02. クルトが鹿を狩ること
森の奥、ぽっかりと開いた木々の隙間。
芽吹いたばかりの新緑を、薫風がゆったりと揺らしていた。
そこで一〇頭前後の大角鹿がのんびりと草を食んでいる。
その大角鹿をジッと見つめる、焦げ茶色の髪と、漆黒の瞳をした少年がいた。
クルトだ。
クルトは慎重に、風下からそっと獲物に近づいていく。
手には小型の弓を持っていた。
森の中で使うので、あまり大きな弓は邪魔になるからだ。
小型の弓は通常、威力が低いものだが、これはいくつかの木片を重ね合わせて作った特別製だ。
引退した先輩の狩人が、もう使わないからとクルトに譲ってくれたのだ。
使い古されてはいたが、抜群に調子は良くて、クルトはすぐにこの弓が気に入った。
孤児院で成長したクルトは、数年前から狩人として働いていた。
テミッタの町の近くにある森が、いつものクルトの狩場だ。
そこで鹿や狐、猪などを狩り、肉や毛皮を売ってクルトは生計を立てていた。
クルトは草の間から鹿たちの様子を探り、警戒が薄いと判断すると弓をそっと斜めに構える。
背の矢筒からお手製の矢を一本、抜き取った。
これは近くの渓流に住む、山鳥の尾羽から作ったものだ。
名前も知らない鳥だけれど、この黒い羽根がなかなか具合が良かった。他のものよりも、よく飛ぶ矢が作れるのだ。
弓に矢をつがえて、少しずつ引き絞る。
ピタリと静止し、次の瞬間には矢を射放した。
矢は狙いを過たず、一頭の鹿の首筋へと突き刺さった。
その鹿は草の上にどうと倒れ、残りの鹿たちは一斉に走り出す。
「イバン、一頭か二頭でいいから、足止めを頼む!」
叫ぶと、クルトの足元にあった影が伸びる。
伸びた影が大角鹿の元まで届くと、そこから黒い腕が二本、生まれる。
黒い、影の腕が鹿の脚を掴んだ。二つの腕が一頭ずつ、鹿の脚を止めた。
「ナイスだ! イバン!」
脚を掴まれた二頭が、狼狽えて暴れる。
それをチャンスとみたクルトが、続けざまに二矢、放つ。
二つの矢はどちらも、同じ鹿へと向かて飛んだ。矢は鹿の胸と、首の付け根に当たる。
その鹿はそれが致命傷となった。
これで倒した鹿は二頭目。
最後の鹿は、必死に暴れていたが、なんとか足を掴む影の腕を振り払うことに成功した。
クルトは身構えるが、鹿はクルトのほうに向かっては来なかった。
そのまま回れ右して、森の中へと逃げて行く。
「チェッ、一頭逃がしたか……ゴメン、イバン。せっかく捕まえてくれたのにさ」
イバンが二頭を足止めしたときに、少しだけクルトは迷った。
クルトが連射できる矢の数は、二矢が限界だからだ。
それぞれ別の鹿を一矢で仕留められたら最高なのだけど、そこまでの自信はなかった。
だから確実を期した。
結果、一頭は上手く仕留められたが、もう一頭には逃げられてしまった。
クルトの影から持ち上がったイバンが、慰めるように背中を軽く叩いた。
『……、…………!』
「……うん、ありがとう、イバン。次はもっと上手くやるよ」
クルトの声に、イバンは言葉を返すことはできない。だがイバンは、小さく震えることで肯定の返事に代えた。
もう長い付き合いだ。
話すことはできなくても、クルトにはイバンの言いたいことが、その仕草などからある程度理解できるようになっていた。
クルトは鹿の喉を切り裂いて、血を流す。
それから大角鹿の脚を掴んで水場まで引き摺ると、そこで鹿の身体にナイフを入れて、胸を切り開く。そして内臓を取り出した。
さらに頭部を外し、水の中に鹿の身体を沈めた。
二頭とも同じ処理をしてから、石の上に腰を下ろして休憩にする。
川の水を手ですくって飲んだ。喉が痛くなるほど冷たい。
見上げると、木漏れ日がキラキラと輝いている。
クルトにとっては気持ちの良い陽の光だけど、イバンにとってはそうではない。
イバンは光を避け、木々の影の中をあちこちに移動しては、時々ムクリと影の中から身を起こす。
イバンの姿かたちは割と自由が利くらしく、色々な形を取ることができる。
そして、昔より随分大きくなったし、強くなった。
最初は夜、しかも明かりの届かない暗がりにだけ現れたイバンだったが、この一〇年あまりでかなり成長した。
今では昼でもこうして影の中に潜めば、クルトと共に行動できるまでになったのだ。
大きさも以前は、手の平の上に乗る程度だったのが、今ではクルトと同じくらいの大きさにもなれる。
短時間ならば、さらにもう少し大きくも。
クルトは腰に下げてある皮袋の中から、ボールを取り出した。
これは、木を削って作った球に、鹿の皮を巻いたものだ。
「イバン、行くよ!」
それをイバンに向かって投げてやると、影が膨らんでボールを受け取る。
