07. 馬車で移動すること
ガタゴトと揺れる馬車の中で、クルトはあまりに急変する展開に呆然としていた。
向かいの席には、貴族の少女――名前はレティシャというらしい――がいる。
今はもう、ヴェールをつけてはいない。
レティシャの素顔は、少しあどけないところのある、美しい少女だった。
大人っぽい喋り方と比べると、幼い容貌に少しギャップを感じる。
間違いなく高位の貴族だと思うけれど、本人が名乗ったのは「レティシャ」という名前だけだ。
もっとも、例え家名を聞いたとしても、クルトにはそれだけでどのくらい高位の貴族なのか、判断はできないだろうが。
クルトはレティシャとそのお付きの女騎士に捕らわれた後、あれよあれよと言う間に馬車に乗せられ、そのまま出発してしまったのである。
特に縛られたりしなかったのはありがたいが、この状況が一体なんなのか、クルトにとっては完全に意味不明だ。
いくら貴族が平民の都合など斟酌しないといっても、さすがにこれは酷い。
事情も説明せずに、有無を言わさず連れ去るなど、横暴もいいところだ。
とはいえ、こんな横暴な行いが、罷り通ってしまうほどに、平民と貴族の身分差は大きい。
貴族が勝手に平民を連れ去ったところで、罪に問われることはない。
実際、美しい村娘を貴族の男が見初めて、連れ去る事件などは枚挙に遑がないほどだ。
相手が貴族というだけで、平民は忍耐を強いられるのだ。
現在、馬車の中には四人の人間がいる。並んで座る、二人掛けの座席がふたつ、互いに向かい合っている。
馬車の中でレティシャの隣に座っているのは、側付きの女騎士であるルチアだ。
クルトの隣に座っているのはレティシャの侍女で、彼女がルチアと向かい合っている。
ということは即ち、クルトの正面はレティシャということになる。
クルトのような平民とこの中で一番身分の高いレティシャを向かい合わせるのは、なにか間違っている気がする。
普通は逆だと思うのだが、正面がルチアになるのも剣を向けられたことを思い出して気が重いから、クルトとしてはまだ今のほうがマシかもしれない。
レティシャの安全を考えるなら不用心な気もするが、この点については護衛の女騎士も特に口を出したりはしなかった。
それにしても、女ばかり、それも身分の高い女ばかりに囲まれて、クルトは大変に居心地が悪い。
侍女にしたところで、どう見ても平民ではない。
どの程度の身分かなどはクルトにはわからないが、貴族なのは間違いないだろう。
平民とは目の前の相手が同じ平民なのか、そうでないかについてはかなり敏感だ。
仕草や表情、姿勢などから、正確に異物を見分けるのである。これは多分、生存本能から来る能力なのだろう。
貴族なんかに下手に関わると、碌なことにはならないからだ。
ご多分に漏れず、クルトも持っているそのセンサによると、「ここに居るのは全員貴族」ということになるのである。
(そもそも、なんで僕がこの馬車に乗せられているんだろう。馬車はもうひとつあるのだから、せめてそっちに乗せてくれればいいのに)
もう一台の馬車は主に、レティシャのための荷物を積んでいて、御者以外に人間は乗っていない。
けれど、ここで貴族に囲まれるくらいなら、荷物に囲まれているほうがマシだとクルトは思う。
少なくとも荷物は、貴族と違って剣を突き付けてきたりはしないのだし。
――それに、一人だけ別の馬車に乗ったほうが、逃げるチャンスがあるかもしれないし。
クルトがそう思うのだから、同じことをレティシャも考えて、逃亡を防ぐ意味で敢えて平民であるクルトを同じ馬車に乗せているのかもしれないが。
「日が落ちてきたのう。やはり、明るいうちにネルガー城に着くのは無理か?」
「はい。到着は夜になりますが、先触れは既に送っています。途中で野営をするよりは、城まで急いだほうが危険も少ないでしょう。それに、あまり遅くなるようなら城からも迎えの兵を出すはずです」
レティシャが馬車の外を眺めながら疑問を口にし、それにルチアが頷いて答えた。
赤い夕陽が、馬車の小さな窓から車内に差し込んでいる。
その光を頬に受けて片頬を赤く染めたレティシャが、クルトに皮肉っぽく笑いかけた。
「其方が逃亡などして時間を無駄にせなんだら、暗闇の中移動する羽目になどならなかったのだがな」
「……それは、どうも――」
すみません、とは言わずに、クルトは曖昧に語尾を濁した。
内心では、あのときのレティシャの剣幕を見れば、逃げたくなっても当然だと思っている。
あのときは本当に、クルトは捕まればもうお終いだと思ったのだ。
いや、今は特に酷い扱いは受けていないが、それがずっと続くかは怪しい。
助かったと安心するのはまだ早いのだ。
