思い出すって
四.
秋の定期演奏会の準備で、急にオーケストラの活動は忙しくなった。常任指揮者の葡萄谷氏が住まいの東京から久々にやって来て、練習、リハーサル、ゲネプロに合流した。島を音楽と観光によって盛り立てるために、来年、試験的に音楽祭を開催する計画が進んでいる。世界的に名の知れたソリストなども呼び、公開レッスンも行いたいと思っている。その際にみなさんの楽団がそのシンボルになる。まぁ頑張って。と団員たちよりも事情に通じているような口ぶりで偉そうに言うので、間がまた機嫌を損ねた。そのうえ、コンマスの溝口が氏と狎れ狎れしく口をきいているのを目撃し、ふたたび彼女への敵愾心もにわかに再燃した。水落もいい気はせず、彼女をそれとなく問い詰めると、葡萄谷氏は彼女の叔父であることが発覚した。水落は今までそれを明かしてくれなかったことが不満。間は、この七光りが、だからここに来たのか、とさらに怒りを強め、ますます不動明王に顔が似てきた。とはいえ反目しあっている余裕はなく、転がるように十月は過ぎ、十一月の本番を終えた頃にはみな、いっとき脱け殻になった。
一週間の休暇の間、森は帰省を考えていたが、長旅が億劫で島に残ることにした。島外の近場の温泉地に淵を誘ってみたが、温泉嫌いだから、と一蹴された。たまには場所を変えて子作りに変化をもたせたかったが、それは淵の家でだけ行われるべき、神聖な行事であるようだった。しかたなく、フェリー乗り場の横で釣りをするのもマンネリ化してきたので、渓流釣りを新たに始めようと、朝から半日部屋にこもってインターネットで釣りサイトを検索しまくっていた。部屋はおおいに散らかり、コンサートで着た衣装もまだクリーニングに出さず、床に放り出してあった。そうした自堕落をエンジョイしているさなか、溝口が予告もなくアパートにやって来た。しかも一人きりで。インターフォンが鳴る。カメラ付きではないので、たいてい森は居留守を使うのだが、「ピン」と「ポン」の間隔に感じるものがあった。扉を開けると、溝口は森の顔を掠め取るように見て俯き、礼をした。森はパジャマがわりのジャージ下に薄汚れたTシャツを着ていた。
溝口はずっと横を向いていた。またなにかくれるのかと森は彼女の両手を確認したが、ショルダーバッグ以外何も持っていない。この状況にもっともふさわしい言葉を探したが見つからず森の口をついて出たのは、「何か用ですか」だった。彼女の顔に一瞬不愉快の色がはしった。しかし落ち着きがなくしきりに背後を気にしていた。
「あがらせてもらってもいいですか?」
「え……」
やけに積極的である。ポルノビデオが出しっぱなしになっていないかどうか、森は思い出そうとした。「ちょっと待っててください」
溝口は扉を閉めて鍵をかけ、狭い靴脱ぎに立ったまま、森が慌てて部屋を片づけ終えるのを待っていた。
つい口元の痣に目が行ってしまう。見まいとすると余計に見てしまう。溝口も気づいていて、森から見えないように顔を背けたが、隠しきれない。黒紫に変色した唇は特殊メイクみたいで、それが本物の痣だとすればなんとも痛々しい。
淹れる茶がなかった。居たたまれなくもあり、「コンビニで飲み物買ってきます」と断り彼は立ち上がった。彼女は左手を伸ばして彼の腕をつかんだ。ヴァイオリニストの握力は強い。
「ビールなら、ありますけど」
森は投げやりに冷蔵庫を開けてすかすかの中身を見せた。
「ビール……」
「はい。飲みます?」
「もらえますか」
森は冷蔵庫から缶ビールを一本取り出し、彼女の前に置いた。
「開けましょうか?」
「いえ、自分でやります」
「禁酒は……解禁ですか」
溝口は音が立たないようにそっと、プルタブを引き、押し戻した。昔のプルタブは力づくで引きちぎるやつだったな、あの音好きだったな、と思い出しながら、森は彼女が二口、三口と飲む様子を観察した。自分もむしょうに飲みたくなったが、唾を飲んで我慢した。同時に彼は、覚悟を決める。
