ラストダイブ・サイバーパンク
ネオンの光が雨に濡れたアスファルトに反射し、虹色の水たまりを作っている。NEO TOKYOの夜は決して眠らない。高層ビルの隙間から漏れる人工の光は、まるで電子の血管のように街を這い回り、この巨大な都市という名の生命体に鼓動を与えていた。
ミサキ・カグラザカは、そんな街の喧騒から隔離された地下バー「アンダーグラウンド・アーカイブ」の奥のブースに座っていた。天井から垂れ下がるホロディスプレイには、様々な企業の株価や仮想通貨のレートが絶え間なく流れている。だが、それらの数字の洪水も、この場所の常連たちにとってはもはや背景の雑音でしかない。
二十八歳になったミサキの右腕は、肘から先が完全にサイバーウェアに置き換えられていた。マットブラックの装甲に覆われたその義手は、人間の手よりもはるかに精密で、はるかに強力だった。だが彼女にとって、それは単なる戦闘のための道具ではない。それは生きるための必需品だった。
右目もまた、生身のそれではない。義眼の表面には、時折青い光が明滅し、彼女が何らかのデータにアクセスしていることを示していた。首の後ろには、仮想現実への接続ポートが皮膚の下に埋め込まれている。脳の一部、肺、心臓――彼女の体の多くは、もはや生身のものではなかった。
だが、それでも彼女は人間だった。少なくとも、自分ではそう信じている。
「よお、ミサキ」
向かいの席に座る男の声が、彼女を現実に引き戻した。ジャック・コネリー。四十代半ばのフィクサーで、この街の裏の情報を一手に握る男だった。顔の左半分はかなり古いタイプのサイバーウェアで覆われており、その金属の表面には数々の傷跡が刻まれている。それぞれが、彼がこれまで潜り抜けてきた危険な仕事の証だった。
「ジャック」ミサキは軽く頷いた。「今日は随分と早いじゃない。いつもは深夜過ぎに連絡してくるくせに」
「急ぎの案件でな」ジャックは煙草を口にくわえながら答えた。「それも、お前さんにとって特別に興味深い内容だ」
ミサキは眉をひそめた。彼女とジャックの付き合いは三年になる。昼間は父の会社「カグラザカ・コーポレーション」でプログラマーとして働く彼女だが、別の顔も持つ。ハッカー兼ネットランナーとして、企業の機密データの抜き取りや、セキュリティシステムの突破を請け負っているのだ。
それは決して父に知られてはならない秘密だった。
「どんな仕事?」
「データ回収だ。簡単な話さ」ジャックは薄く笑った。「お前さんの親父んとこ——カグラザカ・コーポレーションのデータベースから、特定のプレイヤーデータを回収してほしい」
ミサキの義眼が一瞬、赤く光った。それは彼女が驚いた時の反応だった。
「親父の会社から? ちょっと待ってよ、ジャック。あたしがカグラザカの娘だって知ってて言ってんの?」
「もちろんだ。だからこそ、お前にしかできない仕事なんだよ」
ジャックはテーブルの上にデータチップを置いた。それは親指ほどの大きさの黒い直方体で、表面には複雑な回路パターンが刻まれている。
「報酬は五千万。前金で半分、成功報酬で残り半分だ」
ミサキは息を呑んだ。五千万というのは、彼女がこれまで受けた仕事の報酬の十倍以上の額だ。それほどの金額を提示されるということは、この仕事には相応のリスクがあるということでもある。
「何のデータを取ってくればいいの?」
「ゲームのプレイヤーデータだ。『アインソフオンライン』って知ってるか?」
ミサキの心臓が、義体となったそれが一瞬止まった。いや、実際には止まっていないのだろうが、彼女にはそう感じられた。
『アインソフオンライン』
それは彼女の人生の一部だった。いや、もしかすると最も輝いていた部分だったかもしれない。VRMMO――フルダイブ式の仮想現実大規模オンラインゲームの草分け的存在で、プレイヤーは仮想世界に完全に没入し、そこで冒険者として生きることができた。
ミサキはそのゲームを生産職――装備を制作するジョブを取って遊んでいた。彼女は「アレフ・アイン・ソフ」というギルドに所属しており、ゲーム内でも有数のコアゲーマーだった。
だが、そのゲームは三ヶ月前にサービスを終了した。公式発表では「採算性の問題」とされていたが、ミサキには釈然としない思いがあった。なぜなら、ゲームは依然として多くのプレイヤーに愛されており、課金売上も悪くなかったからだ。
「知ってるわ」ミサキは努めて平静を装って答えた。「あたしもプレイしてた。でも、もうサービス終了してるじゃない」
「ああ、だが過去のプレイヤーデータは残ってる。そして、なぜかそのデータがお前さんの親父の会社にあるんだ」