なにしろ、どうしてクルトが馬車に乗せられ、王都まで連れて行かれることになったのか、その理由をまだ説明されてもいないのである。
何度か、「どうして僕を王都に連れて行くんですか?」とか、「どうして僕のことを知ったのですか?」とレティシャに訊いてみたが、ニッコリ笑いながらはぐらかされるだけだった。
決まって返事は、「其方が闇精霊と契約しているのが理由だが、それ以上詳しいことは王都についた後で説明する。悪いようにはせんから安心するがいい」と言われるだけだ。
――まったくクルトは安心できなかった。
今クルトやレティシャの乗る馬車は、ネルガー城という、テミッタの街を含む広い領地を統括して治める上層貴族の住む城郭を目指していた。
馬車の周囲を護衛の騎士たちに囲まれて。
もちろん最終的には王都を目指すのだが、すぐに着くわけではない。
一ヶ月近くの長い道程が待っているのだ。
その間は、夜になれば通りがかる領地貴族の城に宿泊することになる。
先触れに騎士の一人を先行させ、レティシャの到着を告げ、迎える準備をさせる。
報せを聞いた貴族は、慌ててレティシャを迎える準備を整えることになるのだが、これがなかなかに大変だ。
食事の支度、風呂の支度、部屋も相応しく整えなければならないし、貴族自身も着飾って歓迎の意思を示さなければならない。
そうして準備を整えた貴族邸宅に泊まり、あくる日の朝出発。それを王都に着くまで毎日繰り返すのだ。
その記念すべき最初の一つ目が、ネルガー城というわけだ。
「姫様、車内が暗くなってきたので、明かりを点けてもよろしいですか?」
「うむ、頼む」
「はい」
ルチアが、手の平を上に向けて、「レングメーン、光を頼む」と呟くと、車内の天井近くに、光の玉が浮かび上がる。
馬車の外でも、騎乗した騎士たちが、松明を掲げた。
すると、その松明に、次々と勝手に火が灯る。それも恐らく、騎士の誰かの魔法なのだろう。
馬車は、騎士たちの掲げる炎によって、赤く照らされた。
「……騎士ってみんな、魔法を使えるものなんですか?」
誰にともなく、クルトが尋ねた。クルトが逃げ出したときも、水に炎、雷と、様々な魔法を、追手の騎士は使ってきたのだ。
少しの沈黙の後、その質問に答えたのはレティシャだった。
「…………いや、そうでもないぞ。ここに居る騎士たちはほとんどが魔法を使うが、それが当たり前というわけではない。むしろ、騎士全体で見れば魔法を使うのは少数派だ」
「じゃあ、ここに居るのは、騎士の中でも実力者揃いってことですか?」
そのクルトの質問には、レティシャは自分では答えなかった。
代わりに、隣に座る女騎士に、その役目を譲った。
「ルチア、訊かれているぞ。どうなんだ? 其方らは騎士の中でも実力者揃いか?」
「……いいえ。そうではありませんね」
ルチアは、まるで「不本意だが、姫様が言うので仕方なく答えてやるのだぞ」と念を押すように、一度クルトをジロリと睨んでから口を開く。
「我らはまだまだ騎士としては若輩者で、特に武芸が優れているわけではない。優れているのは武芸ではなく家柄だ。大貴族の三男とか四男が中心で、血統的には優れているから、精霊と契約している者が多い」
そのため魔法は使えるが、だからといって騎士として実力が高いわけではないと、ルチアは言う。
「もちろん、魔法が使えると色々と有利ではあるがな」
あるに越したことはない。けれど絶対になくてはならないもの、というわけではない。騎士にとって、魔法とはそういうもの、らしい。
(そういや、ルチアも含めて、みんな若い騎士ばかりだったな……)
経験不足ということなのかなと、クルトは理解した。
「そう言うお前自身はどうなのだ? お前だって魔法は使えるではないか。優秀な兵士だったのか?」
「いいえ、僕は兵士なんかじゃないですよ?」
むしろ、なんでそんな勘違いをしたのかと訝しんだクルトは、次のルチアの発言を聞いて納得した。
「そうなのか? お前は弓をなかなか巧みに使ったと聞いたが?」
普通の平民は武器など使えない。使うのは兵士くらいのものだから、ルチアがクルトを兵士だと誤解したのも無理はないかもしれない。
「僕は狩人です。弓は狩りで使うので」
「なるほどな、狩人か」
レティシャはクルトの説明に得心したと、大きく頷いた。
そして、しみじみとした口調で言う。
「良い職を選んだな。闇の特性に狩人はピッタリと嵌まるだろう」
闇に隠れ潜み、近づいて一撃で倒す。その手のことにかけては、闇は他の属性よりも優位性がある。
確かに狩人には相応しい。
実際、イバンは相棒としてものすごく役立ってくれた。
「ええ、まぁ……」
答えるクルトの声が、闇の中に溶けていく。
夜闇の中、馬車は進む。
やがて馬車の前方に、ネルガー城の城壁が現れた。