「あの」
「はい」
「その痣」
「はい」
「間さんが?」
「いえ。間さんは口は悪いですけど、ああ見えて、優しいんです」
「意外だな。じゃあ誰にですか」
溝口は黙ってビールを飲んだ。ペースが速い。緊張しているのか。
「ゆっくり飲んでください。それで、誰が」
溝口は答えない。
「それを言いに来たのでは?」
「いえ。はい」
「足を崩してください」
「じゃあ」
彼女は勧められた通り、正座から横座りになった。森はこの、女の横座りというのが好きで、並んだ二本の脛をじっと見た。
「もう一本飲みますか?」
「いえ、私だけそんな」
「じゃあぼくもちょっとお付き合いします」
前いつ使ったのかもわからないグラスを洗剤で二度洗いした。してから、二人分のビールを注いだ。冷蔵庫に枝豆が残っていたので、そのへんにあった鋏で莢の両端を切り、塩で揉んで茹でた。およそ五分、二人は黙って枝豆が熱湯の中で踊り出すのを見ていたが、「赤ちゃんがね、できたんです」
と溝口が枝豆に向かって言った。
「それはそれは、おめでとうございます」
森は乾杯を求めた。溝口はまったく嬉しそうな顔をしない、照れ笑いすらしない。むしろ困惑顔だ。森は無駄な動作も交えて忙しいふりをし、茹で上がった枝豆をザルに上げると、玄関に放り出してあった生命保険の案内チラシで煽った。
「水で洗ってしまうとダメなんです」
「どうして」溝口は抑揚なく尋ねた。
「さあ、理由まではわかりませんよ」
きびきび動いていると直感がよく働く。森の頭の中で、不意にある結論が弾き出された。 溝口の痣は、水落がやったものにちがいない。
「痣、水落さんですか」
森が訊くと、彼女は口をわずかに開いたまま、黙って頷いた。彼は内心、直感の鋭さを自画自賛した。
「殴られたんですか?」
「はい。グーで」
「ひどいな」
「でも一度きりですから」
「回数なんて問題あるのかな」
「でも私も私なんです。この子、あの人の子じゃなくて」
「……それは、なんというのか。それで、水落さんが……」
「はい」
溝口は枝豆が好きと見えた。皿に盛ってやるとどんどん食べる。森はそれに気づくと、食べる手を休めた。「ぜんぶどうぞ。それで、えーと、ぼくはどうすれば助けになれるだろう」手を拭くティッシュを探しながら森は言った。
「私が酔いつぶれた日。あの日のことを正直に話してください」
「正直に」ということは、自分が嘘をついていることになる、と森は思った。
枝豆を食べるのをやめた溝口の顔をよく見ると、ちょっと顔がふっくらしたようだ。彼女の醜態については彼がもうすべて話したはずだった。
「もう忘れちゃいましたよ」
そう口走るなり、溝口の鋭い眼光が森の目を射た。それで、軽口を叩けるような雰囲気ではないと悟った。そもそも酔いつぶれたのは彼女で、それをわざわざ介抱してやったにもかかわらず、そんな非難がましい目付きで見られていることにだんだん腹が立ってきて、森は剣のある口調で、
「覚えてないと思いますけど、タクシーからここに連れてきたあとは、隣の部屋のベッドに寝かせたんです。ほらそこ。それでぼくはこの床で寝るはめになったんでした」
と言った。
「本当に、ですか?」
森に、デジャヴが来た。
「ぼくはそれほど酔ってませんでしたからね」
「私、また頭がおかしくなったのかしら」
そう言いながら溝口がポケットからピルケースを取り出し、得体のしれない錠剤を飲もうとするので、「酒なので!」と叫んで彼女の手の中から錠剤をつまみ取った。
溝口は両手で頭を抱え、顎に皺を寄せて今にも泣き出しそうな醜い顔になった。そして、「計算上は、計算上は」としきりに繰り返した。森は泣かれてはたまらないと、平静を装ってわけを尋ねた。やがて呼吸が整ってくると、溝口は忘れ物を思い出したようにバッグから手帳を取り出した。
