのだ。
狙いは、軍需品の布だ。
戦争はまだ終わりそうになかった。
兵士には、テントがいる。
雨風をしのぎ、寒さをしのぎ、暑さをしのぐ布がいる。
丈夫で、扱いやすく、そこそこの値段で納められる布――それを大量に供給できるとなれば……軍務局が放ってはおかなかった。
レイモンド・アシュフォード伯爵の名を聞いたのも、あのころだったっけ。
気がつけば十年。
借金はすべて返し終わり、ウェイクフィールド家の帳簿は黒字を維持している。
綿花の白い波は年々広がり、いくつも並ぶ水車が紡績機械を動かし続けている。
◇ ◇ ◇
ルカに淹れてもらった紅茶を飲み終わると、私は窓辺に立ち、カーテンを少し開いた。
初夏の陽光の下、一面の綿花畑が、ふわりと白く光っている。
視線を南側に移すと、川にそって石造りの工場が見える、増築を重ねて。今ではちょっとした街のように見える。
その工場に出入りするたくさんの人の姿。女性が多い。
「あそこにいる人たち、皆、奥様が連れてきたんですよ」
ルカが隣に立ち、同じように窓の外を見ながら誇らしげに言った。
「戦争のせいで未亡人になった方もたくさんいますからね。そのような方々の生活を救ったのが奥様です」
「私ひとりの力じゃないわ。人事をまとめているのはほとんどルカでしょう?」
ルカは人当たりのよさと人を見る目があり、工場の人事のいっさいを任せている。
メイドとしてだけでなく、事実上の工場長として忙しい日々を送ってもらっている。
「それも奥様のおかげです。奥様がいなければ、自分にそのような才能があること、気づかずに一生を終えていたでしょう」
綿花の白い波。
ゆっくりと回る水車群。
工場のレンガ屋根。
そこに暮らす人々と、その家族。
寝る間もないほどの多忙な日々と、コリンへの愛情がすぐになくなってしまったこともあって、この十年で子供を作ることはなかった。
だから、この光景こそが私の生んだもの。
――これだけは、燃やさせるわけにはいかない。
私は窓から目を離し、深く息を吸った。
「ルカ」
「はい」
「アシュフォード伯爵家に伺う支度をしましょう。できるだけ早く」
「……本当に、行かれるんですね」
「ええ。ウェイクフィールド家のために、そして――あの畑と工場のために」
コリンのため、とは口にしなかった。
なぜなら、あの人のことは本当にどうでもいいと思っていたから。
【3】
アシュフォード家当主レイモンド・アシュフォード伯爵との会談はごく短時間で終わった。
セシル嬢との間にできた女児は私の養子とし、育てること。少なくない慰謝料を当家からお支払いすること。ほか、諸々。
レイモンド伯は開戦以来、東方の最前線で司令官を長く務められたお方で、独特の威厳と怖さがあった。まさに死線を潜り抜けた人間の迫力……。
しかし、その怖さは私に向けられることはなかった。むしろ、客人として、丁重に扱われた。
「ワシは、優秀な大将が好きでね。わかるよ、アンタは優秀な大将だ」
口ひげを蓄えた口角をニッと上げ、豪快な笑みを浮かべると。
私に向かってワインのボトルを差し出す。
こうして私はレイモンド伯爵の薫陶を受けながら、〝ウェイクフィールド家の敗戦処理〟についてさらに腹案を打ち明けたのだった。
【4】
レイモンド伯を訪問して、十日後、旅行に出かけていたコリンが屋敷へと戻ってきた。
なぜこのタイミングで旅行にと誰もが疑問に思うだろうが、要はレイモンド伯が怒って私兵を率いて襲撃してくる可能性があると聞いて、慌てて逃げ出したのだ。
私が無事に話をつけたとの情報を聞きつけ、十分に日を取ってのご帰宅となったのだ。
私がレイモンド伯との話し合いの結果を告げると、コリンは満面の笑みを浮かべた。
「そうか。すべて、カタがついたか。よかった。まあ、多少金はかかってしまったが、金などまた稼げばいい。よかった。よかった」
