表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

1/9

1 序章

 死者と生者を隔てる黄泉比良坂(よもつひらさか)の途中に、ひっそりと閉ざされたままの岩戸がある。その先に続く、岩肌がむき出しの通路を一刻も進めば、人の住まう(なか)つ国を模して造られた、(なばり)の地へと繋がっていた。


 隠の地には、黄泉(よみ)にも(うつし)し世にも属さぬ者たちが暮らしており、高天原(たかまがはら)の神々も時折、お忍びで息抜きに訪れるそうだ。

 自然界のありとあらゆる美しさを、全て詰め込んだような景観と、その地で営まれる生きものくささに満ちた日常が、なんとも愛おしいらしい――






 ()正刻(しょうこく)。命ある人間の魂が、(なばり)の地に迷い込んだと報せがあった。

 抑えようもない喜びと、感慨深さが胸に押し寄せ、平静を努めていても口角が上がってしまう。  


(首尾よくやったようですね。時が来ました……)


 この機を逃しはしまいと、豪快に御簾(みす)をはね除ける。白銀に輝く衣を翻しながら門を抜け、一気に築地塀(ついじべい)の外まで出た。

 眼下に広がる景色は宵闇に包まれていたが、かすかに柔かな灯し油の明かりが見てとれる。


「相変わらず美しいですね――さぁて、行きましょうか」


 昂る想いを鎮めんと、大きく息を吸い込む。濃厚な香りが鼻先から体内に侵入し、その甘やかさに高揚感は増してしまう。やはり、逸る気持ちは抑えられそうにない。


――沈丁花が咲き誇る時節を迎えたのに気がついたのは、いつぶりであろうか――







(嫌な夢……)


 悪い夢の最中に、これは悪夢を見ているのだと思い至ったとて、己の意思で覚醒するのは難儀する。

 由良(ゆら)も目覚めようと抗ってはみたものの、夢の世界で降りかかる災難に、翻弄されるがままになっていた。


(アラームはまだかな?)


 開放的な気分で空を自由に飛び回っている時に限って、心臓を貫くようなけたたましい音が鳴り、楽しい眠りは終わりを迎えたりする。

 夢なんてそんなもので、本当にままならない。


(あーあ。よりにもよって、鼠の姿になって猫に見つかるなんて……)


 いつもなら、お近づきになりたくて仕方のないニャンコに、狩られる側となってしまった由良は、これでもかと必死に四肢を回転させ、逃げ切ろうとしていた。

 だが、執拗に追いかけてくる三毛猫との距離は縮まる一方だ。

 玩具(おもちゃ)にされまいと、土埃にまみれながら逃げる由良の視界に、朱い鳥居が入り込む。


(神社なら、隠れられる場所があるかもしれない!)


 伸びかけの草におおわれた死角のない農地帯に見切りをつけ、やっとこさ目にした人工物を目掛けた。

 石段を小さな身体で必死に駆け上がる。幸い、跳躍力はあった。

 いくつかの鳥居を(くぐ)り、みるみるうちに入母屋造(いりもやづくり)の立派な社殿に迫ったが、敵は、猫まっしぐらで追跡してくる。


(んもう、しつこい子! なら、あそこに暫く隠れよう!)


 由良はくるりと踵を返し、そのまま猫の背を飛び越え、一目散で右手にあった御神木のうろに入りこもうとした。

 樹齢五百年はあろうかという大木だ。幹にポッカリ空いた穴が、神聖な空間となって守ってくれるはず。


(あともう少し!!)


 由良が安堵しかけたその時――




「っと! 鼠か?」


 脇目も振れず、御神木のうろに向かっていたはずの由良の身体は、声の主に片手でむんずと捕まれていた。

 丁度よく、幹の反対側から出て来た男にぶつかりかけたらしい。


「キュウッ」


尾長天竺鼠(おながてんじくねずみ)か」


 情けなく出た由良の声は、尾長天竺鼠と呼ばれた小動物のものだった。同時に出された男の声音は、鼠を素手で捕らえたのに、酷くあっさりしている。


 先ほどまで目を爛々とさせ、彼女を狙っていた三毛猫は、ゴロゴロと咽をならして男の足にからみついていた。


「おい、生成(きなり)。勝手にウロチョロすんな」


 生成と呼ばれた猫は、「ナ~オン」と猫なで声で返事をしている。嬉々として鼠を追い回していた狂乱ぶりからの変貌に、由良はちょっとだけ鼻白んだ。

 天敵をよくよく観察すると、普通の三毛猫たちとは違い、随分と長い毛足をしていた。


(三毛猫だし、生成は女の子だよね。この人が飼い主かしら?)


 主人に甘える姿は、恋人にウザがられても纏わりつく女子みたいだ。そんなことを考えながら飼い主の男を見上げると、唐突に彼の目線まで身体を持ち上げられ、強制的に見つめ合う形にされた。


 その面立ちは、端正であるし、精悍でもある。男くさくもあったが、どこか中性的で色香が漂う。

 月明かりを含んだ白銀の髪と、力強い露草色の瞳が、その美貌に華を添え、由良は状況を忘れ見惚れていた。


(綺麗な人っているものね……)


 人離れした美しさを持つ相手にまじまじと見つめられ、平凡な容姿の自分が恥ずかしくなったが、今は鼠だったと思い直し、これはチャンスとばかりに男を見つめ返した。

 羽織りの下の着流しからは、胸元が大きく覗いていて、思わず由良は視線を逸らしてしまう。


(け、けしからん……)


 もじもじしだした由良を、絶妙な力加減で押さえたまま、訝しそうに男が呟いた。


「お前……、魂がヒトなのか?」


 指先で顔周りをグリグリとされる。


「キュウッ」


 夢とはいえ、触れられた感覚があまりにもリアルで心地よく、由良は「ストップ」と抗議の声をあげた。

 しかし、それはやはり小動物の愛らしい鳴き声にしかならず、相手の指の動きは止まらない。


「おい、なんでこんなとこに迷い込んだ?」


 高くもなく低くもない、ちょっとしゃがれた声が、妙に色っぽい。変わらず顎の下を(くすぐ)られ、尾長天竺鼠という生き物の性なのか、恍惚となってしまう。


(やっぱり夢には抗えない……)


 夢の世界で与えられる感覚は、目まぐるしく変わるもの。先ほどまで死の恐怖を味わっていたはずなのに、男の手の平にすっぽりと収まり撫でられると、この上ない幸福感で満たされる。

 その手の心地よさに完敗したチョロさが悔しくも、ここはいっそ存分に堪能したいとも思う。


(このまま、良い夢で朝を迎えたいな……)


 そのうち鳴るであろうアラームで現実に戻されるまで、由良はその手に身を委ねることにした――

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