ジャックはデータチップを指で弾いた。
「このチップには、回収対象のプレイヤー名リストが入ってる。見てみろ」
ミサキは躊躇した。父の会社がゲームのプレイヤーデータを持っているなど、聞いたことがない。カグラザカ・コーポレーションは日本最大級の総合企業で、サイバネティクス技術から金融業まで幅広く手がけているが、ゲーム事業には関わっていないはずだった。
少なくとも、彼女の知る限りでは。子会社が勝手にやり始めたのだろうか。
ミサキは義手でデータチップを取り上げ、自分の義眼のポートに挿入した。瞬時に、チップ内のデータが彼女の視界に展開される。
そして、彼女は凍りついた。
リストに表示されていたのは、見覚えのある名前ばかりだった。いや、見覚えがあるどころではない。それらは全て、『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーの名前だった。
リアベル。ぬるぬるダークネス。アルケミスト・ホムンクルス。そして――
「……これ、あたしじゃん」
ミサキの本名である「ミサキ・カグラザカ」が、リストの最後に記載されていた。ゲーム内の名前ではない。現実世界での本名が。
「ちょっと、フィクサー、これどうなってんのよ」
ミサキの声は震えていた。義眼が赤く明滅し、彼女の動揺を表していた。なぜ父の会社が『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーリストを持っているのか。そして、なぜそこに彼女の本名が含まれているのか。
ジャックは煙草の煙を吐き出しながら、注意深くミサキの反応を観察していた。
「知らねぇよ」彼は肩をすくめた。「だが依頼主は『内部の人間でなければ不可能』だと言ってる。お前以外に適任はいないってことさ」
「依頼主って誰?」
「秘匿条項でな。教えられない。だが、確実に言えるのは、この情報を欲しがってる連中がいるってことだ。そして、その連中は相当な金を積んでる」
ミサキは混乱していた。三ヶ月前に『イーリアスオンライン』がサービス終了してから、彼女は元ギルドメンバーたちと連絡を取ろうとしていた。だが、誰とも連絡が取れずにいた。郊外に住んでいたメンバーも、NEO TOKYOにいたはずの他のメンバーたちも、まるで地上から消えてしまったかのように音信不通だった。
最初は、ゲーム終了の喪失感から一時的に連絡を絶っているのだと思っていた。『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーたちにとって、ゲームは単なる娯楽ではなく、もう一つの人生だったのだから。
だが、三ヶ月という時間は、一時的な喪失感を癒やすには十分すぎるほど長い。
「これ罠じゃないの?」ミサキは疑念を込めてジャックを見つめた。「あたしを父の会社に潜入させて、何か企んでるとか」
「お前を罠にかけて、俺に何の得がある? 三年間の付き合いで、俺がお前に嘘をついたことがあったか?」
それは事実だった。ジャックは確かに信頼できるフィクサーだった。彼が紹介する仕事は危険なものが多かったが、報酬は必ず支払われたし、情報も正確だった。
だが、それでもミサキの心に引っかかるものがあった。なぜこのタイミングで、なぜこの内容の依頼なのか。
「期限は?」
「四十八時間。つまり、明後日の夜までだ」
「短すぎない?」
「依頼主が急いでる。理由は聞いてない」
ミサキは唇を噛んだ。父の会社に潜入することは、技術的には可能だった。彼女は正規の社員として籍を置いているし、プログラマーとしてのアクセス権限もある。問題は、なぜ父の会社がギルドメンバーのデータを持っているのか、その理由が全く分からないことだった。
そして、もう一つ気になることがあった。
「ねえ、ジャック。ギルドメンバーたちが今どうしてるか知ってる?」
ジャックの表情が微妙に変わった。それは一瞬のことだったが、ミサキの義眼はその変化を見逃さなかった。
「なんで俺がゲーマーと付き合いがあると思うんだ?」
「だって、あんたがこの依頼を持ってきたってことは、この件について何か知ってるってことでしょ?」
「仕事は仕事だ。個人的な詮索はしない主義でな。それに、それを調べるのがお前の仕事だろ」
ジャックは立ち上がった。
「どうする? 受けるか?」
ミサキは迷った。報酬は魅力的だったが、それ以上に、元ギルドメンバーたちに何が起こっているのかを知りたいという気持ちが強かった。もしかすると、この依頼を通じて、彼らの行方について何かが分かるかもしれない。
「……分かった。受ける」
