09. 魔物に襲われること①
クルトがテミッタの町を出てから、もうすぐ一〇日になろうとしていた。
レティシャの予想通り、ネルガー城を出た日の夜半から天候が悪化し、その後三日間にわたって大雨が続いた。
その間はレティシャたちも貴族城館に閉じ込められることとなった。
四日目に天候が回復してから出発したが、道が泥濘と化している場所があったりで、あまり馬車の進みはよくなかった。
それでもなんとか、レティシャの一行はようやく、東西の主要交易路に入っていた。
実のところ、東西交易路と呼ばれる道は二本ある。
区別するときには旧道と新道という言い方をする。
旧道が王国の南側を通るのに対して、新道は北側を通る。
レティシャが今回往路に使ったのも、今復路として使おうとしているのも、どちらも新道のほうだ。
距離的にはどちらもさほど変わらないが、整備状況には差がある。もちろん、整備が行き届いているのが新道である。
当然ながら、整備された道のほうが馬車はスピードを出せる。
したがって通過するのにかかる時間で比べると、旧道よりも、新道のほうが少なくて済むのである。
なんにしろ、交易路に入ってしまえば、護衛の騎士たちも一息つくことができる。
あとはずっととにかくこの道を辿れば、いずれ目的地である王都に着くという安心感があるからだ。
下手に近道をしようとして道を逸れたり、夜中に無理矢理進んだりといった余計なことさえしなければ、まずこれから道を失うような心配は要らない。
それに、野盗の類もまず出ない。
このあたりに盗賊が出れば、交易路の評判に傷がつき、ひいては精霊王国の屋台骨すら揺るがしかねない。
だから定期的に騎士が巡回して治安維持に努めている。
そのことは盗賊だって知っているから、まず襲ってくるような盗賊は現れないのだ。
交易路で仕事をする盗賊などがいれば、王国は威信をかけて討伐に動くことになるからだ。
騎士団を相手にするくらいの覚悟がなければ、とても交易路を進む商人を、襲うことなどできないのである。
そろそろ中天に太陽が昇ろうとしている時刻。
馬車がゆっくりと速度を落とし、やがて停止した。
「ん? なにかあったかの?」
「お待ちください。私が見て参ります」
ルチアが立ち上がりかけたが、その必要はなかった。
状況説明のために、騎士の一人が既に馬車に駆け寄って来ていたのだ。
その騎士に、クルトは見覚えがあった。確か、テミッタの町でクルトを追ってきた騎士の内の一人だ。
炎を放ってきた騎士だったか、それとも雷だったか、そのへんは曖昧で、あまり自信はなかった。
「なにがあった?」
騎士に下問するレティシャに、その騎士は馬車のドア越しに、腰を屈めて返答する。
「今朝、先触れに出しておいた従士が、途中で引き返してきたのです。どうやら、先日の大雨のせいで、この先で土砂崩れが起きて道が通行できないようです」
「……それは弱ったな。それで、道が通れるようになるまでにはどのくらいかかりそうなのだ?」
「なんとも言えませんが、かなり広い範囲が崩れたようですので、最低でも一〇日。場合によってはひと月以上かかることもあり得るかと」
「なんとまぁ、ツイてないことよ」
「そういうことですので、取りあえず今日のところは、ここで引き返します」
「それは構わぬが、明日からはどうする?」
騎士は申し訳なさそうに目を伏せた。
本当なら勧めたくないような選択肢しか、提示できないからだ。
「……ふたつにひとつです。このまま道が修復されて通行可能になるのを待つか、旧道のほうを使うかの」
「旧道な……一応、通行はできるのだな?」
「それは問題ありません。実際数は少ないですが、そちらを利用する商人もいます。ただ、新道とは違って道は悪いですし、危険もあります」
「なるほどな。話はわかったが、正直私はどうするのが正しいのか、判断がつかん。騎士の中で話し合って、結論を出せ」
「はっ」
レティシャの指示は、言ってしまえば騎士に丸投げしたわけだが、騎士にしてみれば下手に口を出されるよりは判断を任されたほうがよっぽど良い。
むしろその騎士は、ホッとしたような顔で、敬礼した。
「それでは失礼いたします」
レティシャの前を辞した騎士は、同僚を集めて情報を共有する。
それが済むと、やがて、馬車はUターンして、来た道を引き返した。
◇◆◇◆◇◆◇
次の日、馬車は東西交易路の旧道に向かって走り出した。
騎士たちが話し合った結果、いつになるかわからない道路の修復を待つよりは、旧道を進むほうがマシだろうということになったのだ。
そう上申されたレティシャは、一言「良かろう」と言って、その案を承認した。
旧道を西へと進むと、ギドー領という、氷の眷属の領地に入る。
ここの領主は名前の通り、氷精霊と契約を結んだ精霊使いだ。
昔は繁栄した領地だったが、現在は状況が変わり、荒れ果ててしまっている。
もちろんそんな領地でも、治める貴族はちゃんといて、宿泊する城館に困るということはない。
けれどそれまでに宿泊していた城館と比べると、ギドー領の城館は、豪華さや快適さのレベルが二つ三つ落ちる印象だった。
交易路そのものもあまり整備されていないから、馬車はよく揺れる。
窪みに車輪が嵌まっては(ゴトンッ)、少し大きめの石に乗り上げては(ガタンッ)、という具合で、座席に落ち着いて座っていられない。
それはクルトに同乗している三人の淑女たちも同様のようで、たまにこっそりと、尻を座席から浮かせて顔をしかめていたりする。
痛くても尻を押さえたり撫でたりまではしないのは、さすがに貴族というべきだろうか。
これならむしろ、馬車に乗るより外で騎乗している騎士たちのほうが、疲労は少ないかもしれない。
このままでは冗談抜きで、尻を怪我してしまう。そう思ったクルトが、「レティシャ様、少し休憩しませんか? 尻が割れそうです」と訴えるが、
レティシャは、「ふん、もう割れているであろう」と素っ気なく返す。
「……すみません。あの、冗談ではなく、キツイんですけど……」
実際、クルトが泣き言を言うのも無理はない程、馬車の揺れには酷いものがあった。
そして、それはもちろん、レティシャも身をもって知っている。
「私も本心を言えば、休憩に賛成なのだがな……」
レティシャがチラリとルチアに視線を送ると、ルチアはそれに首を横に振って答える。
「今日は宿泊予定の城館まで、少し距離があるのです。残念ですが、休憩している暇はありません。レティシャ様も知っての通り、このあたりには魔物がでますからね。特に夜は」
「だ、そうだ。どうにもならぬ。諦めるがよい」
レティシャは、自分も我慢しているのだと、少し唇を尖らせる。
(つまり、今日の宿泊場所が遠いから急いでるってことだよな。だから余計に揺れて痛いんじゃないか?)
