第65話 氷の女王
結局あのまま2人は夫婦の自宅で昼食をごちそうになり、夕方まで話し続けてしまった。日が沈みかける時間になって、ようやく城へと戻ったのだ。疲れた2人は部屋へ戻るなり、すぐ眠りにつく。
そこからしばらく経って、颯は目を覚ました。昨日と変わらず、ベッドはシュリィに独占され、颯はソファーの上で深く眠れないままでいた。それでも疲れは取れており、目も中途半端に冴えているので、もう一度眠りにつく気にもなれない。ただ時間が過ぎ去るのを待つのも退屈でしかないので、仕方なく部屋を出て夜の城をぶらつくことにした。
とくに目的もなく歩く。廊下の途中には大窓のついた、それなりの広さの待合所のような空間がある。そこの窓から月の光が、この暗闇に包まれた廊下で道標のように差し込んでいた。颯は月光に導かれるようにして、廊下を進む。そして光が差し込むその場所に1人、佇んでいる者がいた。ヒロナだった。何かを憂いているような悲しげな表情は、月の光に照らされ、可憐で儚い美しさを放っている。颯は声をかけることなく、息を呑んで彼女を見つめた。彼女のその姿に引き込まれ、時間さえ忘れてそこに居続けた。
しかしそんな時間は、彼が出した些細な音が打ち砕く。ヒロナはその音に気付き、そこに立っていた颯に気付く。
「あ、ごめん。見るつもりは全くなかったんだけど」
「いえ、こちらこそ。夜遅くにこんなところにいるんですから」
音のない静かな空間が流れる。2人は相手に声をかけるが、その声が重なった。
「ど、どうぞ」
「あ、いや、俺のはそんな大したことじゃないよ。ヒロナは、何を言おうとしてたの?」
「私もそこまでのことでは・・・・・・」
再び静かになる。お互いに何を話せばいいのかが分からず、ただ時間だけが流れていく。
「何か、元気ないね」
「そう、見えますか?」
「あ、いや、まぁ。違ったら、ごめん」
「いえ、多分そうなんだと思います」
「悩みでもあるの?」
「分かりますか?」
「まぁ、ね。よければ聞くよ。力になれるか分からないけど」
「・・・・・・でしたら、私の部屋へ来ませんか? そこなら誰にも邪魔されることはありませんし」
ヒロナからの誘いに颯は頷き、2人は女王の寝室へと向かった。女王の部屋は綺羅びやかであったが、今はその輝きも寂しそうに見える。まるでこの部屋全体が、今のヒロナの心を写しているかのようであった。
部屋に入り扉を閉めるなり、彼女は颯へと抱きつきそのままベッドへと押し倒した。
「ヒ、ヒロナ!?」
颯は驚いた。急だったということもあるが、それ以上にヒロナがこのような行動をとるということに驚いていた。彼女の顔はよく見えないが、自らを強く抱きしめてくる腕から気持ちが伝わってくる。
「私、どうしていいか分からなくて」
泣きそうな声で呟くように思いを吐く。弱々しく、今にも崩れてしまいそうだった。
「私は女王として、この国をこの国のまま、もう一度あるべき姿にしたかった・・・・・・。けれどそれは無理だったんです」
「・・・・・・どうして?」
「この国は変わろうとしています。他国と手を結び、世界と渡り合おうとしている。そんなこと、今までなかった。私の思い描く、理想ではないんです」
ヨトンヘイムは、太古の昔からこの地に国を気付き世界には目を向けてこなかった。ヒロナはその姿こそが、この国のあるべき姿だとして、その理想を叶えようと考えていた。しかし、彼女が実際にこの国で感じたものは、彼女の考えとは真逆のもの。自らの理想が無理だということを悟ったのだ。
「それでも、この国で1番偉いのはヒロナなんだろ? 誰がなんと言おうと、その願いを叶えることだって出来るんだよ」
「それは、人の上に立つ者、国を導く者のすることではありません・・・・・・。民の願い、国の未来、その全てにとって最良の選択をする。そうでなければならないんです。私には、出来ない」
「じゃあ、ヒロナはどうしたい? 自分の願いを叶える? それとも国のために働く?」
「分かりません。自分でもどうしたいのか、どうすればいいのか」
颯は、ヒロナの方を向く。彼女の顔は、物憂げな、浅瀬に打つ静かな波のような、ゆっくりと降り積もる雪のような、そんな表情。
「もし、もし僕が、君を迎えに来たら、ヒロナはついて来るかい」
「え?」
「悩みを打ち明けてくれて、嬉しかったんだ。頼られたり、求めてくれた気がして。だからそれに応えたい。出来る限りのことはする」
「そんな・・・・・・。私はあなた達がいてくれるだけで十分なんですよ」
「また嬉しいことを言ってくれたね」
今、ここで何をしたところで何も変わりはしない。だから感傷にひたるような、心を満たすようなことを言い、する。月明かりの夜という何にも変えられないこの特別な時間と空間にあって、2人はお互いの体を重ねた。
「明日、戴冠式なんです。そして、きっと颯さんとシュリィさんは明日の朝にはこの国を出ていくように言われると思います」
「どうして?」
「式は神聖なもので、決して穢してはならないんです。ごく一部の限られた身分の者だけが出席することを許されるから、外部の人間の立ち入りはいつも以上に規制されるでしょう」
それは別れを意味した。明日には正式にヒロナはこの国の女王として認められることになる。身分や立場が今までとは明確に異なるものになってしまう。もしかしたら今夜がヒロナと会える最後の時間なのかもしれない。
「嫌だな」
「私にはどうすることもできません。この国の人達は私に女王になってほしいと、そう願っています」
「でもヒロナは、本当にそれを受け入れるの?」
「・・・・・・受け入れる、というのは、もしかしたら私の本心ではないのかもしれません。弱いんですよ、私。貴族達の考えは理解出来ます。世界が変わっていき、この国も変わっていくことが望ましいというのに、私だけは信念を変えることが出来ず、歴史と伝統に置いていかれたまま・・・・・・。きっと女王になる資格なんてないんですよ」
帝国と神皇国どちらにも赴き、両国の戦争も間近で見た。颯とシュリィと共に。世界が変わっていることは、ヨトンヘイムではヒロナが1番理解していると言ってもいいのかもしれない。しかしそれでもヒロナは自分の頑固な信念に囚われ、脱することが出来ずにいた。くのうの原因はそこにある。
「信念を変えないことは美徳だと思っていました。けど違うんですね。変えられないことが、こんなにも醜いだなんて知りませんでした」
「女王に、なりたくないの?」
「分かりません。分からないんです。自分の理想はきっとこの国の未来の妨げになるでしょう。でも現実に沿うことを私の理想が許さない。ふふっ、これじゃあ我儘なお姫様みたい」
「なっちゃいなよ。我儘なお姫様に」
「なら1つだけ我儘を言わせてください。もう私が、何も悩まなくていい場所まで連れ出して、なんて」
「それがヒロナの我儘?」
「どうなんでしょう。ただこの地位から逃げたいだけかもしれません。それが出来ればなんだっていいと思ってる。そんな気がします」
我儘さえハッキリとしない。これもヒロナは弱さだと言うだろう。信念に引っ張られ、それ以外の道に行くことが出来ないでいる。壊すことが出来るのは、選択肢にはない、本人ではどうすることも出来ない状況だけ。
そんなこと起こりはしない。分かっている。そう思いながら、ヒロナは彼の最後の温もりに包まれた。
今夜、この部屋は熱帯夜になる。月明かりだけが見ていた。




