第一話
咲の住まいは、篠宮の屋敷の北西の隅にある。
日当たりは悪く、布団と行李、それに小さな机だけでいっぱいになってしまうほどに狭い。いつもどこかじめじめとしたその部屋は、当然居心地がいいとは言えず、けれども咲は、この部屋に不満を抱いたことがなかった。どうせ寝て起きるだけの部屋だからだ。
咲が一日の大半を過ごすのは、部屋から少し歩いたところにある作業場である。
屋敷の別棟であるその建物もまた、広いとは言えない。けれども、狭い土間と、六畳ほどの板の間とで構成されたその建物こそが、咲にとっての聖域だった。
様々な大きさに切り出された木材が積まれたそこで、咲は毎朝深く息をする。
木の匂いがする。咲の体に染み付いた、咲を生かす匂いだ。
積まれた木材の上に、品目の一覧が書かれた紙が置かれている。今日のノルマだ。切り出された木を検分するときだけ、咲はすこしだけ残念な気持ちになる──本来であれば、木材を加工するより前の段階──長い年月を掛けて乾燥させ、鋸を引くところもまた仕事のうちであるはずだからだ。
けれども、叔父は、職人ではなく商人だ。分業するほうが合理的であると、そう考えているのだろう。故に、咲のところに届けられるのは、用途によって切り出された状態の木々となるのだった。
(木を見なければ、わからないこともある。父はそう言っていたけれど……)
両親が事故で死んだのは三年前、咲が十五歳のときだった。
木工細工師であった父の一人娘であった咲は、幼少期より細工師としての手ほどきを受けていたとはいえ、まだまだ半人前にも至らぬ程度の腕前だ。教わりたいことが、教わらなければならないことがたくさんあった──けれども現実の咲は、誰に教わることもできぬまま、半人前の技術でどうにか木を彫るより他にない。咲は小さくため息を吐いた。
部屋の中心に座り、ひとつめの木を手にとってそっと撫でる。
一覧を上から確認し、彫るべき文様に合わせて印をつけ、無心に彫る。父の形見の工具の数々──鋸に鑿、鉋に彫刻刀──は、三年の時を経て、すっかり咲の手に馴染むようになった。
柘植の櫛、簪、扇、香箱や鏡台を飾る細かな細工、寄せ木細工の箱や子供向けの玩具など、一覧の品は多種多様で、ひとつひとつはさほど大きなものではない。それぞれの用途に合った木からそれらを彫り出し、寸分の狂いもなく刳り出されたパーツをぴたりと組み合わせていく様は、端からは奇術めいてすら見えるかもしれない。もちろんその技に感嘆する観客はここにはおらず、咲はただ淡々と、与えられたノルマをこなすことに注力する。
(──『祈るように作りなさい』と、父は言った。目にする人の、手に取る人の顔を想像し、祈りながら作りなさい、と)
時間に追われるように作りながらも、咲はその言葉をいつも胸においている。否、少なくとも、おいて作っているつもりではいる。できているのかを判定してくれる人はいないから、咲はただ、自分自身に言い聞かせる。
祈るように作りなさい。
(──でも、わたしは)
ぴり、と、指先に痛みが走る。
木の一部がささくれてできた棘が、親指に刺さっているのが見える。品物に血がついたら大変だ。咲は刺抜きで棘を抜き、止血をし、包帯を巻いてから作業を再開した。行灯の揺れる光で細かい細工を行うのは不可能だから、仕事はいつだって時間との戦いだ。父の教えに忠実にあろうと勤めながら──それでも、と、脳裏によぎる思いは止められない。
(わたしは、その『顔』を、一度も見たことがない……)
そして多分、今後も一生、見ることはない。
専用の作業場で、一人黙々と作業をこなす、今の日常に不満はない。
両親が生きていた頃は女学校に通わせてもらっていたけれど、元々社交的な性分でもなく、父と作業場で向かい合っている方が気が楽だった。行きたいところもやりたいことも、これといって思いつくわけでもない。
だから、これでいい。今のままで。
それは、多分に自分に言い聞かせるための言葉であったけれど──同時に、間違いなく本心でもあった。