「この日があの人と初めてした日」
彼女はボールペンの先で二十三の日付に描かれた星マークを丸で囲んだ。うっかり想像してしまわないよう、森は細心の注意を払い、ゆっくりと頷いた。さらに彼女はページをめくって前月まで日付をさかのぼる。
「これが私の酔いつぶれた日」
「concert@美山小」と書かれたその下に、大きな「!」が書きなぐってある。森はその日に飲み会があったことすら覚えていない。別の日だと言われればあっさり信じただろう。
「どう考えても、水落くんとの間にできた子ではないの。あの酔いつぶれた日に身ごもったとしか考えられない、それが確実なんです、計算上は」
森は何も言い返す言葉を見つけられず、間もなく、ソ♯の高音で耳鳴りが始まった。
「ぼくの子だと言いたいんですか」
「言いたくはないですけど、そうなるんです」「ありえませんから」
言えたのはせいぜいそれくらいだった。意味がわからない。彼女はさらにこうつづけた。
「明け方、私がお手洗いに立ったとき」彼女はまぶたを伏せ、しきりに右手首にはめた銀色の小さな腕時計をいじった。「そのときに──」
溝口はたいへん早口で言ったから森には聞き取れなかった。おそるおそる訊き返すと顔女は、「血液」と二字熟語で答えた。それに勢いを得てか、えいやっというふうに、
「あのときはまだ、virginでしたし」
と言い切った。彼女のvirginの発音は完璧だった。彼女はジュリアード音楽院への留学経験があるのを森も聞き知っていた。なぜわざわざ英語にしたかはよく分かった。「処女」というと、どこか卑猥な色を帯びる。漢字は卑猥だ。いずれにしても彼女は、森にvirginを奪われただけでなく、子まで孕ませられたと言っているのだ。驚くやら腹が立つやら後ろめたいやら可笑しくなるやら、いろんな感情がぐじゃぐじゃになって森はもうわけがわからない。一瞬泣きそうにさえなる。苦し紛れに、
「DNA……」
と呻いた。
「なんです?」
「D、N、A」今度は溝口によく聞こえるようにゆっくりはっきり発音した。「調べたらわかる、じゃないですか」
言い終わって少しデリカシーに欠けるかとも森は思ったが、妙な言いがかりをつけてきた溝口が悪いのだと開き直った。機嫌を損ねるなら損ねたでいい。それに対して、溝口はべつだん憤慨するでもなく、検査を受けるつもりはないと断言した。私から産まれる以上、私の子であることに変わりはない。毅然と言ってのけた。神々しくさえ見えた。それにひきかえ、
『とにかくぼくの子ではありませんから』
そのような類の発言を森は二、三度繰り返した。すると、しだいに溝口の声が震え始めた。
「私の子は、そんなに嫌ですか」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「論点を絞らないでください。すべての物事は関わっているんですから」
「はあ……」
煙に巻かれて、森は弱々しい相槌で返した。
「訴えたりとか、養育費請求したりとか、しませんから、本当のこと教えてもらいたいです」
本当のことというのはけっきょく自分のしてほしい返事じゃないかと苦々しく思いつつ森は、「絶対にありえませんから」と強気に答える。それも何だか嘘じみて聞こえるから困った。溝口はビールを飲むことをやめない。こっちはDNA鑑定を申し出たにもかかわらず、彼女はそれを断った。それで話は終りだ。水落の子だと証明されればいいが、もし森の子と判明した場合、水落からどんな仕打ちを受けるかわからない。そうした事態を恐怖しているのだとはまだ想像も及ばなかった。
