第六話
或人は、咲を、様々なところに連れて行った。
或人は出先では『朱雀院』の名は使わず、『どこぞの華族の御曹司がお忍びで遊び歩いている』という体で、気楽に過ごすのを好んでいるようだった。周りもそれを心得ているようで、咲はどこでも『婚約者』として紹介されたきり、詳しく素性を問われることもなかった。
その日──或人が渋々御所へ行った帰り、約束のとおりに合流した咲が連れて行かれた仕立て屋でもまた同様で、突然の訪問にも関わらず、店員は丁寧に或人と咲を迎え入れた。見本品が並べられ、女性店員の手で採寸され、たくさんの布を身体に当てられ、わけもわからないままに数着の注文が終わっていた頃には咲はもうへとへとで、出されたお茶に口をつけたときには、思わずほっとした息が溢れた。
「ごめんごめん、一人で盛り上がっちゃって。大丈夫?」
「……はい、その、……すみません、布を見るのが楽しくて……」
出されたのはどれもひとめで上等とわかるような品々で、咲はその細かい織、精緻な柄に当然見惚れた。夢中になったせいでより疲れた、とも言える。
「君も楽しかったなら良かった。完成が楽しみだね」
出来たら着て出かけようね、と微笑む或人は、心底から楽しんでいるみたいに見える。けれども──と、咲はその顔を伺いながら口を開いた。
「あの……」
「うん? 何かな。他にも気になるのがあった?」
「いえ! そうではなくて! ……その、……こんなに作っていただく理由がないというか、申し訳なくて」
「……うん?」
或人がきょとんと首を傾げ、そのうつくしい顔に負けないように、必死で自分を鼓舞しながら続ける。
「或人様は、私を『形式上』婚約者とする、とおっしゃいました。……今なら、その意味がわかります。或人様は、叔父の元から、私を助け出そうとして下さったんですね」
朱雀院の館で過ごすようになって、咲は、『世間一般の暮らし』というものを知った──というか、思い出した。両親が突然死に、身寄りが叔父しかいなくなった衝撃で、叔父からの扱いは『正しくはなくとも無理ではない』範囲のものだと思い込んでいたが、そんなはずはないのだ。
たとえ咲がただの『見習い職人』の立場であったとしても、給金は支払われ、休日は存在しなくてはならないはずだった。あるいは逆に、咲がただの居候の身の上であったとしたら、最低限の食事だけを与えられ部屋に軟禁されるという、使用人以下の扱いを受ける謂れはなかった。咲の言葉に、或人は軽く目を細めた。
「まずは気付いてくれたようで何よりだ。人は、置かれた状況を『正しい』と思いたがるものだから……もう、『帰されてもいい』なんて思わないね?」
「……はい」
「それは良かった」
「ですが、……だからといって、そのために『婚約者』にしていただいた私には、このような……贅沢をさせていただく理由はありません」
或人が咲を『使用人』ではなく『婚約者』にした理由は、陰陽寮にうるさく言われるのを防ぐため、ということだった。
ならば、それこそ『形式上』の婚約者の咲に、本当の婚約者のように構う理由がわからない。咲を或人にあてがいたい石動や巴が咲を或人に近づける理由はわかるが、或人の側から咲に近付いてくる理由はないはずなのだ。
理由のない施しは、ただ、咲を戸惑わせる。咲の問いに、或人は少し揶揄うように笑った。
「理由、ね。言わせたいんだ? 案外駆け引き上手なのかな」
「……え?」
「嘘だよ、ごめんごめん。……理由なんて、簡単でしょ。僕が、君のことを気に入っているからだよ。君が好きなんだ。好きな子には、なんでもしてあげたくなる。当たり前だろ?」
「…………は?」
そのあっさりした告白に、咲が、あんまりぽかんとした顔をしたからだろうか。或人は「はじめて見る顔だ」と嬉しそうに笑い、片ひじをつきながら、向い合せで座る咲へと手を伸ばす。そうして、咲の頬をそっと撫でながら或人は言った。
「いや、本当なんだよ、これ。陰陽寮の卜占も馬鹿にできないっていうか……君に会ってはじめて、自分にも『好み』っていうものがあるんだなってわかったというか。いやあ、いくつになっても新しい発見ってあるものだよね」
その指先があんまりに優しく、視線が蕩けるように甘いものだから、咲はただただ言葉を失って或人を見返すことしかできなくなってしまう。……好み? 咲が? 趣味が悪い、という以前の問題というか、咲の見た目にも性格にも、そこまで突出したものがあるとは思えない。混乱している咲に、「信じてないな」と或人はまた笑った。
「本当だよ。……目が覚めて、君の顔が目に入って、特別だってすぐに分かった。さらさらの髪と、真っ直ぐな目。肌があんまり白いから、触ったらどんな感じがするんだろうって思った。……こんな感じか」
むに、と少し強く押されて、その指先の感覚に心臓が跳ねた。顔が赤くなるのがわかり、それでも、視線を逸らせない。そうして咲を捉えたまま、或人はあんまり滑らかに言葉を紡いでいく。
「いつも一生懸命考えてるから口数が少ないところも、目が惹かれるものがあると視線がぴたって固まって動かなくなるところも、きれいなものをみると目がきらきらするところも、全部、かわいいなって思ってるよ。……そう、だからこうやって君に色々見せるのは、完全に僕の『道楽』だ。君の顔が見たくてやってるんだよ。だから、君が遠慮する理由はどこにもない」
そう……なのだろうか? 理屈は通っている、ような気がする。大前提を受け入れればだ。
(──或人様が、私のことが好き?)
