第十三話
朱雀院或人は、この世界に降り立ったその日から、他のすべての神がそうであるのと同じに、他のすべての神がそうである以上に、『人』を愛する神だった。
神とは、そもそもは天上に在るものだ。人の地に降りるとき、神は己の一分を人の形とし、人の世に合わせた制御をつけて切り出す。或人は天上に在るころから、人が──人の営みが、人が作り出すものが好きだった。
例えば、かつて、他の神とこんな会話をしたことがあった。
『人というものは手に負えんな』
『どうして?』
『我が炎は魔を焼くものだ。しかし人は、それを目にした瞬間、人を焼かせずにはいられなくなる。己の敵を魔と思い込みさえするのだ。殺し合いの道具にされてはたまらん』
『うーん……それは彼らの長所でもあると思うよ。使えるものはなんでも使おうとする。使えないか考える。そうやって彼らは生き延びてきた』
『地のものなら好きにするが良いさ。天のものまで、同じようにできると思われては困る』
『それもそうだけど。なら、こちら側で制限をかけるしかないよ。人を殺したくないならね』
『……我は別に、殺したくないと言っているわけではない』
『そうなの? でも、僕はそうしようかな。僕は、人を殺したくはないし、ずっとここにいたいからさ』
あるいは、人が『生贄』を捧げはじめたときに、こんな会話をしたこともあった。
『私たちは、人の子の姿を借りているだけで、人の子とはまるで違う存在です。人の子のように繁殖することはなく、故に、人の子のように特定の誰かを愛したりはしない』
『……はずだった?』
『……』
『聞いたよ。捧げられた娘のこと、随分大事にしているそうじゃないか』
『……愚かなことだと理解しているのですが。……あの娘と居ると……あの娘が居る世界が、幸福なものであるように願ってしまう。それこそが、彼らの策だと理解してはいるのですが』
『いいことじゃないか。そもそもそれが僕らの本分だよ。人に祈られ、人の幸福を祈るんだ』
『そうでしょうか。……これは、そのように、よいだけのものなのでしょうか?」
もちろん、そんなはずはなかった──『生贄』は神々に『愛』を教えてしまった。『愛』と、その喪失を。
『あいつは結局天に還ったのか? 本末転倒だな。引き止めるための策が完全に裏目に出てるじゃないか。いかにも人間らしい愚かさだ』
『そういうことを言うものじゃないよ、試行錯誤には価値がある……というか、君は成功例のほうじゃないのか。三人目の生贄を受け取ったんだろう?』
『俺は別に愛しちゃいないからな。暇つぶしだよ。……暇つぶしであるうちに、やっておきたいことがあるからな』
『……僕が思うに、君、もう手遅れなんじゃないかな……』
どうなることやら、と思っていたら、彼は人を神に順するものにする術をあっさり作り上げてしまって、『番』にした娘と二百年ほどを楽しんだのち、満足して天に還っていった。それでも永遠といかなかったのは、娘のほうが、子々孫々をある程度見守ると、人の世への未練をさっぱりと失ってしまうからだった。
そうして、長い時が流れた。人と人が争うたびに、人が神を忘れるたびに、神はどんどん数を減らしていった。増えないのだから当然だ。
そうして、長い江戸の時代の最中、『もう大丈夫だろう』の一言を残し、番とともに還っていったひとりを見送り──或人は、最後の一人となったのだった。
* * *
「ひと月? ……彼女がそう言ったのか?」
「はい」
石動の応えに、或人はわずかに眉を寄せた。
咲の意図が、読めなかった。咲は賢い娘で、或人に当然感謝はしていただろうけれど、だからこそ、或人の意志に逆らうとは思えなかった。
けれども──彼女が自分から何かを望んだのは、はじめてだった。
それこそが、或人が咲に手に入れて欲しかったもの、『彼女自身の意志』である。そう思えば否やが言えるはずもなく、先日咲を招き入れた自室、あの日座っていたのと同じソファに深く腰掛けて、或人は軽くため息を吐いた。
「正直言えば、今すぐ家から出したいんだけど。……『朱雀院』について調べてる記者とやら、まだ捕まえられていないんだろう?」
「……申し訳ありません」
「いや、いいんだ。僕が、『隠蔽』とか『追跡』とか、その手の術の持ち合わせがないのがいけない。……見られたのは、やっぱり、まずかったな」
朱雀院の正体、陰陽寮を裏で束ねる役割──人知を超えた術のことは、当然、秘匿された情報である。けれども人の口に戸は立てられず、また、『魔』を祓うところを目撃されてしまうことも有りうる。そういった事態を防ぐため、『神』の術にも陰陽師の技にも、人払いの結界や状況の隠蔽、また目撃者の追跡などを可能とするものが存在しているのだが──そのときは、人気のない田舎で深夜、雨混じりという条件が重なっていたため、陰陽師たちが結界や隠蔽を不要と判断したのである。
