第八話
幸いというべきか、料理はともかく、裁縫は咲の性にあっていた。思えば女学校時代も裁縫の授業は好きだったし、ひとりでコツコツ作業をすること=咲の好きなこと、ということなのかもしれない。或人が手配してくれた先生に出された課題の刺繍をひとり進めていた咲の部屋の扉が、とんとん、と軽く叩かれる。
「はい」
「咲ちゃん? 今開けてもいい?」
「……は、はい。少々お待ちください」
普段は巴や他の使用人に呼ばれて咲が或人を訪ねるばかりだったから、或人が咲の私室を訪れるのははじめてだ。咲は慌てて刺しかけの布と教本を行李に片付け、手鏡で軽く前髪を直してから、「どうぞ」と或人に応えた。
「ごめんね。突然」
「いえ。……なにかご用事でしょうか?」
「うん。急に一日空いたから、お出かけしようと思って。今日は先生が来る日じゃないよね?」
なんでもない口調で言われて、咲は慌てて「はい」と頷いて立ち上がる。そんな咲に、或人は「急がなくていいよ」と言って笑った。
「この間仕立てた洋服、仕上がってきてたよね。あれ、着てるとこ見たいな」
「はい。わかりました、すぐに」
「だから急がなくていいってば」
支度が終わったら玄関に来てね、と言いおいて、或人が去っていく。咲は慌てて、行李ではなく、吊り下げ式の収納から、仕立て上がったばかりのワンピースを取り出した。サイズの確認のため一度袖はとおしているから着方はわかる。急いで着替えて、結い髪では似合わないかと髪を解き、少し考えて、髪の一部だけを髪留めで止める。紅を引き直し、姿見でざっと全身を確認する──或人の隣に並んでも大丈夫だろうか。見劣りするのは当然としても、連れとして及第点がとれるぐらいではあるだろうか? 不安に思いながら、或人をあまり待たせるわけには行かず、ハンドバッグを手に部屋を出る。
急ぎ足で玄関に向かい、洋館に入ったところで、少し踵のある靴を履く。
玄関で待っていた或人が、咲に気付いて、ぱっと、光が射したみたいな笑顔になる。
例えば咲が或人の執務室に顔を出したとき、あるいは外で待ち合わせたとき──或人はいつ何時でも、咲を見つけると、この『心の底から嬉しい』と言いたげな表情を隠さない。そして咲はその顔で見られるたび、どんな顔をしていいのかわからなくなる。
『君が好きなんだ』。
或人が言ったあの言葉が、たしかに本心なのだと突きつけられるようで──自分の顔がどうしても火照るから、咲はただ少し顔を伏せ、頭を下げることしかできなくなってしまうのだ。
* * *
ひとしきり咲の洋装を褒め倒した後、或人がまず咲を連れて行ったのは、流行りだという甘味屋だった。なんでも、もとは横浜で開業した店が見る間に評判を呼び、都内に進出したものなのだという。その看板料理──『アイスクリン』と言われる氷菓を、或人は、にこにこ笑って咲に示した。
「食べてみて。きっと、食べたことのない味がすると思う」
「はい、……つ、つめたい……!?」
「ね! びっくりするよね! いやあ、凄いよねえ」
石動の言っていた『新しいもの好き』は伊達ではないと言うべきか、或人は渡来の目新しいものや、人々の流行にひどく敏感だった。アイスクリンも、横浜での出始めの頃に食べて感動し、咲が来てからずっと、ぜひ食べさせたいと機会を伺っていたらしい。
「昔もさ、氷室っていうのはあって、冬の氷をとっておくみたいなことはできたけど……」
或人はつんつん白いアイスクリンをつついて、まるで検分するかのようにそれを見る。
「こんなふうに、人の手で何かを凍らせられるなんてなあ……。すごいよね」
「そうですね」
咲は視線をアイスクリンに固定したまま、ごく短く頷いた。本当のところを言うと、この口の中でとろける甘く冷たい食べ物にすっかり魅せられていて、口を開く時間すらもったいないような心地だったのだ。或人は、そんな咲に目を細めながら言葉を続ける。