しかし単純な理由から、溝口を帰すに帰せなかった。彼女は酒を飲んでいた。彼女がみずから進んで車に乗るのを待つしかなかった。淵との約束の時間まであと三十分と迫った。森は焦りだした。枝豆もすでに食べ終えてしまい、二人は手持ち無沙汰に、うつむいたり、天井を仰ぎ見るふりをしてみたりして座ったままでいた。テレビをつけてもみたが、子役の甲高い声が耳に障るCMが繰り返し流れるのが耐え難く、リモコンを手にして番組を変えようとした拍子に無意識に赤い電源ボタンを押してしまった。沈黙が露出した。古い冷蔵庫がかすかに唸り声のような音を立てているほかは静かだ。耐えられない。森は溝口だけ部屋に置いて、淵の家に行こうと決めた。酔いが醒めれば勝手に帰るだろう。
「あの」
「はい」
「今、お腹はどれくらい……」
「まだ、あんまりわかんないと思いますけど」
「あ、ほんどだ」
見ると、まったくと言っていいほど腹部は平らかだったから、森は彼女の妊娠をうたぐった。
「想像妊娠って、聞きますよね」
軽率な奴め、と森は自分を罵った。彼女はため息を吐き、
「ちゃんとエコーで調べましたから、大丈夫です」
と言った。
「あ、そう」
怒れ自分。もっと怒れ自分。理不尽なほどに怒れ。と森は念じた。怒って、まるで彼女が存在しないかのようにアパートを出て車に乗り込み、淵の家を目指すのだ。自信を持て。
「あの、水落さんには、ぼくの子じゃないとくれぐれもお伝えください。正直そういう誤解って、迷惑ですから」
すると溝口は嘘か本当か、
「家に帰ったら、あの人、外で待ってるかもしれない」
と言った。
「そんなことするタイプじゃないでしょ」
「だってこれ……」
溝口は口の痣を見せつけてくる。森はつい、人は見かけによらないという教訓を、噛み締めてしまう。
「あの、申し訳ないですけど、ぼくこれからちょっと行くところがあるんで。ここで、アルコールが抜けるまで待っててもらえます? もう帰りたくなったら、鍵渡すんで、鍵閉めて扉の新聞受けに入れといてもらえます? ぼくスペア持ってますから」
「でもここに来るかもしれない」
「まさか……たとえそうでも、人が来ても開けないようにすればいいじゃないですか。うちに来る人間は、NHKの集金人とか、新聞とか宗教の勧誘とか、それくらいしかいないですから」
「私も連れていってくださいよ」
「どこへ」
「どこへでも」
森は溝口の顔をまじまじと見つめ、これからどこへ行き、何をするのか、すべて詳しく話してしまおうかと一瞬迷いがきた。心臓が高鳴っている。これからマヤさんと、子作りに励むのだ。でも、溝口が自分をセックス中毒だと勘違いして、彼女の妄想を増長させてしまってはいけない。できれば溝口は連れて行きたくなかった。森は立ち上がる。すると、溝口がすがる眼差しで重力をかけてくる。
森はこれまで、他人から頼られた経験は覚えているかぎり皆無だった。自分中心、ヴァイオリン中心の狭い競争社会を生きてきた。音楽に奉仕するという名目で他人をないがしろにしてきた。厄介な誤解を持ち込んできた疫病神であるにせよ、溝口を置き去りにし、暴力の危険にさらしてまで、淵との一度のセックスを優先させるのか。その間にまた溝口が暴力を振るわれたら一生の悔いが残る。彼女は病気なのだ。
そう、彼女は病気。
「あの、マヤさんに会いに行くんですが」
森は打ち明けた。溝口はとたんに彼を睨みつけた。
「なのに私を置いていこうとしたんですか!」
まだ連れていくとは言ってないんですけど、と森は思った。でも、彼女は病気なのだから仕方がない。
まだ日は高かった。
溝口をミゲル60の助手席に乗せ、運転席に乗り込んだ森は、淵に電話をかけた。わけあって溝口も連れていく、事情はあとで話す、と言って電話を切った。話している間に、ルームミラーの端に、いつもとは違う車に乗っている水落が映っているのに気がついて動悸が速まり、声が震えた。その変化を察知して溝口が彼の横顔を見てきたが、森は電話を切ったあとも水落がいたとは口にしなかった。エンジンをかけ、ゆっくり車を発車させると、案の定、水落もあとについてきた。森は小さく舌打ちをした。尾行する暇があったらホルンの練習しろよ、と毒づいた。しかし一方では、あのひょうきんな水落が本当に溝口に執着して陰気な尾行を実行するのを目の当たりにし、現実に圧倒された。