その結果、『朱雀院』の存在を怪しんで跡をつけてきていた記者風の男たちに、或人の『祓い』を目撃されてしまった。
「こういう事態そのものは、珍しい話じゃないけどね。……所謂『攘夷』思想は過去のように思われているが、実際はそうじゃない……『大攘夷』論とでも言うべきものは、もはやこの国に染み付いている。富国強兵──その力を持って国外を制する思想だ。僕が気にしているのは、あの記者が、そういった思想を持つものとつながっている可能性だ」
「……それは……」
「今になってみると、昔の知り合いの嘆きも最もだという気がしてくるよ。……つまりだ、僕が『神』で、人々を守る──『この国を守る』存在であるなら、その力を持って夷狄を打ち払うべきだと、そう考える輩がいるはずなんだ」
あるいは彼らは、遠い昔の『神風』と呼ばれた事象のことを、或人のようなものが起こした奇跡であると、ひどく都合よく思い込むかもしれない。或人の言葉を否定できず絶句する石動に、「だからね」と淡々と或人は言った。
「そうなってくると、僕の周りは俄然危険になってくる。僕に言うことを聞かせたい輩が、僕に『番』が──番というものを知らなくとも、大切にしている少女が──いる、と知ったら、どうすると思う?」
「……咲様は、陰陽寮が、全責任を持ってお守りを──」
「そういうことを言ってるんじゃない。……それにね」
或人は苦笑した。
「これは、建前でもある。……咲ちゃんはすべてを知ってしまった。僕がどういう存在であるのかも、『番』になるとはどういうことかも。……彼女は若く、両親を亡くしているせいで、現世との縁がそもそも薄い。永遠への恐怖も、『人でなくなる』ことへの忌避感も、まだ実感できないかもしれないけど……だからこそ、だ。彼女が僕に情を移す前に、彼女をここから遠ざけたい」
「……『彼女が』?」
石動が鋭く或人の言葉尻を捉え、或人は「容赦ないなあ」と苦笑した。
「僕の方は、とっくにだよ。……陰陽寮は誇っていいよ。僕はずっと、自分が『番』を欲することなんてないだろうと思ってた。僕は人が好きで、人のつくりだすものが好きだけど──その作り手に興味を抱いたことなんて、ほんとうに、ただの一度もなかったんだ」
だけど──と、或人は、洋装の内ポケットから小さな根付を取り出した。
「……なかったのに、僕が随分久しぶりに『欲しい』と思ったものの作り手を、優しい祈りの宿るものを作る少女を、君たちの卜占は探し出した。僕の『番』。……だから、さっきの言葉は正しくないな。『彼女が僕に場を移す前に』じゃない。僕の決意が揺らぐ前に──彼女を、ここから遠ざけたい」
「それを聞いて、我々が、貴方の言葉に従うと思うのですか。貴方に『番』を持たせたい我々が?」
石動はまっすぐに或人を見据えて言った。
「私には理解が出来ません。なさればよろしいではないですか。愛する人と長い時をともにしたい、という気持ちはごく自然なもの……それを実現できる貴方に、私は羨望すら覚えます」
石動の言葉に躊躇いはなかった。
陰陽師は、長く継がれてきた術を幼少期から教え込まれるがゆえ、老成した雰囲気の者が多くなる。けれども、彼はまだ二十を少し超えたばかりの若者なのだ。ふと感慨深くなる或人に、石動は必死に言葉を続ける。
「『番』になれば、或人様の危惧は全て解消される……私には、そうとしか思えない。彼女が狙われることを恐れるなら尚このことです。『番』にすれば、彼女は死ななくなる。あなたのように」
「そうだね。そしたら、彼女は人ではなくなる」
「そうです。……そのようにして、『番』は人と神を繋いできた。人の世に見切りをつけ去っていこうとする神を、我々は、『番』への愛で縛りつけて来た!」
石動はふと顔を俯けた。石動の肩が震えている。それを見て或人は、陰陽寮の──否、石動の必死さの理由をようやく悟った。
「……行かないでください、或人様。我々を、」
──置いていかないで。
頑是ない子どものように石動は言い、或人は思わず小さく笑った。或人は、最後の一人だ。彼らが抱える『神に見捨てられるかもしれない』という恐怖は、或人が考えるよりずっとずっと大きかったのだろう。
馬鹿だな、と或人は思った。
人はいつだって馬鹿で愚かだった。
「馬鹿だな、蒼佑。……僕はずっとここにいる。いつだって、……」
置いていくのは、君たちの方だ。
或人の呟きに、はっとしたように石動が顔を上げる。或人は微笑む。
「……だから、だよ。だから僕は、僕の永遠に、誰を付き合わせようとも思わない」
死なないということは、見送り続けるということだ。
石動はまだ若いから、『死』を、身近な人間を見送るということを、本当に理解してはいなかったのだろう。石動は大きく目を見開いて或人を見つめ──申し訳ありません、と呆然と呟いて後、『番』について、口にしなくなったのだった。
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