「ほんの百年前は、将軍も天皇も、こんなものは食べられなかった。でも今は誰でも……とまではいかないけど、多分そのうち、誰もが食べられるようになる。不思議だよね」
「ほんの百年、ですか」
咲は僅かに目を瞬いた。咲にとっては、百年の昔、篠宮の家が栄えていたという江戸の時代も、とても想像できないほど昔に思える。けれども、或人のような広い視点を持つものにとっては、百年は『ほんの少し前』でしかないというのか。
あっという間になくなってしまったアイスクリンの器に視線を落としながら、百年前に思いを馳せる。
百年前に生きた人々は、ほんの数時間前の咲と同じように、この『アイスクリン』の存在さえ知らなかった。
こんなに美味しいものが、この世界に存在しうるということ。
「……では、私は、とても幸福なのですね」
しみじみと、咲は呟いた。
「そして、だとしたら……私たちの後に生まれるものは、私たちよりもっと幸福なのでしょうか」
百年前の誰もがアイスクリンを想像できなかったように、百年後には、もっと美味しい、想像もできないような食べ物が生まれているに違いない。
そんなことを考えながら咲がこぼした一言に、或人からの応えはなく──おかしなことを言ってしまっただろうか、と、咲は慌てた。未来のことなどわかるはずもないのに、空想で遠い先の他者を羨んでいるように聞こえてしまっただろうか? 顔を上げると、どこか驚いたような顔でこちらを見る或人と視線が重なって、咲はさらに慌ててしまう。
「あ、あの、」
「……そうだね」
或人が、なんだかひどく嬉しそうに目を眇めて笑う。
「そうだといい、……いや」
美しい顔をくしゃりと崩して、眩しいような目で咲を見て、祈るように、或人は言う。
「きっと、そうなるよ」
その顔を見た咲は、なんだかたまらない心地になって、思わず目を伏せる。
或人が、こんな風に、眩しがるみたいに目を細めて笑うとき──咲はどうしてか、締め付けられるように胸が痛んで、咲より年上なはずの或人を抱き寄せて、撫でたいような気持ちになる。何が大丈夫なのかもわからないまま、『大丈夫ですよ』と言いたくなる。まるで、寄る辺ない子どもにそうするみたいに。
おかしなことだ。或人は咲より年上の、精神的にも安定している、立派な成人男性なのに。というかそもそも、咲の側から或人を抱きしめるなんてできるわけがない。だから咲はただ小さな声で、「はい」と、せめて或人の祈りに同調するように頷いたのだった。
* * *
アイスクリンを食べ終えたあと、或人は『見せたい催事がある』と言って、咲を百貨店へと連れ出した。
百貨店は、上流階級の人々にとっての社交場であり、ここで最新の流行を取り入れることが、彼らにとっての一種のステータスにもなっている。百貨店側も、そんな彼らを飽きさせないように、様々な催事を企画する。そして今開催されているのは、『今見直したい、我が国の美』というテーマの企画展のようだった。
開国からこちら、世界中の好事家たちからの注目を集めているという自国の芸術は、こうした『外からの評価』をベースに再評価されることが増えてきた。絵画や陶器、漆器などが並ぶなか、見知った色味の一角に目が惹かれ、咲はそちらに視線を向けた。
檜で出来た家具などの指物、全国各地で工夫が凝らされていると言う寄木細工に、檜扇や櫛、簪といった飾り物──咲にとっては、馴染みの深い品物ばかりだ。そうして咲はその中の一角に、一つのブランドの品が、品良く並べられているのを見た。
──『天獻寳物』の品々だ。
咲はふらふらとその売場に引き寄せられ、うつくしい飾箱に収められた数々の品の中に、たしかに自分の手によるものがあるのを確認する。これはあの日作った櫛、これは……思わず伸ばそうとした手が、背後から聞こえた「あっ!!」の声でぴたりと止まる。