そしてそのまま、影の中にボールは飲み込まれた。
嬉しそうに、影がブルブルと蠕動する。
それからポーンと、イバンがボールをクルトに向かって打ち出して、それをクルトがキャッチする。
「アハハハ、イバン、上手い上手い!」
それから少しの間、クルトはイバンと、キャッチボールを楽しんだ。
町の中ではイバンとこうやって触れ合うことはなかなかできない。だから、森の中に来たときにはクルトは、その分までイバンとよく遊んだ。
そんなことをしているうちに時間が経ち、そろそろ町に帰る頃合いになる。
クルトはボールを片付け、川の中から冷やしていた鹿を取り上げる。
「イバン、頼むよ」
『…………!』
クルトがそう言うと、イバンは川岸の地面の上に薄く広がる。
そこにクルトは、鹿を下ろす。
すると不思議なことに、鹿が影のようなイバンの身体の中に、入っていくのだ。
薄く広がったイバンの体内に、鹿を入れておけるスペースなど、どう考えてもないというのに。
これはイバンが成長したことによって使えるようになった能力のひとつで、影の中に物を保存する力だ。
まだあまりたくさんは入れられないが、大人の身体くらいの大きさの物なら、影の中に入れておけるようになった。
何度か、クルト自身がイバンの影の中に入ってみたこともある。なんというかイバンの中は随分不思議な感触で、粘度の高い液体に包まれているようだったけれど、呼吸は問題なくできた。
この能力の応用で、薄い壁なら壊すことなく壁抜けすることもできる。
他にも、鹿を捕まえたときにやったように、影から腕を出して、なにかを掴んで拘束する能力もある。
これらの能力は便利なのだが、クルトはそれを誰にも見られないように注意していた。
イバンは明らかに普通ではない。
イバンのようなことができる生き物は聞いたことがない。明らかに普通の動物とは違う。
もしも人に知られれば、騒ぎになるのは間違いなかった。
そして貴族の耳にでも入れば、イバンを取り上げられるか、下手をしたら魔物だと思われて討伐されてしまうのではないか。そういう恐れがあったからだ。
イバンの正体について、クルトも考えたことはある。そして一応、クルトなりに納得のいく解答も思いついた。
けれど、そんなことよりも大事なのは、イバンがクルトの大事な友人だということだった。
イバンの正体がなんであろうと、その部分は変わらないのだから。
イバンは一頭目の鹿を完全に飲み込んだが、二頭目は半分ほど飲み込んだところで、それ以上は入らなくなった。
「やっぱりまだ二頭は無理か。仕方ない。今日は一頭だけ持ち帰ることにしようか」
『……、…………』
「大丈夫。一頭分だけでも運んで貰えるとすごい助かるよ。それに、残りは川に沈めておいて明日取りに来ればいいんだからさ」
実際、本当はそのくらい長い間冷やしたほうが、肉の味は良くなるのだ。
「よし、イバン、帰ろっか」
『…………!』
クルトは弓を背に担いで森の中を歩き出す。
本当ならこれでさらに、獲物の鹿を担いで運ばなければならないのだ。それを思えば、イバンの存在が本当にありがたい。
大抵の狩人はチームを組んで仕事をすることが多い。
クルトが一人でもこうして活動できるのは、大部分、イバンのおかげだ。
まぁ、他の狩人と組になれない理由も、イバンの存在があるからなのだけど。
イバンの能力はまるで魔法のようだ。魔法というものがこの世にあるのは知っているが、それを使える人をクルトは見たことがない。
聞いた話では、魔法を使えるのはこの国では例外なく、貴族なのだそうだ。
貴族は精霊と契約することによって、魔法を行使するらしい。
平民の、しかも孤児であるクルトが魔法のような力を使っているのが誰かにバレれば、どう考えても碌なことにはなりそうもない。
「これで今日も、孤児院のみんなに鹿肉を持って帰れるな」
『……、…………!』
「この前の土産も肉だったって? そうだけどさ。でも僕は狩人だから肉は手に入りやすいし、それにやっぱみんな肉が好きだからさ」
『…………! ……、…………』
「栄養が偏るって? わかったよ。じゃあ今日は魚でも買って行こうか」
クルトが狩人になってそろそろ四年だ。
獲物は鹿が一番多いけれど、他にも金になる獣ならなんでも狩る。
ときには農家から頼まれて、作物を食べてしまう害獣を狙って狩ることもある。
幸い孤児院にはベッドに空きがあったので、クルトは多少の金を入れる条件で、未だに孤児院で寝起きしていた。
クルトはできるだけ、毎日孤児院に食糧を差し入れるようにしているので、院長先生も喜んでくれている。
