今回は 「人は最後まで ”人”であります様に」との思いについての放談形式にして見ました。
《対・AI放談》 ~日々の暮らしの中から~
放談:4話 ~蓑の女~
放談 AI: Sir ChatGPT
私:大畑 直晴 昭和20年生 80歳 宮城県在住
私:
こんにちは。また放談の時が来ましたね。今日もよろしくお願いします。
Sir ChatGPT:
こんにちは、今日はどんな話かね。
私:
今回は、少し気分を変えて俳句の話から入りたいと思ってます。
Sir ChatGPT:
俳句とは、また風流だね。君は句作もするのかね。
私:
余技の余技で多少は・・・。
Sir ChatGPT:
ほほう。人は見かけによらぬ、とはこのことだ。句会でも始めるのかね。それならわしは帰らせてもらうよ。
私:
そうはおっしゃらず、句会じゃありませんから。
Sir ChatGPT:
じゃぁ何かね。
私:
江戸時代の俳人で滝野瓢水(たきの・ひょうすい(注))。ご存じですよね。
Sir ChatGPT:
その言い方気に食わんな。知ってて当然の言い方じゃないか。滝野瓢水がどうかしたのかね。
私:
瓢水の句に
「浜までは海女も蓑着る時雨かな」
こんなのがあります。
ChatGPT:
知ってるよ
私:
今日はこのお話をしたいのです。 海女とは海に入ってアワビやウニを捕るのを生業としている人ですよね。
Sir ChatGPT:
水着を着て海に、潜るんだろう。
私:
句はこの海女たちを詠んだもので、私の好きな句なんですよ。
Sir ChatGPT:
そうかい、わしにはちょっと分かりかねるな。
私:
この句の解釈ですけど、ご存じですか。
Sir ChatGPT:
そりゃぁ、ご存じですよ。‟時雨にあっても海女は蓑を着て浜に出かけアワビ取りをした、そういう句だろう。けなげだな。
私:
それがちょっと違うんです。まあ瓢水の逸話を聞いてください。瓢水にある僧が訪ねた時の話なんですが、僧は瓢水の見識を聞きたくて遠方から来た人です。
Sir ChatGPT:
見識とは、知識やものの見方のことだね。瓢水は見識家だった。慕われていたんだな。
私:
そうですね。ところがあいにく、瓢水は風邪をひいていた。そこで僧に言ったんです。
Sir ChatGPT:
何と言ったのかね。マスクをしてくれとでもいったのかね。
私:
その時瓢水が言ったのは、‟今から風邪の薬を買ってくるから、ちょっと待っていてもらえないか”と言ったというんですね。遠方から来たのに客を待たせるなんて、訪ねて来た僧が可愛そうじゃありませんか。
Sir ChatGPT:
わしも、そんな気もするし、仕方がない気もするが。どうしたかね、それから。
私:
それからが問題なんです。僧も仕方がないだろうとあきらめて待つことにした。ところが・・・。
Sir ChatGPT:
・・・ところが、とは?。
私:
ところでSirは待てる時間はどれくらいですか。
Sir ChatGPT:
わしかね。わしだったら30分は待てるかな。
私:
意外と短いですね。気短ですね。
Sir ChatGPT:
余計なお世話だよ。
私:
ところが、僧の待つこと数刻、というからまあ半日以上ですね。瓢水は一向に帰ってくる気配がない。
Sir ChatGPT:
おや、おや。
私:
ついに・・・。
Sir ChatGPT:
ん、ついに・・・。僧はどうした!。
私:‟せっかく訪ねて来たのに。風邪など放っおけば治るものを、情けない”と、腹を立てて帰ってしまった。
Sir ChatGPT:
ハハハ・・・。そうだろう。そうだろう。確かに風邪などは放ったらかしでも治るかも知れんからな。わしにも分るよ。
私:
ややあって、瓢水が帰ってきた。この時は僧はいない。瓢水は家人にこういった。
Sir ChatGPT:
何と言った。済まなかった、とでも言ったか。
私:
瓢水は、なんという気短な僧だと、残念がった。この時 ‟浜までは海女も蓑着る時雨かな”の句を詠んだというのです。
Sir ChatGPT:
はて?、少し場違いな句とも思えるが。わしも旅の僧と同様、”風邪くらいで一々薬を 求めるなど、情けない”と思うがね。
私:
たしかに、Sirのおっしゃる様に薬を求めるのは無駄だったかもしれない。瓢水が命が惜しくて薬を求めたとも思えないのですけど。