水落は一定の車間距離をあけてついてきたが、右へ曲がれば神社に至るその辻まで来ると、停車した。そこからでも、淵の家は手のひらほどの大きさには見える。溝口はまだ感づいていなかった。パニックに陥らないよう、言わないほうが賢明だと森は判断した。
淵の家の前に着いてもまだ、水落の車は停まったまま動かなかった。森はなるべくそちらを見ないようにして車を降り、玄関につながる階段をのぼった。足音が聞こえていたのか、淵が扉を開けたまま玄関先で待ってくれていた。彼女の顔を見ると、溝口は本格的に泣き始めた。森は自身が、昔でいう「下男」のように思えた。
溝口が事情を話している間、森はリビングのソファに座ったまま、水落の車の動静をうかがっていた。葉にへばりついたアマガエルのようにびくとも動かない車。森は妄想をたくましくさせた。ハリウッド映画仕立てに、水落がピストルを口に突っ込んで頭を打ち抜いてすでに自殺し、血まみれのまま運転席で死んでいる場面を浮かべた。
「森くん、ほんとにやってないのね」
そこへ淵が唐突に、険しい表情で確認をとってきた。まるで犯罪者扱いである。むしろ溝口が病気なのに。女が酔っ払っているのをいいことに強姦した、しかも処女を。まったく凡庸すぎる物語だが、凡庸は強靭で、しつこい。自分にはそんな勇気はない。それに溝口には性的魅力すら感じていない、とまで言ってやろうかと思った。
「まあ、森くんのことだから本当でしょう」
まるで嘘をつく知恵もないと言いたげな口調だったが、森は我慢した。ひがみっぽくなっている自分を、毅然としろ、と励ました。妄想に屈するな。
「男なんてね、みんな、少なくとも人生に一度は性犯罪未遂を犯すの。そう思っておかなきゃ」
森はいまや男性一般代表の役を押し付けられている。
「週末とか祝日ってね、男たちが仕事休みでしょ? だから、車運転してたりなんかしても、まったく、騒々しくて荒っぽい運転が多いのよ。休日もそいつらをもっともっと働かせてさ、車の運転もできないくらいにへとへとに疲れさせちゃえばいいのに」
と淵は極論まで始める。溝口もそれに共感し、しだいに、まったく似ても似つかない二人の女が、結束を強めはじめる。きゅうに仲が良さそうである。話が盛り上がってくると、声質まで似てくる。森は、彼女たちが、一人の女の二つの様相だと考えてみる。そもそも人間は、どうして体二つで二人なのだろう。体二つで一人といって何が悪いのだろう。考えれば考えるほどわからなくなってくる。
森は聞いている。
「面倒だから内緒にしてね」と断った上で淵は、自分と森の関係のことを森の目の前で、赤裸々に説明しはじめた。森が子作りに協力してくれている。私があの人を選んだのはね、この人が男じゃないからなの、などと言っている。「俺の女」、なんて言い方、絶対しなさそうでしょ? 私ダメなの、そういうの。殺意すら湧いちゃう。
溝口が控えめに反論する。自分は年上の、守ってくれそうな頼りがいのある男性をつい選んでしまう。そういう男は虚栄心が強くて嫉妬深くて自己中心的なことが多い。虚栄心を満たすために女を守っているふりをする。だから、ちょっとこっちが忠実じゃないとわかると、容赦がない。わかっているんですけど、そんな人ばかり選んでしまう。
「私に言わせればそれはサルオね」と淵。
「サルオ?」
「うん。『猿』に『男』で猿男。あなたが言ったような男のこと」
自分は猿男でなければ何男だろうと森は聞いていた。水落はまったく動かない。やはり死んでいるのか。自分はむしろ、あっちの仲間じゃないのか。だんだんと、人質に取られているような、居心地の悪さに陥る。子供を宿す側の器官をなまじっか持っているばかりに、自分はずいぶんと損をしているのではなかろうか。