「賢明な判断だ」ジャックは満足そうに頷いた。「前金の二千万は明日の朝一で振り込む。あと、これを渡しておく」
彼はもう一つのデータチップをテーブルに置いた。
「何これ?」
「お前さんが親父の会社のシステムに侵入する時に使う、特別製のハッキングツールだ。これを使えば、痕跡を残さずにデータを抜き取れる」
ミサキはそのチップを手に取った。表面の回路パターンが、先ほどのものよりもはるかに複雑だった。これは明らかに、軍事級のハッキングツールだった。
「随分と高級品じゃない。こんなもの、どこで手に入れたの?」
「企業秘密だ」ジャックは曖昧に笑った。「だが、効果は保証する。ただし、使用後は必ず破棄しろ。痕跡が残ると、お前さんの身が危なくなる」
ミサキは頷いた。だが、心の奥では、なぜジャックがこれほどまでに念入りに準備をしているのか疑問に思っていた。普通の依頼なら、ここまで高価なツールを提供することはない。
「それじゃあ、また連絡する」
ジャックは背を向けて歩き去ろうとしたが、途中で振り返った。
「ミサキ。一つだけ忠告しておく」
「何?」
「この仕事が終わったら、しばらく街を離れた方がいい。長期休暇でも取ってな」
「どういう意味?」
だが、ジャックは答えずに店を出て行った。残されたミサキは、テーブルの上の二つのデータチップを見つめていた。
長期休暇を取れ、と彼は言った。まるで、何か危険なことが起こると分かっているかのように。
ミサキは義手でグラスを持ち上げ、残っていた酒を一気に飲み干した。アルコールが喉を焼き、彼女の不安を一時的に和らげてくれた。
だが、それは一時的なものでしかなかった。
翌日の午後、ミサキはカグラザカ・コーポレーションの本社ビルにいた。地上百二十階建てのこの超高層ビルは、NEO TOKYOのスカイラインを特徴づけるランドマークの一つだった。最上階には父・カグラザカ・タケシの執務室があり、そこから東京湾まで見渡すことができる。
だが、ミサキが働いているのは四十二階のシステム開発部だった。フロア全体が巨大なオープンオフィスになっており、数百台の端末が並んでいる。プログラマーたちは、それぞれ複数のモニターに囲まれて作業に没頭していた。
ミサキの席は窓際にあった。外を見ると、他の企業ビルが林立している様子が見える。それらのビルの壁面には巨大な広告ホログラムが投影され、様々な商品やサービスの宣伝が流れていた。
彼女は普段通りに業務をこなしながら、夜の計画を練っていた。父の会社のデータベースにアクセスするためには、まず自分のアクセス権限を調べる必要がある。プログラマーとして彼女が持っているのは、開発部門の限定的な権限だけだった。だが、昨夜ジャックから受け取ったハッキングツールがあれば、より高いレベルのデータベースにもアクセスできるはずだった。
問題は、そのデータベースがどこにあるのかということだった。『アインソフオンライン』のプレイヤーデータなど、ミサキの知る限り、カグラザカ・コーポレーションとは何の関係もないはずだった。
午後五時、定時が終わると、多くの社員が帰宅の途についた。だが、IT部門では残業は当たり前だった。ミサキも、いつものように夜遅くまで残る予定だと同僚たちに告げた。
夜八時を過ぎると、フロアにはまばらな人影しか残っていなかった。ミサキは周囲を確認してから、ジャックから受け取ったハッキングツールを自分の端末に接続した。
瞬時に、端末の画面が変わった。普段は見ることのできない管理者メニューが表示され、社内の様々なシステムへのアクセス経路が示されている。
ミサキの義眼が青く光った。彼女は端末と神経接続し、直接的にシステムにアクセスしている。これは通常のキーボードやマウス操作よりもはるかに高速で、ハッカーにとっては必須の技術だった。
彼女は社内ネットワークの構造を探索し始めた。カグラザカ・コーポレーションのシステムは複雑で、多層防御が施されている。だが、ジャックのツールは確かに高性能で、セキュリティの隙間を縫って侵入を続けることができた。
三十分ほど探索を続けた後、ミサキは奇妙なデータベースを発見した。それは「プロジェクト・DUO」というコードネームで管理されており、アクセス権限は最高機密に設定されていた。
普通なら、そのようなデータベースにアクセスすることは不可能だった。だが、ハッキングツールの力で、ミサキは何とか内部に侵入することができた。
そして、彼女が見たものは、想像を絶するものだった。