つまるところ、私・篠宮咲は、さほど現状を不遇とも思わず、これからも決して変わることがないのだろうと決め込んで、ただ、静かな日々を過ごしていたのだった。
* * *
──そもそも、篠宮は元々は、古くは『禁裏御大工』と呼ばれた、御所や寺社の建築に携わる家系であった。
その後、篠宮は宮大工ではなく神具や寺社の飾りなど細かい細工物を専門として取り扱うようになり、また、時代が江戸に移り変わってからは、幕府お抱えとして禄をいただく身分となった。職人でありながら武士相当の扱いを受け、大きな屋敷を構え、多くの弟子を抱えていた時代もあったらしい。
けれども、時代は更に移り変わった。
大政奉還が行われ、幕府が政の中心となる時代は終わりを告げた。多くの武家と同じように、篠宮の家もまた幕府の保護を失って、その名前のみが残された。
咲が物心つくころにはもう、篠宮の家からかつての栄華は失われて久しく、父は一介の町工匠となっていた。かつて寺社や屋敷に収めていたような大規模な細工物を取り扱うこともなく、それこそ今咲が作っているような小物類、はたまた日常使いの器などを細々と売り、日々の暮らしを立てるのが精一杯という状況だったのだ。
それでも、商売っ気はなくとも腕は良かった父と、武家の出で清貧に慣れていた母との三人ぐらしは──かつての『篠宮』を知るものであれば、その没落を嘆くような代物であったかもしれないが──咲にとっては十分に満たされた、不自由のない生活だった。いずれ篠宮の家を継いでくれる婿がとれればいいが、それもまだまだ先の話だ、と、父は笑ってそう言っていた。だから、当時の咲の興味は、自身が一人前の細工師になることのみに注がれていた。
けれども、両親が出先で事故に遭い──はやくに篠宮の家を出て商家に弟子入りし、今では自身が店を開くまでに至っていた叔父が『篠宮』の家を手に入れて、咲の人生は大きく変わってしまった。
叔父は、父や咲が作っていた細工物と、篠宮の家が持つ『禁裏御大工』の由緒に目をつけた。材木商と渡りをつけて高級な木材を手に入れ、篠宮と同様に町工匠となっていた細工師たちを雇入れ、家具や小物を作らせて、それらに『天獻寳物』という名をつけて売り出したのだ。
奇しくも時代は文明開化、海外から様々に美しいものが入ってくると同時に、国内の工芸品もまた海外で高い評価を受けて、その価値が見直されはじめていた時分であった。海外のモダンな意匠も積極的に取り入れた『天獻寳物』の品は、百貨店などにも多く並べられ、華族の女性たちに好意的に受け入れられた。
そうして、咲の生活は、『天獻寳物』の品々を作る、ただそれだけのためにあるものとなった。
自身の屋敷に咲を引き取った叔父は、小部屋と作業場の往復のみを咲に許した。食事は一日二食、炊事場からすっかり冷めたものが運ばれてきた。身支度や研ぎに必要な水は自分で井戸から汲み上げ、湯は使用人も含めた皆が寝静まってから、冷めたものをひっそりと使った。
本屋敷では咲と同世代の叔父の娘・美華が華やかな暮らしをしているのに、この扱いの差はなんだ──と、咲のところに木材を届けてくれる職人見習いが親切ごかして教えてくれたこともあったが、咲にとってはどうでもいいことだった。叔父が稼いだ財なのだから、その娘が使うのはただの道理だ。
両親が死んだにも関わらず、衣食住に困ることがないどころか、日々木に触れることさえ許されている。咲にとっては十分すぎる状況で、なにかが変わることを夢見ることさえない。
変わらないものなど、なにひとつない。
三年前の事故で、嫌というほどそれを思い知っていたにも関わらず──自分の運命が再び変わるという可能性を、少しも考えず、咲はただ、無心に木を刳るだけの日々を送っていた。
……けれども、運命は、否応なく咲を巻き込むことになる。
咲の住む離れには音さえ届かない、本屋敷の応接間にて──一人の客人が今、咲の運命を変えようとしていた。
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