第8話 それは溢れたコップの水のように
颯の言う通りに、テスカトリポカは通貨を大量に作りだし、それを社会に流通させる。テスカトリポカのことを唯一見ることの出来るシルバーはまだ引きこもったままだ。なのでテスカトリポカは、誰の力を得ることも出来ないまま1人で何とかして、お金を人に流す。
人目の付くところに生み出したお金を置いたり、時には空から降らせたり、どんな手を使ってでも人の手にお金が渡るようにする。新聞で話題にもなったりしたが、そんなことはお構いなしにどんどん、思い付いた限りのことを実行していく。
「ハァハァ......。まだだ。こんなものじゃないぞ。もっと、もっと頑張らなきゃ......!」
この道の先にシルバーがいる。そう思うとテスカトリポカは頑張れた。
お金を手に入れた人々は瞬く間に、そのお金を使っていく。生活を豊かにし、自らの欲望を満たしていく。いくらあっても困ることはない。人は際限なく、消費を加速させていく。
消費は消費を呼び、経済は次第にどんどんと膨れ上がっていった。
街は熱狂に包まれた。
「おう、おっさん! それこっちに寄越せ! 100万だ! 100万出す!」
「いや、待て! 俺は200万! いや、300万出すぞ! ホークス社の証券なんて逃すわけないだろ?」
「1000万。買わせてもらうよ」
資産に余裕を持つ人が増え、そういった人々が手を出し始めたのは金融商品の類である。億万長者となる夢も、景気の良い社会になってしまえば夢ではなく現実へと変わる。溶けるように財を費やしていく中で、社会に生きる人々は自分の立ち位置を見失いかけていた。
一方で、不調となっていたゴールド商会に取って代わるように業績を伸ばし続けるシュリィの会社が現在盛んに行っていることがある。
「社長! 件の土地の買収、権利者との話がつきました。金額を上乗せしたらすぐに乗ってきましたよ」
「そう! 良くやったわね。さすがウチの社員だわ! それで帰ってきたところ悪いんだけど、次の仕事よ。今度はここの山を買収してきてほしいの」
「分かりました! すぐにでも向かいます!」
社員が社長であるシュリィに仕事の成果を報告する。最近、シュリィが経営する会社『黄昏』は土地を購入し、その土地を開発、もしくは高値で別の業者に売るといった、つまりは地上げである。全世界的な好景気となった中、土地の値段も大幅に上がっている。そこに目を付け、他のことを後回しにしてまでも、シュリィは土地の買収に執心していた。
「そんなに1つのことばかりしていて大丈夫なんですか?」
「心配ないわ! それにやればやるほど儲かることを黙って見てるだなんてわけないじゃない!」
秘書となったヒロナがシュリィのことを心配する。働きすぎ、ということもあるが、何よりも不安なのは、あまりにも勢いよく会社が大きくなりすぎていることだ。もし何かの拍子に経済を動かす歯車が止まりでもしたら......。そうなった時の備えが全くなされていない。あまりにも狂乱の中に身を置きすぎて考えられなくなってしまったかのようだ。
しかし責任者であるシュリィが判断することに、ヒロナは異を唱えるつもりはない。上手くいっているからだ。それに1度、不安になって颯に相談してみたこともあるが、「心配する必要はない」と言われた。「そのままでいい」とも。その言葉には、現状が上手くいっているから、という理由以外の意味も含まれているように聞こえた。そういった訳で、ヒロナは自分の仕事をただこなすだけに集中する。
街角の、誰の目にも付かないであろう、狭い路地裏。大量に通貨を発行し続けるテスカトリポカがいた。社会は豊かになり、物で溢れかえるようになった。しかし、それでもなおテスカトリポカはシルバーに出会うことが出来ていない。
「まだだ、まだこんなんじゃ......」
あとどれだけ続ければいいのか分からない。街から色んな人の喜びの声が聞こえてくる。だがシルバーの声だけは聞こえてこない。このままでは、シルバーは本当に社会から孤立してしまう。たった1人、シルバーだけが。
テスカトリポカがシルバーに取り憑いたのもそんな理由だった。傍から見ていて、世界で1番孤独な人間が彼だったのだ。自分が側にいてやれば、彼は孤独ではなくなる。しかし自分が側にいてやれない今、シルバーは再び孤独になってしまうだろう。それはテスカトリポカの正義に反する。
力を込めて、何度目か分からない能力を使う。
しばらくして、街から聞こえてくる声が変わった。
「なぁ、おい。そこのもん売ってくれよ......。ほら、金ならここにあるからさ」
「あぁ? いらねぇよ、そんな紙くず。何の使いもんにもなりゃしねぇ」
どこかの店での店員と客との会話だ。こういったことは他の場所でも起こっていた。
「俺の預けてた金はどこだ!?」
「私のお金もよ! あれが全財産なの! 今すぐに引き出させて!」
「そういった対応は現在行っておりません......」
「銀行だろ!? 何で出来ねぇんだよ!? 金はどこいった!?」
「金ならここにはないよ」
2人の銀行員が、人混みでごった返している銀行の前で、自らのお金を引き出そうとしている客と揉めていた。対応に当たっているうちの片方は同じ言葉を繰り返し、もう片方は既に投げやりになっている。末端の社員ではどうすることも出来ないのだ。
現在、社会全体で恐慌が起きている。突然、通貨の価値が暴落を始め、誰も止められなくなってしまった。誰も原因なんか知らないし、突き止めている場合ですらない。これは経済に参加している全ての人に影響が出ている、大規模な事件のようなものだ。
しかし、それでもなおテスカトリポカは通貨を発行し続けていた。
一方で、シュリィが経営している会社は悲惨な事態を迎えていた。保有していた資産やそれに伴う価値が一転してゴミのようになってしまった。社内では大慌てで対処がなされるも、焼け石に水で全く効果はない。
「あぁ、もう! どうなってるのよ!」
「ヒィィィ......」
シュリィは全く効果が上がらないことに業を煮やし、怒りを社員にぶつけていた。社員も立場や仕事に追われ、逆らえずに怯えてしまっている。そしてそのままパフォーマンスを落とした状態で仕事を続けるので、業務効率はさらに低下していた。
「怒鳴り散らさないでください、シュリィさん。社員の仕事にも影響が出ますよ」
「そんなこと言ったって、一向に良くならないじゃない!」
「諦めないで頑張りましょう? きっと何とかなりますから」
秘書であるヒロナが怒り狂うシュリィを宥める。その場はどうにか治まったが、このまま経済が急速に悪化し続け、会社も回らなくなっていったら、シュリィは再び、今以上に怒るだろう。何とかなるとはいったものの、ヒロナ自身にも先は見えていなかった。
今の状況は、ヒロナが少し前に不安に感じていたことだ。颯にも伝えはしたが、しかし彼は「心配する必要はない」と。あれは嘘だったのだろうか。それとも、まさか今のような状況になるように仕向けられたのだろうか。
颯がここにいない以上、確かめようがない。だが、真に危機的な状況を放って置く彼でもない。嫌な予感と、安心感。ヒロナの心には一見矛盾する2つが同居していた。
そして、テスカトリポカ。街中、いや世界中からの悲鳴が彼には聞こえてくる。それと同時に、シルバーのことも頭に思い浮かぶ。
「まだだ! まだ繋がれてない! もっと! もっとだ!」