データベースには、『アインソフオンライン』のプレイヤーデータが大量に保存されていた。だが、それは単なるゲームデータではなかった。プレイヤーの行動パターン、心理分析、社会的関係性――それらが詳細に分析され、分類されていた。
特に『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーに関するデータは、他と比べて異常なほど詳細だった。各メンバーの現実世界での個人情報、家族構成、経済状況、健康状態――ゲームとは全く関係のない情報まで収集されていた。
そして、ミサキは自分の名前を見つけた。いや、見つけてしまった。
「被験者ID:AIS-12 ミサキ・カグラザカ 適合率:98.7% 推奨処置:フェーズ3移行」
被験者? 適合率? フェーズ3移行?
ミサキの心臓が激しく鼓動した。いや、義体の心臓だから実際には鼓動していないのだが、彼女にはそう感じられた。
彼女は震える義手で、他のメンバーの情報も確認した。
「被験者ID:AIS-01 カズヒト・スズキ(プレイヤー名:リアベル) 適合率:99.9% 処置済み:フェーズ3完了」
処置済み? フェーズ3完了?
リアベルに何が起こったのか。そして、他のメンバーたちは?
ミサキは必死にデータを漁った。だが、詳細な情報は別のサーバーに保存されているらしく、これ以上の情報を得ることはできなかった。
その時、彼女の端末にアラートが表示された。
「不正アクセス検知。セキュリティ部門に通報中」
ミサキは慌ててハッキングツールを回収し、端末との接続を切断した。だが、時すでに遅し。フロアの非常灯が点滅し、警備員が駆けつけてくる足音が聞こえてきた。
彼女は冷静に振る舞った。端末には通常の業務用ソフトウェアを表示させ、何事もなかったかのように作業を続けているふりをした。
「カグラザカさん、お疲れ様です」
警備員の一人が声をかけてきた。ミサキは振り返って微笑んだ。
「お疲れ様。何かあったんですか?」
「システムの誤作動のようです。念のため、フロアを見回っているんです」
「そうですか。あたしは何も気づきませんでしたけど」
警備員は彼女の端末の画面を一瞥したが、特に問題はないと判断したらしく、すぐに立ち去った。
ミサキは胸を撫で下ろした。だが、彼女の心は激しく動揺していた。
プロジェクト・DUO。被験者。適合率。フェーズ3。
これらの言葉が、彼女の頭の中で渦を巻いていた。そして、最も恐ろしいのは、リアベルが「処置済み」となっていることだった。それが何を意味するのか、ミサキには分からなかった。だが、良いことではないということは確実だった。
彼女は急いで身の回りのものをまとめ、会社を後にした。外に出ると、NEO TOKYOの夜景が彼女を迎えた。だが、いつもの美しい光景も、今夜は違って見えた。まるで、巨大な監視の目のように感じられた。
ミサキは急いで地下鉄の駅に向かった。だが、改札を通る時、彼女の脳内通信装置に着信があった。送信者はジャックだった。
「データは見つかったか?」
ジャックの声には、普段にない緊張が混じっていた。
「見つけた。でも、ジャック、これは単なるプレイヤーデータじゃない。何か大きな――」
「詳しい話は後だ。今すぐに安全な場所に移動しろ。お前のアパートはもう安全じゃない」
ミサキの背筋を、冷たいものが流れた。
「どういう意味?」
「依頼主からの追加情報だ。お前が社内システムにアクセスしたことが、すでにバレている。そして、お前を消そうとしている連中がいる」
「消そうって――」
「命を狙われてるってことだ。急げ、ミサキ。お前の時間はもうあまりない」
通信が切れた。ミサキは地下鉄のホームで立ち尽くした。周囲には何も知らない乗客たちが、いつものように電車を待っている。だが、彼女の世界は、たった今、完全に変わってしまった。
命を狙われている。父の会社に。
いや、それよりも重要なことがある。ジャックは最初から、これが危険な依頼だと知っていた。だからこそ、軍事級のハッキングツールを用意し、仕事の後は街を離れろと忠告したのだ。
つまり、この依頼は情報を盗ませるためのものではなく――
危険を知らせるためのものだったのだ。
ミサキは理解した。ジャックは彼女に、父の会社が何をしているのかを知らせたかったのだ。そして、それによって彼女が危険にさらされることも分かっていた。
だが、なぜ? なぜジャックが彼女を助けようとするのか? 三年間の付き合いといっても、所詮はビジネスの関係でしかないはずだった。
電車が到着した。ミサキは反射的に乗り込んだが、どこに向かえばいいのか分からなかった。自分のアパートは危険だとジャックは言った。では、どこに?