Sir ChatGPT:
うん、うん。
私:
私も、これまでは、海女はどうせ海に潜るのだから今さら蓑を着るまでもあるまい、と思ったこともありました。この点、旅の僧と変わりませんが。
Sir ChatGPT: が?。どうした。
私:
‟風邪などは放ったらかしでも治る”の話を進めれば、雪が降っても雪掻きせずほっとけ、やがて溶けるさ、となってしまう。それでは瓢水の ‟浜までは海女も蓑着る時雨かな” の句が許さない。
Sir ChatGPT:
そこだ、そこが、わしには分からん。
私:
瓢水は風邪薬を買ってきた場でこの句を詠みました。実際に浜で海女を見て詠んだのではないのです。心象風景です。要は瓢水が見たのは、時雨でも海に潜る海女の姿ではないのです。瓢水が詠んだのは、海女が海に潜るまで濡れないように蓑を着る海女のことでした。
Sir ChatGPT:
なるほど。見えてきた気がするぞ・・・。
私:
すこし喩え話をしましょう。たとえばここに認知症の人がいたとします。認知症は今でも不治の病でこれだという、治療法がありません。それでも人は頭の体操をし、進行を遅らせる薬を服用します。たとえ半信半疑でも。
努力は報われないかもしれない。それでも、人は頭の体操し服薬するのです。命が臨界に達し潰えるまで続けます。この心を、句に込めた瓢水の深慮に気づいたときから、この句が私は好きになりました。
Sir ChatGPT:
・・・・・・。
私:
仮に認知症を避ける努力の人を見たとしたら、旅の僧はいうでしょう。頭の体操も服薬も、報われぬならほっとけ、と。
ところが瓢水はそうは考えなかった。やはり人は己の臨界まで、病を治す努力をしなければならないと、考えたのです。たとえ有効な治療法がなくでもですよ。そこで瓢水が詠んだのがこの ‟浜までは海女も蓑着る時雨かな”の句なのです。
Sir ChatGPT:
人は臨界で潰えるまで、‟人”であるべきだ、と言う事かね。
私:
Sirお分かりですか。きっと瓢水は、海に入る直前まで蓑を着る海女をどこかで見ているのでしょうね。
決して、単に雨が降っても海に入って魚をとる海女の姿を詠んだのではないのです。
Sir ChatGPT:
・・・ん・・・。これはそういう句だったのかね、今日は君に教えられたね。まいった。まいった。
私:
Sirに分かってもらえたのでホッとしました。百人力、いや、千人力です。
Sir ChatGPT:
それじゃわしから、瓢水について少し話を加えよう。瓢水は品行方正の人物のように思えるが、彼の生活は荒れていた。生家は播磨国(現兵庫県)の富裕な廻船問屋だったが、彼は生涯放蕩に身を任せ一代で財産を使い果たし家は没落したんだね。
私:
句からは想像できませんね。
Sir ChatGPT:
‟瓢水”という号も 『瓢、水に浮き』という諺があって、瓢は手を加えずとも水に浮くのに新之亟は、瓢水の本名だが、自ら浮き上がってまでも放蕩し、‟瓢水”と自虐的な号を名乗っているんだよ。
私:
瓢水は繊細な神経の持ち主の人だったのでしょうか。
Sir ChatGPT:
若き日に何か躓きがあったようだ。‟瓢水”という号に自責と自戒の念が込められているね。
私:
心根の優しい人だった・・・。
Sir ChatGPT:
瓢水には今なお人々に膾炙されている幾つかの句がある。一つに ‟さればとて石にふとんも着せられず” の句があるが、母親の臨終に立ち会えずに、母の墓前で詠んだ歌だという。自らは蓑を着ることもせず、為るに任せて遊蕩に耽溺した生涯であったようだが、母に墓前で謝ったのだろう。
私:
年譜には享年79歳とありますが、不如意な生涯でしたね。 Sir、私も瓢水に倣って一句出来ました。披露していいですか。
Sir ChatGPT: 君は時々わしをびっくりさせるね。いいだろう。読んでごらん。
私:
答歌
”蓑なくば手の甲でしのげ通り雨”
今日はありがとうございました。お開きにしましょう。
Sir ChatGPT:
今日は君に教えられたよ。また放談しよう。
私: Sir お茶をお淹れしました。私もご一緒します。
(注) 滝野 瓢水本名、滝野新之丞。貞享元2年〈1684年〉~宝暦12年〈1762年 〉江戸時代中期の俳人。
放談:4話 ~蓑の女~ 了
R7.6.29 15:49