クルトはげんなりする。
貴族は同じ貴族の城館に泊まらなきゃいけない決まりでもあるのだろうか?
まぁ、さすがにそのへんの宿屋に入り、平民の隣の部屋で寝るわけにもいかないのだろうけれど。
クルトは馬車の窓から外を見る。
見えるのは、見渡す限りの荒野だ。元は畑だったのが、今ではもう使用されなくなってしまったせいで荒れ果てたのだろう。
はっきり言ってしまえば、気が滅入るような光景だ。
「僕は、ここの領地、好きになれそうもないです」
呟いたクルトの言葉を聞いて、「…………そうであろうな」と、レティシャも重々しく頷いて同意した。
◇◆◇◆◇◆◇
結局、その日はなんとか日が落ちる前に次の宿泊地に着くことができた。
だが、それからも状況はあまり変わらなかった。
道はずっと整備されておらず、馬車は酷く揺れる。
それでも日暮れの前には宿泊地に着くように、常に馬車は限界近くまでスピードを上げていた。
そんな状況が数日続いたある日の夕方。
その日はいつもよりもさらに、馬車は猛スピードで走っていた。
下のほうから、車輪なのか車軸なのか、それとも他のなにかなのかはわからないが、ギシギシと、今にも壊れそうな音が聞こえてくる。
たまらず、クルトは情けない顔で悲鳴をあげる。
「い、いくらなんでも、これは、ゆ、揺れ過ぎじゃ……」
揺れのせいで途切れ途切れになりながらも、クルトは必死に抗議した。
が、それに対する返答は素っ気なかった。
同乗している女騎士のルチアは、窓の外を指差した。
「見てみろ」
「?」
仕方なく、揺れに耐えながらクルトが窓の外を見ると、そこには夕日に照らされた、雑木林があるだけだ。
さっきまでと特に変わった様子はない。
ここのところはずっと、この雑木林の近くを道が通っているのである。
「なにもないですよ?」
首を傾げるクルトに、ルチアは「もっとよく見ろ。林の奥だ」と再度外を見るように促す。
クルトは言われるがままに目を凝らし、林の奥に視線を向ける。
すると、そこでなにかが動いた。
よく見えないけれど、どうやらそれは、林の中を馬車と同じ速さで移動しているようだ。
「見えたか? 一刻ばかり、ずっと魔物が追って来ているのだ。スピードを緩めるわけにはいかん」
「魔物……!」
世の中にそういうものがいることは、クルトも聞いたことがある。
けれど、実際に見たことはなかったし、身の回りに、魔物と遭遇したという話をする者も、いなかった。
まさか、半月ほど馬車で移動するだけで、こうして魔物に出会うことになるなんて……
そのとき、雑木林のほうから、「ザアッ」という音が聞こえてくる。
もう一度クルトが窓から外を覗こうとするが、そのクルトをルチアが押し退けた。
「どけっ!」
「むぐぐっ」
乱暴に押し退けられたクルトが呻き声を出す。
ルチアが外を見ると、雑木林の中から、数十の影が飛び立つところだった。
「チィッ、まだ完全に日が落ちてもいないというのにっ! ……レングメーン、光を!」
馬車の窓から手を出して、ルチアが精霊を呼び出す。
光球が馬車の真上に浮かび上がった。
その光に照らされた影が、正体を現す。それは、巨大な飛蝗だった。
数十もの数の、人間の子供ほどの大きさの飛蝗が、襲い掛かって来たのだ。
護衛騎士の隊長が、剣を掲げる。
「迎撃しろっ! 馬車に魔物を近づけるな!」
「おうっ!」
続いて騎士たちが馬上で剣を抜き、襲ってくる巨大飛蝗を斬り払う。
「あ、あれが、魔物なんですか?」
「うむ。大抵の魔物は、巨大な虫の姿をしているのだ」
冷や汗を拭いながら尋ねるクルトに、レティシャが説明した。
「随分数が多いですけど、大丈夫でしょうか?」
「そう思うなら、其方も騎士を手伝ったらどうかの? 弓を持っておるのだろう?」
「……持ってますけど、こんな揺れる馬車の上からじゃ、とても狙えませんよ」
「なんだ。使えんな」
理不尽な非難を受けて、クルトがさすがに少し不満そうな顔になる。
もちろん、それを口に出すようなことはなかったが。