彼女は車窓から外を見た。NEO TOKYOの夜景が流れていく。この巨大な都市の中で、彼女は完全に孤立していた。頼れる人間は、ジャックだけだった。
だが、本当にジャックを信頼していいのだろうか? 彼もまた、この陰謀の一部なのではないだろうか?
ミサキは、自分が巨大な迷宮の中に迷い込んでしまったことを理解した。そして、その迷宮の出口は、まだ見えていなかった。
深夜二時。ミサキは24時間営業のカプセルホテルの個室にいた。畳一畳ほどの狭い空間だったが、今の彼女には十分だった。むしろ、この閉塞感が妙に安心感を与えてくれた。
彼女は床に座り込み、膝を抱えていた。義手で頭を抱え込むと、金属の冷たさが頬に伝わってくる。それは現実感を彼女に与えてくれた。これは夢ではない。悪夢でもない。紛れもない現実なのだ。
ミサキの脳内では、今日得た情報が混沌とした渦を描いていた。
プロジェクト・DUO。『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーたちが被験者として分類されていること。ギルドメンバーの一人だったリアベルが「処置済み」となっていること。そして、自分もまた標的であること。
しかし、最も理解できないのは、なぜ父の会社がこのような計画に関わっているのかということだった。
クニツナ・カグラザカ。日本最大級の企業を一代で築き上げた男。ミサキにとっては、尊敬すべき父親であり、同時に距離のある存在でもあった。だが彼女がサイバネティック改造手術を受ける際、父は莫大な費用を惜しみなく投じてくれた。最高品質の義体、最先端の神経インターフェース――それらは全て、父の愛情の表れだったはずだった。
だが、今思い返してみると、父の態度には何か不自然な点があった。なぜ初めての手術に、あれほど高価な軍事義体を選んだのか。通常の義体でも十分だったはずなのに。
そして、彼女の脳に埋め込まれた神経インターフェース。確かにそれは優秀で、ネットランナーとしての能力を飛躍的に向上させてくれた。だが、同時にそれは――
ミサキの背筋を、再び冷たいものが流れた。
もしかして、彼女の義体には最初からバックドアが仕込まれているのではないだろうか。父の会社が開発した義体に、監視機能や制御機能が隠されているとしたら――
彼女は慌てて義眼のセルフ診断機能を起動させた。複雑な診断プログラムが走り、義体の各部位の状態をチェックしていく。だが、表面的な検査では、特に異常は発見されなかった。
それでも、ミサキの不安は消えなかった。高度な隠蔽技術が使われていれば、通常の診断では発見できない可能性もある。
彼女は立ち上がり、カプセルの中で小さく歩き回った。三歩で壁に突き当たる狭い空間だったが、じっとしていることができなかった。
その時、脳内通信装置に着信があった。送信者はジャックだった。ミサキは一瞬迷ったが、応答することにした。
「ジャック?」
「無事か?」
「とりあえずは。でも、ジャック、あんた最初から知ってたでしょ? あたしが危険にさらされることを」
少しの沈黙があった。
「……ああ、知ってた」
「なんで? なんであたしにあんな依頼を?」
「お前を助けたかったからだ」
ミサキは眉をひそめた。
「助ける? 危険にさらしておいて?」
「お前は最初から危険の中にいたんだ、分かるだろ? ただ、それに気づいていなかっただけだ」
ジャックの声は重かった。
「お前の仲間たちは、一人また一人と姿を消している。表向きは転職や引っ越しということになっているが、実際はそうじゃない。連中はアレの被験者として回収されてるんだ」
「回収って——」
「詳しい内容は俺にも分からない。だが、一度回収された連中は、二度と戻ってこない。それだけは確実だ」
ミサキは壁にもたれかかった。膝が震えていた。
「なんで、あんたがそんなことを? あんたは関係ないでしょ?」
