第五話
失礼します、と、襖の向こうから声がして、咲は文机から視線を上げた。
咲に与えられたのは、奥向きの別棟にある畳敷きの部屋だった。こうした館は、表向きはモダンな洋館として、奥の生活空間は馴染み深い和室に設えられていることが多いのだという。咲としても、馴染んだ和室のほうが過ごしやすく(なにより、靴を履いたまま生活することに対する違和感が強い)、東の庭が見える大きな窓と新しい藺草の匂いのするその部屋が、咲はすっかり気に入っていた。
「はい、何でしょうか」
気に入ってはいるが──はじまったばかりの新しい生活、『朱雀院或人の婚約者』という立場には、まだまだ慣れたとは言いがたい。咲が返事をすると、襖が開いて、袴を履いた一人の女性が「失礼します」と頭を下げた。
「石動が──いえ、或人様がお呼びです。本館まで来ていただけますか」
* * *
「ほんとに行かなきゃダメ?」
「ダメに決まっているでしょう、帝直々のお呼び出しですよ」
「いやそれ、ほんとにちゃんとした理由なの? 嫌だよ僕、愚痴の聞き役やらされるのはさあ」
中から、駄々をこねる子どものような声が聞こえる。
石動の同僚である小鳥遊巴が「失礼します」の声とともに扉を開けて、咲はその後ろから恐る恐る部屋に足を踏み入れた。
朱雀院は『神に近い』その性質が故、代々当主は陰陽寮の『実質の』トップである、というのは、石動によって説明されたことのひとつだった。故に、朱雀院の館には多くの陰陽師が出入りし、或人は執務室で日々業務に追われている……べきなのだが、どうやら或人は、あまり仕事熱心な方ではなく、石動たちを困らせているのだという。
巴の後ろから顔をのぞかせた咲を見つけた或人の顔が、ぱっと輝く。或人がこちらにやってくるより前に、ここにくる道すがら巴に言い含められた通りに、咲は慌てて口を開いた。
「あ、あの。今日、外でお仕事があると伺って……!」
咲の言葉に、一転、或人が唇を尖らせる。
「……なんだ、巴ちゃん、チクりに行ったの? 僕が、咲ちゃんの言うことなら聞くと思って──」
「それでその、私も巴様に、銀座に、連れて行って頂く予定があって!」
もちろん、嘘である。
というか、その予定は『今』できたと言うのが正しい。巴は咲と歳が近いこともあり、咲のことを気にかけて、「今度一緒に甘味処に行きましょう」と誘ってくれていた。その『今度』が急遽『今日』になったのだ。そしてその理由は、当然、視線の先の或人にあった。
「その、……或人様のお仕事が終わり次第、合流できたら嬉しいな、と……!」
口頭で覚え込まされた通りの台詞はきっと棒読みだっただろうが、或人はそうとは思わなかったようだった。そもそも咲は口が達者な方ではないから、素で喋ったところで棒読みと大差なく聞こえているのかもしれない。或人はまたころりと笑顔になって、「それはいいね」と頷いた。
「ちょうど、連れていきたいお店があったんだ、僕も。咲ちゃん、洋服はまだ仕立てたことないでしょ? そろそろ暑くなるし、ワンピースなんて作ってみたらどうかなあと思ってさ」
「洋服、ですか」
「うん。何色が似合うかなあ、やっぱり白? でも柄があるのも捨てがたいよね」
「或人様」
うきうきと考えはじめた或人の前に、どん、と石動が紙の束を置く。
「元気が出てきたようで何よりです。では、まずはこちらの処理を。その後、御所に顔を出していただいて……咲様との時間はその後に」
「……いや、僕としては、今すぐにでも出かけたいぐらいなんだけどな~?」
「或人様」
石動が声低く圧をかけ、巴が咲の着物を軽く引っ張ってくる。上手いこと言いくるめろ、の合図だ。咲は必死で考えを巡らせた。
「あ、あの、昼食はもう準備が始まっていると思うので、食堂で一緒に食べませんか。元々、午後に出かける予定でしたし」
「……そう?」
「或人様、出かけるなら色々と準備があるんですよ、女性には。かわいい咲様が見たいでしょう?」
「咲ちゃんはいつだってかわいいけど……」
「そういう意味じゃないってわかって言ってるでしょう」
そう言って或人を睨みつける巴のほうが余程可愛らしい顔をしているのに、と思いながら、咲は話の行く末を見守る。或人は渋々「わかったよ」と頷いた。
「僕じゃなきゃできない仕事ってわけでもないのにさ、こき使わないで欲しいよね」
「いや、貴方じゃなきゃできない仕事ですが?」
「そんな仕事ないよ~」
とぶつくさ言いながらも、或人は積まれた書類をつまらなそうに眺めはじめる。咲はほっとして、「では」とそそくさと部屋から出た。「あっそんなすぐ居なくならなくても!」の声は聞こえなかったことにする。ほっと廊下で一息つくと、巴が「お疲れさまでした」と満面の笑みで咲を見た。
「日に日に或人様使いがお上手になられますね!」
朱雀院に来てからの、咲の最大の役割が『これ』だった。面倒くさがりで仕事嫌いの或人の『ご褒美』役──咲自身としては自分などがなぜ『ご褒美』になるのかまったくわからないのだが──、或人のやる気をあの手この手で引き出させるための存在として、石動と巴は咲を便利に使っているのである。巴の言葉に、咲は戸惑って視線を落とした。
「そ、そんなことは……。どちらかというと、或人様に気を使わせてしまっているようで」
咲が上手くやっている、というより、或人の側が周りの思惑を察して、咲に恥をかかせないようにしてくれている──と、少なくとも咲には思える。石動や巴からしてみれば、或人が仕事をしてくれさえいいのだから、どちらでも問題ないのだろうが。思わず小さくなる咲に、巴は本気の顔で「いやいやいや」と手を横に振った。
「気を使うとかないですから、あの方。もし使っているんだとしても、それは、相手が咲様だからですよ」
「……そうなんですか?」
「そうなんです。自由を絵に描いたようなひとですからね。……やっぱり、『番』は特別なんですねえ」
二人並んで、咲の部屋に戻る道を歩きながら、しみじみとした口調で巴が言う。──『番』。咲は思わず巴に尋ねた。
「その……『番』というのは、結局、なんなんでしょう? 占で選ばれたということですが」
「何……うーん、何、というのも難しいですねえ。少なくとも、妻であることは確実です。そうでなかったことはないといいますか……」
巴は、どこか慎重に、言葉を選んでいる風にしながら続ける。
「或人様は……というか、朱雀院は、と言いますか。あの通り、浮世離れしておられるでしょう? そういう存在を繋ぎ止めておく……そのために、『番』があるのだと聞いています」
「繋ぎ止める……?」
「はい。……ですので、やはり、咲様は、十分そのお役目を果たしておられると思いますよ。咲様がいらしてから、或人様の在室率は格段に改善されていますので!」
ぐっと力を込めて巴は言って、咲はまた「そうでしょうか」と曖昧に首を傾けた。なるほど、初対面が東屋であったことからもわかるとおりに、以前の或人は、しょっちゅう仕事を抜けては巴たちを困らせていたのかもしれない。
けれども。
『或人様を──そして、我々を、救っていただきたいのです』
あの石動の言葉の真意がまさか、仕事をしない或人を捕まえてくれと、そういう意味であったはずがない。咲はひとり考え込み、部屋についた途端に巴が「では、お召し物を選びましょうか!」とうきうきした口調で言ってきてはじめて、巴の『さまざまな準備』が方便ではなかったことを知ったのだった。
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