第76話 世界の始まり、苦しみの誕生
ユミルの願いに応えるため、彼女が付いてきてほしいと言った場所に訪れた。
「ここは・・・・・・」
やってきた場所は、2人で創った世界で最も空に近い場所だった。ここから見渡すと、世界全体を一望できる。
「どうしても、ここからの景色が見たくて・・・・・・。迷惑でしたか?」
「いや、そんなことはないよ。すごく、嬉しい」
颯の顔が綻ぶ。この景色を見て、今まで悩んでいたのは何だったのかと思えた。心が満たされ、落ち着いた気持ちになると、颯の頭に語りかける声が聞こえた。颯は声がする方を振り向く。それは頭上、天から聞こえていた。
「どうかしましたか?」
「呼ばれたんだ」
「呼ばれた? 誰にですか?」
「神様みたいなものに、帰ってこいって」
ここでの役割を果たしたせいか、颯は彼にしか聞こえない声に呼び戻される。しかしそれは、ユミルとの別れを意味する。
「あの、あなたはそれに、応えてしまうのですか?」
「僕はもともと、ここにいる人間じゃなかったんだ。いつか、もといた場所に帰らなくちゃいけない。そのいつかっていうのが、今なんだよ」
「でも、それは・・・・・・」
ユミルは顔を俯かせた。両手を自分の胸に持ってきて、握りしめる。
「ごめんなさい。わがままで」
「それはわがままじゃなく、正直なんだよ。僕は、ユミルが僕に正直でいてくれて、嬉しい。嫌いな相手に、正直でいることは出来ないからね。だから、僕もユミルに正直でいようと思うんだ」
颯はユミルの在り方に自分の心を動かされた。自らの思いを誤魔化すことなく、素直に伝えるその姿勢は、尊くかけがえのないものだ。そしてそれは、他人に対してだけでなく、自分に正直でいることにも繋がる。もし、自分が空虚な存在ならば、気持ちなど持ち得るはずもない。誰かに伝えたい言葉を持っていることが、自分を形作っている。
「僕も、ユミルのことが好きだよ。でも、帰ろうと思う。誰か待ってるとか、そういう理由じゃなく、僕自身が、帰らなきゃいけないと思ったんだ」
「そう、なんですね。でも良かった。あなたに、正直な気持ちを知ることが出来て、私は信じられていると思えました」
ユミルに自分の気持ちを伝えた颯。しかし、そんな彼の胸が急に苦しみ出した。激しい痛みに襲われた彼は、自らの心臓の位置を抑え、その場に倒れ込む。颯を心配し、駆け寄るユミル。
「ガッ、ハッ、ハッッ!」
「どうしましたか!? そんなに、苦しそうにして・・・・・・!」
痛みは止まらない。そしてその時にハッキリと理解する。自分は死ぬのだと。これは夢ではなく、自分は実際にこの時代のこの地に生を受けたのだ。つまり元いた場所に帰るということは、今ここにいる自分は死ななければならない。それが別れだ。
ユミルが何とかして颯を救おうと試みるが、懸命な努力虚しく、颯はその場に倒れ、動かなくなった。ユミルはその後も動かなくなった颯の体に何度も呼びかけるが、反応はない。そして彼女は、颯がここを去り、元いた場所に帰っていったのだということを1人、受け止めた。
しかし彼女は泣かなかった。確かに颯がいなくなってしまったことは悲しい。だが、最後に正直な気持ちをお互いに言い合うことが出来た。それが何よりも嬉しかった。彼女はしばらく、その場でもう動くことのなくなった颯の顔を、愛おしそうに見つめる。
そして、過ぎていく時間を忘れるほどにその場にいると、颯の肉体から黒い竜が現れた。
「あなたは・・・・・・!」
「我が名はファヴニール。この名は、あなたが思う人から授かったもの・・・・・・」
それだけを言い残すと、黒い竜は翼を広げ、どこかへと飛び去ってしまう。そして黒い竜ともう1体、颯の体から今度は白い竜が姿を見せた。白い竜は咆哮し、ユミルは世界の鼓動を感じた。目の前に横たわっている颯の肉体は鼓動と共に世界に溶け、やがて世界には生命が実る。
「これは、あの人が私に残してくれたのでしょうか」
ユミルはもう1人ではない。この世界はやがて命に満ちた豊かなものになっていく。彼女は、もういない颯に思いを馳せる。しかし世界が循環をするように、きっと魂も循環する。
「もう会えないなんてことも、まだ決まったわけではないのね。なら、もう一度あの人に出会えるように、この場所に名前を付けましょう」
ここは、神の世界である天空に最も近い場所。もし、万が一にも、再び2人が会うこともあるかもしれない。その時まで、ここで一緒にいたことを残す。例え気付くことなどなくとも、証は残るだろう。そしてユミルは名付けた。
「ヨトンヘイム。ふふっ、我ながらいい名前だわ」
颯はまた目を覚ます。そこには白銀の少女と黒金の男がいた。
「どうだった」
「どう、って・・・・・・」
正直、颯はあのままあそこに居続けても良かったのだ。きっと不自由なく、幸せに時を過ごすことが出来ただろう。しかし、颯はそれを選ばなかった。
「何故だ。理由もなく、そのようなことが出来るお前ではないだろう」
「理由なら、ないわけじゃない。僕自身が、ここに帰ってこなきゃいけない、ってそう思ったからだよ。それ以上は、僕にもよく分からない」
「君は常識に囚われすぎなんだ。こうでなければいけない、ああでなければいけない。そうしたものに、考えもせずに振り回されている。君が帰らなければならない、と思ったのも、そうした常識の1つにすぎない。本来なら魂に在るべき場所なんてないのだから。けれど、それを全て逆にしてしまうのも違う。常識だからってなんでも考えなしに破ってしまうのも、常識に振り回されているに過ぎないからだ」
「なら、どうすべきだったっていうのさ」
「どちらも正しくないんだ。ただそれは、どちらも間違ってないということにもなる。あるのは事実だけだ」
「言ってる意味がよく分からない。良いことだったのか、悪いことだったのか、はっきりしてくれ!」
颯は戸惑う。少女の話していることは、要領を得ず、雲を掴むようなものだ。しかし、颯が下した判断そのものに問いかけてきている。問うている以上、答えがあるはずなのだ。その答えが、分からない。
「そうか。では聞こう。お前は自分の判断が正しかったと思えるか?」
「そうじゃなきゃ、ここにはいない。与えられた選択肢の中で、最善のものを選ぶことは当然のことだ」
「そうか。お前はあれこそが、最善だったというのだな」
「違うっていうのか?」
「どうだろうな。ただ私に分かることは、あの時間は世界の始まりであったということだ。あの後、世界には生命が溢れ、各々の生を謳歌する。しかし、それと同時に、苦しみも生まれたのだ。全ての生命は死ぬまで苦しみ、もがき続ける。それが本当に善であったのだろうか。あの時、あの瞬間、お前の選択によっては苦しみが世界に満ちることもなかった」
全ての命は生きている。生きているからこその命なのだ。しかし生きている限り、苦しみもまた続く。多くの人々、もしくは世間一般の常識では、生きていることは素晴らしいと考えられている。しかしそれは本当だろうか。苦しみ続けることの一体何が素晴らしいというのだろうか。生きることは苦しむことと同義である。そして生を肯定することは苦を肯定することでもあるのだ。
「もう1度、目を閉じるのだ。己と向き合い、世界と向き合い、真実を持ってここへと戻ってくるがいい」
そして颯は、深い夢の中へと落ちていく。