「関係ないって?」ジャックの声に苦笑いが混じった。「まあ、確かにそうだな。ただ三年間、お前の仕事ぶりを見てきて、情が沸いたってだけだ」
「情って――」
「お前はいつも真面目で、危険な仕事でも手を抜かない。報酬の交渉でも欲張らないし、他のハッカーみたいに調子に乗ったりもしない。そんなお前を見てると、娘を見てるような気分になるんだよ」
ミサキは戸惑った。ジャックが父親のような感情を抱いていたなど、思いもしなかった。ただ彼は数年前に娘を亡くしている。企業の坊っちゃんと何かあったらしいが、もみ消されたのか噂でしか話は聞かない。痴情のもつれか、遊ばれて殺されたかだろうとミサキは踏んでいた。
「でも、それなら――」
「最近、お前のギルド仲間の話をよく聞くようになったんだ。情報屋としてな。『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーが一人また一人と行方不明になってる。表向きは転職や引っ越しってことになってるが、実際には違う」
「どういうこと?」
「誰かが意図的に彼らを消してるんだ。そして、その『誰か』っていうのが、どうやらお前の親父の会社らしい」
「それで、お前も標的リストに載ってることが分かった。俺は、お前に逃げてもらいたかった。だが、『逃げろ』って言っても、お前は信じなかっただろう?」
「だから、あの依頼を――」
「依頼なんかじゃない。あれは口実だ。お前に真実を知ってもらい、自分の目で危険を確認してもらうための」
ミサキは義手の左手で顔を覆った。ジャックの優しさが、逆に心を痛めた。
「それで、前金の二千万も――」
「逃げるための資金だ。新しい身分証明書の購入、安全な隠れ家の確保、しばらくの生活費――それらに必要な金額を計算して用意した」
「あんた、馬鹿よ」ミサキの声は震えていた。「そんなリスクを冒してまで――」
「ただのエゴだ。気にしないでくれ」
ジャックの声は静かだったが、その中に強い意志が込められていた。
「あとはお前の義体にバックドアが仕込まれていないかどうかだな。もし仕込まれていれば、連中はお前の居場所を常に把握している」
ミサキの心臓が跳ね上がった。自分の懸念が的中していたのだ。
「どうやって調べるの?」
「俺の知り合いのドックに診てもらう。ただし、危険な賭けだ。もしバックドアが仕込まれていれば、除去手術をしなければならない。だが、それは――」
「死ぬかもしれないってこと?」
「可能性はある。お前の義体は高度に統合されてる。一部を除去すれば、他の部分に影響が出るかもしれない」
ミサキは唇を噛んだ。だが、選択肢はなかった。バックドアが仕込まれているなら、どこに逃げても無駄だった。
「分かった。やりましょう」
「本当にいいのか?」
「他に選択肢はないでしょ?」
ジャックは深くため息をついた。
「分かった。今からアドレスを送る。朝一番で向かってくれ。それまでは、絶対に移動するな」
通信が切れた。ミサキは再び床に座り込んだ。
ジャック・コネリー。三年間、彼女の仕事を見守り続けてくれた男。彼とは深い関係だったわけではない。ただ、情報屋として様々な噂を聞き、一人のハッカーの身を案じてくれただけなのだ。
そんな彼の優しさが、ミサキの心を幾分か温かくした。同時に、自分がいかに孤独だったかを思い知らされた。血のつながった父親は彼女を実験材料として見ており、本当に彼女を心配してくれるのは、赤の他人のフィクサーだけだった。
だが、同時にミサキは別のことを考えていた。何かしらの実験台になっていることは間違いないが、元ギルドメンバーたちはもしかすると生きているかもしれないと。
いや、データベースではリアベルは「処置済み」となっていた。それが何を意味するのか、ミサキには分からなかったが、きっと良いことではない。
