最終話
ゆっくりと、意識が浮上する。
暖かく、心地いいだけの場所にいる。……死後の国というのは、こんなにも心地が良いものなのだろうか? 極楽浄土というぐらいなのだから、そうかもしれない。
痛みはどこにもないけれど、撃たれた記憶と衝撃は鮮明だ。そのうえで『痛みがない』ということは……と考えていると、右手にふと、強い力を感じた。
誰かに、手を握られている。とても強く。
重い瞼をゆっくりと持ち上げる──視線を向けると、或人の手が、強く咲の手を握りしめているのが見える。身体が温かいものに包まれている──或人の膝の上に、横抱きにされているのだ。咲は視線を上へと動かした。
咲をじっと見下ろしていた或人と、視線が合う。
その顔が、泣き出す直前の、あるいは叱られるのを待っている子どもみたいで、咲は思わず笑ってしまった。
何が起きたのか、その顔でわかった。
「……咲ちゃん」
「私、」
ごめん、とか、そういう言葉は聞きたくなかった。だから咲は、或人の言葉を待たずに言った。
「……活動写真というものを、まだ、見ていなかったので。見に行きたいなと思っていました。洋菓子も、まだ食べていないものがたくさんありますし……帝都から出たこともないですから、行ってみたいところもあるんです。富士のお山、箱根の温泉……雪も海も、見てみたい」
箱根には有名な寄木細工もあるし、もっと言うなら、この国の外──見たことのない美しいものを、たくさん、見てみたい。まだどこかぼんやりとしたような頭で、どこか覚束ない口をどうにか動かす。
「やりたいことが、まだ、たくさんあったのです」
そうして一生懸命言葉を紡いだ言葉は、間違いなく真実だったのだけど──或人はむしろ辛そうな表情になり、子どものように頑是なく首を横に振った。
「言わなくていい、そんなこと。僕の気を楽にしようだなんて思わなくていい、君は、僕を許してくれなくていいんだ。僕は、」
……ほんとうに、意固地な子どものようだ。
咲は苦笑し、握られていない方の手を持ち上げて、或人の頬にそっと触れた。
体中が、ぽかぽかと暖かい。それがただ物理的なものではなく、心のうちから湧いて出てくるものであることがわかって、口元は勝手に緩んで微笑みの形を作った。
「……或人様と」
「……え?」
朱雀院の館を出るとき、もう二度と、或人に会うことはないのだろうと思った。
だからあのとき、一度はすべてを諦めた。
でも、──でも、本当は。
「……ぜんぶ、或人様と、行きたかった……」
両親が死んでから、咲はずっと、ひとりで過ごしてきた。静かな作業場で、木に触れ続け、それだけで生きて死ぬのだと思った。それだけで生きて死ぬのでも構わないと思った。
思っていたはずだった。咲の世界が開かれた、あの日まで。
「もう、叶わないと思っていましたが。……或人様。一緒に、行っていただけますか?」
或人は、咲を『番』にしないと言った。
けれども今、咲はたしかに、自分の中が、深く或人と繋がっているのを感じていた。或人の感じている心細さが、不安が、──それでも『咲が目覚めてどうしようもなく嬉しい』と、そう感じているこころの全てが。
だから、咲は少しも不安ではなかった。咲は笑った。
「ねえ、或人様。百年後にはきっと、想像もつかないような──アイスクリンのような美味しいものが、きっと、ありますよ。見たこともないほど美しいものも、想像もつかないぐらい便利なものも。私、それが楽しみです」
「……そう思う? 本当に」
「はい」
「…………見送るもののほうが多くても?」
その問いは、ふとすると聞き取れないほど小さな声で発せられた。咲は頷いた。
「はい」
……或人はやっと、小さく微笑んだ。
「……そうか」
握られた手に、力がこもる。二度と離さないというように。
「そうだった。君はそういう子だったね。未来への祈り……」
そうして──どこか厳かに、或人は言った。
「──わかった。君が望むなら、そのように」
或人は咲を抱き上げて──すべてが光につつまれて、咲はまた、融けるように意識を失った。
* * *
そうして咲は、朱雀院或人の『番』になった。
とはいえ、実感としてなにかが変わったわけではなかった。少なくとも、今はまだ。咲はただ或人の部屋で目覚め、朱雀院の館で変わらず過ごすことになった。
「僕は君に、幸せに『生きて』欲しかったんだ。死なれるのは違う」
というのが或人の言い分で、咲はすこし意地悪い気持ちになって首を傾げた。
「二度と会わないおつもりだったのに?」
「会わなくても消息は知れる。……君の活躍は、君が作るものでわかるし」
「まあ! 私には、或人様のことを知るすべはないのに?」
「……人には、忘れる強さがある。君も、僕を忘れる……僕のことは過去にできるはずだった」
「そうでしょうか。……そうかもしれません」
或人があんまり身勝手なことを言うから、意趣返しがしたくなる。咲は少し考えるふりをした。
「そうしたら……別の誰かと結婚して、子どもが生まれたりしていたのかも。……或人様が、望んだとおりに」
「……」
それで傷つく顔をするぐらいなら、最初から口にしなければいいのに。咲は「冗談です」と言って笑った。
「番にしていただいて本当に良かった。これで忘れません」
「……君はいつか、僕を恨むよ」
「それでも、ずっと側にいてくださる?」
「うん」
百年先も、二百年先も──或人は、人の営みを愛する神は、いつまでも、人の世を見つめ続けるだろう。
「なら、大丈夫です。……ずっと、お側に置いてください」
千年先も、二千年先も──人々がいつか『神』を本当に必要としなくなっても、あるいは、人の世が終わりを迎えるその日まで、咲はずっと、或人の隣にいるだろう。
そうして咲は、或人の隣で祈り続ける。
それがただ幸福なだけの未来であることを、咲は、たしかに知っているのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。
書きながら更新する、というのがはじめての試みで、あまりうまく行かなかったんですが、楽しく書くことができました。ありがとうございました。
よろしければ、また別の話でお会いできれば嬉しいです。




