閑話03 エリーゼが任務を与えられること
氷の眷属が治める領地、ギドー領。
そこは今、『精霊から見放された地』と呼ばれている。
滅多に精霊と契約できる者も、生まれることはなくなってしまった。
街からは人が去り、農地は荒れ果て、夜になれば我が物顔で魔物が闊歩するという。
ギドー領では住人がみな一様に暗い顔で、いつまで続くともわからぬこの状況に、変化が訪れる日を夢見て暮らしている。
そんなギドー領を治める公爵、ギドー公爵ライナーは、今年六二歳になる。
通常ならば既に引退し、長子に家督を譲っている年齢だ。
しかし、それは叶わない。
彼には子が二七人もいるが、その内ただ一人として精霊と契約を結べた者がいないからだ。
彼のような大領地を所領とする諸侯が、精霊と契約を結んでいないなどということは、この精霊王国においては決して許されないのである。
精霊使いの跡取りを得るため、彼は八人もの妻と、それと同じ数の妾を囲ったが、それでも望みは叶わなかった。
このままでは、長い歴史を誇るこの氷の眷属の領地も、終焉を迎えることになるかもしれない。
追い詰められた状況の中で、なにも挽回する手立てがない、そんな現状に彼は疲れ果てていた。
氷の眷属の本拠地、レイガッタ城の執務室のデスクに向かい、ライナーは書類を読み、頭を二、三度振り、また書類を眺め、ペンをインク壺に浸し、署名をしようとして躊躇い、顔を上げてため息をついた。
集中力が続かない。疲労が彼の身体を重く蝕んでいた。
「お父様、お加減が悪いのですか?」
尋ねながら、少女が彼の背を擦った。
彼の二七人いる子のうち、二四番目である彼女の名はエリーゼ。
銀の髪と氷蒼色の瞳を持つ、美しい少女だ。
名目上は別の貴族の元に生まれたことにしてあるが、間違いなく彼自身の娘だ。
今はまだ幼さの残る美しさだが、いずれは誰もが認める美貌へと成長するだろう。見る者みなにそう確信させるその精緻なまでに整った容貌に、今は憂慮の影が差している。
「……いや、大丈夫だ」
言いながら、そっとライナーは娘の手を払いのける。
「ふぅぅっ」と、息を吐き出し、背もたれに細い背を預けた。
瞼を閉じ、左手でゆっくり顔を撫でおろす。そして閉じた瞼を開かぬままに、ライナーは娘に語りかけた。
「……王都から、報せが届いた。どうやら、レティシャ殿下が、あの血筋の公子をみつけたそうだ」
最初はその意味がよくわからなかったのか、キョトンとしていたエリーゼの表情が、次第に歓喜の色に染まっていく。
「それは……! 素晴らしい報せではないですか! なぜお父様はそんな風になんでもない顔をしているのです!? これほどの吉報ですよ!? 喜ぶべきではありませんか!」
ライナーは目を薄く開いた。その目に映るのは、興奮して喜ぶ娘の姿だ。
そんな娘が、ライナーにとっては不憫に思える。間違っても喜ぼうとは思えない。
このような、絶望の果てにもたらされた一筋の希望。それは毒だ。
甘い果実の中に、密かに忍ばせた、猛毒。
それは心を殺すものだ。
どうせ望みなど、ほとんどないというのに。それでもほんの僅かにもたらされた希望に、縋ってしまう。もしかしたら我ら氷の眷属が、救われるのではないかと、そう思ってしまう。
結局また、最後には裏切られると理性ではわかっているというのに……
「お父様、それでは私に命じてくれるのですよね? 私に役目を任せてくれるのですよね?」
頬を紅潮させて、エリーゼが真っ直ぐにライナーの目を見つめる。
「……喜ぶような話ではない。お前は、生贄になるのだぞ?」
「お父様! そのような言い方は良くありません! これは、贖罪の機会が与えられたと考えるべきです!」
「贖罪……? クックック……」
ライナーは、濁った目を歪めて、笑い出した。
笑いたくなどないのに、笑う以外にどうしようもない。まるで底なしの穴を覗き込むような、果てしなく暗い笑いだった。
「なんの贖罪だ? お前の罪か、エリーゼ? それともこの私の罪か? 違うであろう? 我々が一体なにをした? 私はな、もううんざりなのだ。生まれる前に犯した一族の罪とやらで、これほど虐げられねばならぬことがな!」
ライナーは、机を両の拳で叩き、そのまま力を込めて机を押さえつける。拳がブルブルと震えた。
「お、お父様……?」
やがて大きく息を吐き出し、脱力してライナーは天を仰いだ。
「――正直に言えばな、私は精霊が恨めしい。これだけの年月が経っても、まだ我々を許さぬという、あの精霊たちが……」
「お父様! いけません! お願いです、それだけは、それだけは、言ってはならないことです。お願いですから!」
「……そうであったな。すまぬ。口が過ぎた」
「お父様……」
一度激して冷静になったのか、ライナーの瞳には理知の光が戻っていた。
「私は気が進まぬが、やはりお前が一番適任のようだ、エリーゼ。というよりも、他に適任の者がおらぬ」
「はい、お父様はお気になさらないでください。私は、自分が行きたいのです。進んでその役目を引き受けるのです」
「……そうか」
「はい。なんとしてでも、一族のためにやり遂げてみせます。必要であれば、他の二人を出し抜いてでも……!」
「……言っておくが、私はなんの期待もしておらぬ。エリーゼ、お前が失敗すると言っているのではないぞ。誰が行こうと、どうせ最初から無理な話なのだ」
「構いません」
エリーゼは、決意を込めて、断言する。
「期待されていなくとも、どうせ無駄だと思われても、それでも、これが唯一の希望なのです。ならば、それにしがみついてみせます。僅かの希望に、縋りついででも、手に入れてみせます!」
最後にエリーゼは、「では準備がありますので」と告げて、執務室を出て行った。
ライナーはそんなエリーゼに、「頑張れ」とも、「しっかりやれ」とも、「成功を願う」とすら声をかけることができなかった。
全ての希望が摩滅してしまった彼には、それらの言葉はあまりに白々しくて、例えその場限りだとしても、とても口にすることなどできなかったのだ。
代わりに、彼は祈る。それだけが、彼にできることだったから。
「エリーゼ。願わくは、お前が希望という毒に心を殺されずに済むことを。……あまりに可能性の低い願いではあるがな」