彼女は義手で膝を抱え直した。金属の冷たさが、彼女に現実を思い出させる。これは夢でも幻でもない。彼女は本当に、命を狙われているのだ。
そして、その理由は――彼女がかつて『アレフ・アイン・ソフ』のメンバーだったからに他ならない。
だからと言って過去は変わらないし、輝いていたあの頃を捨てようとは思わない。
夜が明けると同時に、ミサキはカプセルホテルを出た。ジャックから送られてきたアドレスは、街の外れにある工業地区だった。古い工場や倉庫が建ち並ぶ一帯で、昼間でも人通りはほとんどない。
電車とバスを乗り継いで一時間。ミサキは指定された住所の前に立っていた。それは使われなくなった自動車工場で、窓には鉄板が打ち付けられ、入り口にはチェーンがかけられていた。
だが、建物の裏手に回ると、小さな扉があった。ミサキがノックすると、中から声が聞こえてきた。
「合言葉は?」
「カグラ」
扉が開いた。中から現れたのは、四十代後半とおぼしき女性だった。左腕と両脚が義体で、頭部には複雑な機械が埋め込まれている。彼女の顔は完全に機械のそれで、複眼レンズが時折回転して焦点を合わせていた。
「あんたがミサキね。ジャックから話は聞いてる。入りな」
女性は振り返り、薄暗い廊下を歩いていく。ミサキは後に続いた。
建物の内部は外観とは正反対で、最新の医療機器が所狭しと並んでいた。手術台、生体モニター、義体調整装置――それらは全て、闇医者が使うものとしては余りにも高級すぎた。
「すごいわね、これ」ミサキは感嘆の声を漏らした。
「当然よ。あたしは元軍医だからね。コネで良いやつを卸してもらってんだよ」女性は振り返った。「あたしの名前はドクター・K。本名は秘密さね」
奥の部屋に案内されると、そこにはジャックが待っていた。だが、バーで見た時とは全く違う格好をしていた。黒いレザージャケットを着込み、顔の左半分を覆うサイバーウェアは、より戦闘的なデザインのものに換装されている。
「よお、ミサキ」ジャックは心配そうに彼女を見つめた。「無事だったか?」
「何とかね」ミサキも微笑み返した。「あんたこそ、随分と物々しい格好じゃない」
「念のため、な」ジャックは苦笑いを浮かべた。「ドクター・K」
ドクター・Kは頷き、ミサキに手術台に横になるよう指示した。ミサキが従うと、ドクターは複雑な検査装置を彼女の頭部に接続し始めた。
「ちょっと痛いかもしれないけど、我慢しなね」
検査装置が起動すると、ミサキの頭の中に鋭い痛みが走った。それは神経に直接作用する痛みで、まるで脳を針でつつかれているような感覚だった。
十分ほど検査が続いた後、ドクター・Kは装置を止めた。
「やっぱりね」ドクターは深刻な表情で呟いた。「バックドアが三箇所に仕込まれてる。脳幹部、視覚野、そして運動野よ」
ミサキの顔が青ざめた。
「それって——」
「思考、視覚、行動の全てが監視されてるってことよ。しかも、必要に応じて制御することも可能な設計になってる」
ジャックが拳を握りしめた。
「つまり、連中はミサキを操り人形にしようとしてたってことか」
「その可能性が高いわね。でも、まだ制御プログラムは起動してない。今のところは監視だけよ」
ミサキは震えていた。自分の体に、自分の知らないうちに、そんなものが埋め込まれていたなんて。そして、それを埋め込んだのは――
「親父が――親父があたしにこんなことを――」
「落ち着け、ミサキ」ジャックが彼女の肩に手を置いた。「お前の親父が直接関わってるかどうかは分からない。カグラザカ・コーポレーションは巨大企業だ。全ての部門の活動を、社長が把握してるとは限らない」
だが、ミサキの心は乱れていた。例え父が直接関わっていなかったとしても、彼の会社が『プロジェクト・アダム』を推進していることは事実だった。そして、彼女の義体に監視装置を埋め込んだのも、その会社なのだ。
「除去手術は可能なの?」ミサキは尋ねた。
ドクター・Kは難しい顔をした。