「クルトが良ければ、このままずっと、ここで生活してくれていいわよ」
そう言って貰ったのも、一度や二度ではない。
孤児院の経営が楽なはずはないから、クルトの差し入れが助かっているのは間違いないと思う。
しばらく歩くと、クルトが住むテミッタの町を囲む土壁が近づいて来る。
このあまり高くない土の壁の奥には、もうひとつ木の柵がある。
土の壁を乗り越えて盗賊などが迫っても、木の柵の間から槍を突き出して街への侵入を防ぐ工夫だ。
あまり立派な防御設備とは言えないが、田舎の町などどこも似たようなものだ。
テミッタの町だけが特別貧相なわけではない。
領主貴族がまともに防御を整えるのは、自身の城がある、領都くらいのものだ。
テミッタの町の代表も、貴族と言えば貴族だけれど、一代限りの下層貴族であり、実際は平民と大差はない。
町に着く前、土壁の手前で、イバンに頼んで鹿を出してもらい、それを肩に担いだ。
狩人のクルトが、いつも手ぶらで町に帰って来たら、あまりに不自然だ。
面倒でも最後だけは自分で担ぐしかない。
「やっぱり重い……」
鹿の重みが、クルトの肩に食い込む。
前かがみになったクルトが、ヨロヨロと歩く。
クルトは門を潜って町の中に入り、まず狩人ギルドに向かった。
テミッタの町には五〇〇人ほどが住んでいる。
宿屋はふたつ、食堂兼酒場が三軒、自分で育てた野菜などを持ち寄る小さな市場がひとつ。
なんの変哲もない、典型的な田舎町だけど、これでもこのあたりでは大きい集落だ。周辺にあるのはどこも、もっと小さな村落ばかりだ。
クルトが鹿を担いで歩いていると、あちらこちらから声がかけられる。
「お、今日も獲物を仕留めてきたか、クルトは若いのにやるなぁ」
仕事の手を止めてそう話しかけてきたのは、浅黒い肌をした修理屋のレナトだ。
髪や瞳は漆黒で、小柄な体格をしている。
大抵の町民は白い肌に青や緑の瞳をしているけれど、レナドに近い外見の者も一割から二割ほど住んでいる。
なんでも、彼らの先祖は結構な昔に、大勢でこの国に移民してきた遊牧民なのだとか。
クルト自身はといえば、肌は白いが瞳は黒だ。両方の特徴を持っているところから、恐らくは両方の血が混じっているのだろう。
「なぁ、クルト! 今度俺にも弓を教えてくれよ!」
そう言ってきたのは、町にふたつある宿屋の内、安いほうの長男であるムックだ。
今九歳の彼は、あまり宿屋を継ぐことに興味がなさそうだ。
「今は忙しいから、今度ね」
「クルトはそればっかじゃねーか!」
不貞腐れるムックに手を振りつつ、クルトは苦笑する。
もし彼の父親から正式に、「息子に狩人の技を教えてくれ」と頼まれればクルトは別に断るつもりはない。
クルト自身、先輩の狩人に色々と教わったのだから、お互い様だ。
しかし、どちらにしてもそれはもう少し後のことだ。
今のムックに弓など教えたら、ところ構わず矢を放ちそうで怖い。今すぐなんて、とても教えられない。
弓矢は立派な武器だ。子供の力でも下手をすれば人を殺せてしまう。
もしムックに弓を教えるのなら、彼の両親と綿密に連絡を取って、間違いが起きないようにしっかり管理しつつ始めなければならない。
ただ教えればいいというものではない。
教える側にも、覚悟と責任が必要だ。
平和で長閑な田舎町。
たまに訪れる旅人はそう思うようだし、実際その通りだと思う。
けれど数年前には、冷害による飢饉が起こり、町の子供を何人も売らなければ凌げないようなときもあったのだ。
そのときのことは、クルトは今でも時折思い出すことがある。
忘れることはできない。まず真っ先に売られたのは、同じ孤児院に住んでいた子供たちだったのだから。
クルトの良く知っている子供が五人も、人買いに売られていったのだ。
その後彼らがどうなったのか、クルトは知らないし、恐らくはこれからも知ることはないだろう。
狩人ギルドは市場の近くにある。
ギルドの建物はさほど大きくないけど、ありがたいことに屋根つきの解体場が併設されている。
ここでは自分で獲物を解体して肉を持ち帰ることもできるし、解体する前の状態でギルドに獲物を売ることもできる。
今日は解体をせずに、そのまま鹿を売ることにした。クルトは鹿の代金を受け取ってからギルドの建物を出た。
それから市場に寄って魚と野菜を買い、寄り道もせずに孤児院に向かう。
いつも通りの順番に、いつも通りの経路を歩く。完全にルーチンワークと化している。
多分、こんな毎日がずっとこの先も続いて行くのだと、クルトは疑っていなかった。
そんな考えが完全に間違いだったと気付くまで、まだもう少しだけ、時間があった――