たしかに身体さえ無事であれば、お金はまた稼げばいい。
それは正しい。
ただし、それは自分で稼いだ人間だけが言っていいセリフだという点に目をつぶれば、ですけれども。
「ま、これで気兼ねなく家ですごせるな。やはり家が一番だ」
コリンはそう言うと、ソファに身体を投げ出し、ごろんと横になる。
まあ、それも間違いではない。
コリンは報復を恐れて、どこかに身を隠していたのだ。
さぞ開放感で満たされていることでしょう。
でも……。
「旦那様、そう長くはくつろいでもいられませんよ」
「どういうことだ?」
「近日中に、出征となりますので、ご準備を」
その言葉を聞いて、コリンは先ほど寝転がったばかりのソファから跳ね起きる。
「しゅ、出征⁉ どこに?」
「東部戦線とのこと。東部戦線は最近さらに戦闘が激化していて、さらなる増員の要請がきております。ウェイクフィールド家の長として前線で指揮を執っていただきたく」
「オレが、戦争に行くだと……馬鹿な……」
「馬鹿な、もなにも、領地の人間もかなりの人数がすでに出征しております。ご存じでしょう? あなたもウェイクフィールド家の人間として範を示さないと」
貴族制は維持されているのもの、すでに軍事は王直属の常備軍によって行われており、貴族やその子息は常備軍に士官として参加することになる。
もちろん、それは我が家も同じ。そんなことはさすがのコリンも重々承知している。
だが……。
「それは、知っているが、まあ、あれだろ。オレは領地の運営で多忙で、残念ながら出征できないと……」
「はい。これまではそのようにお答えいたしてきました。もちろん、袖の下をお渡しして」
事実、十年に渡って続いている戦争に肉体的に問題のない三十歳の成年男子がまったく召集されないなどありえないのだ。
やれ「体調がすぐれない」、やれ「領地経営で難しい問題を抱えている」など、四季折々の言い訳を課金して提出していたのだ。
それをやめれば当然出征することになる……。
と、そのようなことをかいつまんで説明すると、コリンの顔は蒼白になる。
「いや、まだやはり忙しいし、身体も万全ではない」
「それは通りません。ずっとご令嬢と楽しく遊んでいたことが軍務局の偉い方に知られてしまったのですから」
軍務局の偉い方とは、もちろんレイモンド伯。
「実の娘さんを介して、日々の過ごされ方をお伝えされてしまっては、さすがに……」
「ぐうううっ!」
コリンは床に突っ伏して、拳で何度も床を打つ。
その絨毯は高かったので、あまり乱暴に扱わないでほしい。
「なあ、東方の最前線でなくとも、もう少し激戦地じゃないところに……」
私も軍需用品である綿布を卸している身。
戦況は常に耳に入っている。
現在の東部は国境を挟んで地獄の様相を呈していると。
お互いこの地こそが決戦の地と定め、兵力だけならず、新兵器の投入が徹底して行われており、まさに殺しの見本市のようになっているのだという。
「なあ、どうにかならないのか? 誰かに口を利いてもらって」
「あなたがその口を閉じてしまわれたのです」
私がそう言うと、コリンは床につっぷしたまま、小さく嗚咽を漏らした。
本当は四方に手を回せばどうにかなったかもしれない。
ただ、そんな気持ちがなくなってしまっただけ。
「我が夫は、この汚名を少しでも晴らすために、もっとも激戦の地で国のために尽くすことを望んでおります」
そうレイモンド伯にはお伝えしておいた。
別に死んでしまえなどとは思っていません。
ただ我が家の男として、しっかりと責務を果たしていただきたいだけ。
大いに遊んだあとは、しっかりとお勤めしていただかないと――。
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