そんなはずはない。
或人が言っていることが本当ならば、或人は初対面のその時から、咲のことが気にっていたということになる。
(でも、或人様は、『僕は君を、絶対に『番』にはしない』と言った……)
『番』とは『妻』である、と巴は言っていた。
ならば──或人が本当に咲のことが好きならば、或人が咲を『形式的に』婚約者にする理由はない。或人はごく当たり前に咲を手に入れることができる──婚約も結婚も、『形式的』とつける必要はないのだ。咲が抱いた疑問に応えるように、或人はそっと咲の頬から手を退いた。
「わけがわからない、って顔だね。……うーん、どう説明したらいいかな。君は遠慮する必要はないし、同時に、僕を好きになる必要もない。『形式的』っていうのはそういう意味だ。僕が君を存分に可愛がるための『形式』で、ほんとうの意味での『婚約』じゃない、ってこと。君は『婚約者』としての義務を負わないし、本当に結婚する必要はない」
「……それは、どうして……」
「僕が君に与えるものは、僕の好意によるものだから、君には気にせず受け取ってもらいたい、ってこと。そして、それを受け取ったからと言って、君が僕の好意を受け入れたとは、僕は絶対に判断しない。君が僕の『好意』に縛られるのは、陰陽寮の本意ではあるだろうけど、少しも僕の本意じゃない。……僕は君にただ、自由にしてほしいんだよ」
「……自由……?」
ひどく、難しいことを言われた、という気がした。
或人はつまり、権力や立場を利用して咲を縛り付けることはしたくない、と、そう咲に言っているのだろう。『婚約者』というのは、縛り付けるためのものでなく、或人が咲にあらゆる施しをしたいがためだけのものだと、そう言っている。
けれどもそれは、あまりに身勝手ない言い分だ。
こんなうつくしい人に好意を告げられ、たくさんのものを与えられ、嬉しくならないことは不可能だ。その喜びとは完全に別に──『自由に』、或人のことを考えることなんてできるはずがない。
それなのに人は、その不可能を咲に強いている。こちらは勝手に与えるけれど、その『与えるもの』には囚われるなと言っているのだ。思わず難しい顔になる咲に、「まあ、そう難しく考えなくていいからさ」と、やはり難しいことを或人は言う。
「君はただ、うちで、のんびり過ごしてくれればそれでいい。……君を僕の『番』だと判断した以上、陰陽寮は、絶対に君を手放さない。だから君は、安心して、僕らを利用すればいいんだ」
「利用……」
「そう。君はまず、君が元いた状況のおかしさに気づくことが出来た。だからやっと君は、未来のことが考えられる。……僕は君に、君の望むとおりに生きて欲しい。でも君はまだ、『自分の望み通り』がなにかもわからないだろう?」
或人はただ、優しい目で咲を見て微笑んでいる。
或人の言うことは正しい、と咲は思う。なにひとつ咲に無理強いしたくない、という思いが何より強く、それが彼が、この婚約を『形式的』と言い張る理由だということも、どうにか飲み込むことが出来たと思う。
けれども、それよりなにより、咲は自分の中にふと浮かんだ感覚、或人の言葉の端々に感じる『身勝手さ』の正体を確かめたくて、ただまっすぐに或人を見つめる。
「だから君は、僕たちを利用して、いろいろなものを見て学ぶんだ。──君がどう生きたいかを決める、その、礎をつくるためにね」
或人は。
咲が、『咲の望むとおり』に『どう生きたいかを決めた』とき、そこに或人の姿はないのだと決め込んで──『手放す前提で咲を愛でている』みたいに、咲には思える。殊更に『自由』を強調しているのは一種の予防線──あるいは、或人が、咲が或人を望まないことを望んでいるからであるとさえ感じられるのだ。
未来を誓わない──あるいは、未来に期待しない。そういう、『身勝手』で一方的な愛し方。
(……どうして? 『好き』だと言うのなら、普通は、『好きになって欲しい』と、結婚したいと、そういうふうに思うものなのでは……?)
けれども、いくら見つめても、或人の微笑みは変わらない。そして、咲がもしこの疑問を口にしたとして、或人はきっと、『咲の自由にして欲しいから』としか答えないだろう。
だから、咲は結局そっと目を伏せてただ、「わかりました」と頷いた。そして思った。
そうと期待されていないのなら──咲はきっと、或人を、好きになってはいけないのだろう、と。
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