「技術的には可能よ。でも、リスクが高い。バックドアは神経系に深く統合されてる。除去手術中に重要な神経を傷つけてしまえば、最悪の場合、植物状態になる可能性もある」
「でも、やらないと――」
「別の方法もある」ドクターは言った。「バックドアを除去するんじゃなくて、偽の信号を送って欺くのよ。つまり、あんたが別の場所にいるように見せかけることができる」
ジャックが身を乗り出した。
「それは使えるな。どのくらい持つ?」
「せいぜい二十四時間ってところね。それ以上は、偽装がバレる可能性が高い」
「十分だ」ジャックは頷いた。「その間に、街を出る手筈を整える」
ミサキは迷った。偽装工作をすれば、確かに一時的には逃げることができる。だが、それは根本的な解決ではない。いつかは追いつかれるだろう。
だが、除去手術は死のリスクを伴う。
「……偽装工作を」ミサキは決断した。
ドクター・Kは頷き、新しい装置を取り出した。それは小さなチップのような形をしており、表面には複雑な回路が刻まれている。
「これをあんたの神経インターフェースに接続する。すぐ済むよ」
手術は三十分ほどで終わった。ミサキは頭部に軽い痛みを感じたが、それ以外に変化はなかった。
「これで、あんたの位置情報は偽装される。連中には、あんたが都内の別の場所にいるように見えるはずよ」
「ありがとう、ドクター」ミサキは感謝を込めて言った。
「気にしないで。ジャックに借りがあるのよ」ドクターは微笑んだ。「それに、あんたみたいな子が企業の陰謀に巻き込まれるのはもう何度も見てきた。今まで散々企業には貢献してきたんだ。一回くらい助けてもバチは当たらないはずさね」
ジャックが立ち上がった。
「説明は後だ。今は移動が優先だ。ミサキ、準備はいいか?」
ミサキは頷いた。だが、心の中では様々な思いが渦巻いていた。
ジャックもドクター・Kも、本来自分とは何の関係もない人たちだった。それなのに、彼らは自分を助けてくれている。一方で、血のつながった父親は――
そして、元ギルドメンバーたちは――
「ねえ、処置済みって何?」ミサキは尋ねた。
ジャックとドクター・Kの表情が暗くなった。
「それについては、まだ詳しく調べてる最中だ」ジャックは答えた。「だが、良い知らせではないことは確かだ」
ミサキの胸に、重い石が落ちたような感覚があった。一体どんな状態になってしまったのか。
だが、今はそれを考えている余裕はなかった。彼女自身が危険の中にいるのだから。
「行こう」ジャックは扉に向かった。「車を用意してある。まずは安全な場所に移動してから、今後の計画を立てよう」
ミサキは立ち上がった。義体の足が、わずかに震えているのを感じた。それは恐怖のせいかもしれないし、興奮のせいかもしれない。
だが、一つだけ確実に言えることがあった。
彼女の人生は、昨日までとは完全に変わってしまった。そして、もう後戻りはできない。
工場の裏口から外に出ると、朝の光が彼女を迎えた。だが、それはいつもの暖かい陽光ではなく、どこか冷たく感じられた。
ジャックが運転する車に乗り込みながら、ミサキは振り返った。工場の建物が、後方に遠ざかっていく。そして、その向こうに見えるNEO TOKYOの摩天楼が、まるで巨大な牢獄のように見えた。
車は街を離れ、郊外の道路を走っていく。行き先は分からない。だが、ミサキにとって、それはどうでもいいことだった。
重要なのは、今の彼女は自由であるということだ。企業の陰謀も、自分の義体の中にある糞みたいな追跡装置も、今までの抑圧されてきた人生に比べれば些細なものだった。
「ふっ」
彼女は笑った。この状況に酔っている自分がどうにもアホらしくて。
ふと、彼女はある小説の一説を思い出す。そして自分も遠くない将来そうなるのだろうと、薄々理解した。
そこには確かこう書いてあった。
「高みを目指して、派手にくたばれ」