振り向くと、いかにも上品そうな仕立ての和服に身を包んだ親子が、自分の出した声を恥じるように口元に手を当てて立っている。娘の方は、咲より少し年下だろうか。まんまるに見開かれた目が真っ直ぐに咲の手の先の櫛に注がれていて、咲は思わず手を引っ込めて場所を譲った。
「申し訳ありません、どうぞ見ていただいて」
「いえ。買う予定のないものですので」
母親らしき女性が恐縮してそう言うのに、慌てて首を振る。そそくさとその場を離れてから、咲はそっと、親子がその櫛を眺める様をそっと盗み見た。
──柘植の櫛を作るための工程は長い。乾燥や燻から含めれば、一年の歳月がかかることもある。咲が担当したのはその中の一部、実際に歯を削り、持ち手に飾りの透かし彫りを入れるところだけだ。それでもどうしても気になってしまう。
「やっぱりこれがいい。このお花がとても可愛らしいでしょう」
「そうね。柘植は一生ものですから、あまり柄がないほうがいいような気もするけど……これは確かに素敵ね」
「ね。お友達と来たときからずっと欲しくって。ねえお母様、買ってもいいでしょう?」
咲はその他愛無い会話に、ついつい固唾を飲んでしまう。買って貰えるだろうか。もちろん今の咲は『天獻寳物』とは無関係で、買われたところでどうなるというわけでもないのだけれど──と思ったところで、「そうね。大切に手入れするのですよ」の声が聞こえて来て、ぶわりと、身体中が泡立つような感覚に包まれて、自分自身に驚いた。
柘植の櫛は、決して安いものではない。その上何本も持つようなものではなく、まさしく先の母親の言葉の通り、大切に使い続けるものだ。
その一本に、咲の手による品を選んでもらえた。
自分の作ったものが手にとってもらえる瞬間を、咲は、はじめて見たのだった。咲はもう隠れることも忘れて、店員を呼び止めて購入に移る親子の背中を見つめる。胸がどきどきとして、そわそわとして、口元がむずむずして、なんだか勝手に緩んでしまう。自分を落ち着かせようと、胸の前できゅっと手を握る。
「……敵わないなあ」
「え?」
──と、降ってきた声に、咲は慌てて視線を上げた。いつの間にか、傍らに或人が立っている……というか、いつから彼のことを忘れてしまっていたのだろう。慌てる咲を見下ろして、或人は「いや」と苦笑した。
「笑ったところ、はじめて見たなと思って」
「……え?」
思わず己の頬に触れる。笑っていただろうか、と、今まで笑ったことがなかっただろうか、という問いが同時に浮かんだ。
言われてみれば、確かに、篠宮にいるときはほぼ一人きりで、笑う必要などなかったから、笑うという行動そのものを忘れていた──のかもしれない。或人はそんな、ひとつの笑みも見せない女相手に優しくしてくれていたのか。恥ずかしさと申し訳なさでいっぱいになる咲を優しい顔で見下ろし、或人は「いいの?」と軽く尋ねた。
「あれ、欲しかったんじゃない?」
「いえ、あれは……」
と言いかけて、自分が細工師であることを或人に告げていないことを思い出す。咲は軽く首を振った。
「……いいんです。欲しい方の手に渡るのが一番なので」
「そう?」
或人は、それ以上を尋ねては来なかった。咲は手を握った──華族の奥方というものは働いたりはしないもので、咲はたぶん、もう鑿を手放した方がいい。
或人はもしかしたら、咲が作りたいと言ったなら、それを道楽として認めてくれるかもしれないけれど──そうして作ったものの行き先があるわけでもなく、咲が何か作ることにきっと意味はない。
けれど。
(──作りたい)
胸の内からふつふつと湧き上がるこの思いを、一体どうすればいい──そもそも木から離れて生きていける己ではなかったのだ、と、そう気がついて、咲はひとり途方にくれたのだった。
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