「私にはこんな願望があるの」と淵が話している。森はひょっとして彼女が酒を飲んでいるのではないかと疑い、振り向いて見たが、飲んでいるのは紅茶だった。「なるべく威勢の良い男をね、一人連れてくるの。『男らしさ』を最優先事項にしているような奴ね。こうしよう。例えば荒っぽいトラックの運ちゃん。そいつが運転中にたまたま後ろから煽ってくるとするの。まあよくある状況よね。そしたら、減速してトラックを通せんぼするようにして斜めに車を停めるの。そしたら相手がものすごい形相をして運転席から降りてくるわよね。で大声で何かたわけたことを叫んでくる。例えば、『てめー、ざけんなよこら、あま、ぶっ殺すぞ』とかね。でね、私はいつも拳銃をダッシュボードの中に入れてるの。なるべく殺傷能力の低い小ぶりなのがいいかな。それを素早く取り出して、ウィンドウを下ろす。そしてさんざん叫ばせたあと、車の外に出るの。もちろん銃は持って。で、まずは片方の脚、ふともも辺りをいきなり撃つ。で、土下座するように言うの。でもまだ突っかかってきたら、反対の脚。まだ謝らないなら次に腕1、腕2、肩1、肩2、爪先1、爪先2。で、最後に股間を撃つ。でもね、絶対に殺しちゃいけないってルールがあるの。想像するといつも、気持ちいいだろうなーって、ぞくぞくしちゃう」
「すみません。私ちょっと、ついて行けません。貧血になりそう」
「いざやるとなったらね、あなたみたいな人のほうが我を忘れるのよきっと。そして残忍なの」
溝口がトイレに立つのを見計らって水落のことを淵に教えるつもりだった森は、なかなか機会を見つけられないでいた。来てかれこれ二十分は経っていた。やがて話題は、今の首相はすごく顔も頭の中もダサくて、テレビニュースを見きれないぐらいだという話に移った。溝口も、画面に顔が現れると番組を変えるかテレビを消すかすると言い、二人は深く頷きあった。その徹底的な嫌いぶりに森が恐れをなしていると、溝口がついに、ちょっとお手洗いに、と腰を上げた。一リットル近くビールを飲んだのが結果的に良かった。小走りに三階へ上っていった。トイレの扉が閉まる音を聞き届けた森は、
「あそこに停まってるグレーの車、水落さんですよ。溝口さんには言ってませんけど。ぼくのマンションからずっと尾行してきたんです」
と低声で早口に言い切った。
「嘘でしょ?」
「わかります、その驚き」
森はどこか得意げだ。
「まったく。どいつもこいつも。輩どもめ」
淵はテーブルの上に置いていた携帯電話を手に取り、何度か画面をタップしたあと、画面にじっと見入った。
「ちょっと、マヤさん?」
「ん、なに。あ、ダメ。留守電に繋がった」
とほぼ同時に、窓の外を見ると水落の車が動き出した。バックで方向転換すると、元来た道を猛スピードで引き返していった。どこまで予期していたかはわからないが、淵の蛮勇による見事な手際だった。
「逃げていきましたね」
「うん、腰抜けね。呼びつけてやろうかと思ったのに」
「でも、溝口さんの妄想もちょっと普通じゃありませんよ。ほんとに妊娠してるとしたらなおさら。どうして水落さんに面と向かってぼくの子だなんて言い張るんだろう」階上でトイレの流水の音が聞こえると、「まだ病気が完治してないんだ」と森は早口に言い終えた。
溝口が戻ってくると、しばし三人は黙りこんだ。
「別の土地で産むしかないんでしょうか」と溝口が鬱々とした声で呟く。
「ううん。こういうことは理性でどうこうできることじゃないからさ、水落くんだって、その土地まで追ってくるかもしれないよ」
溝口はため息をつく。
「あの、溝口さんがまだ、病気だってことにしたらどうですか」
森は事実だと思っていることを仮想現実としてオブラートに包んで言った。
「そしたら、水落さんもいくらか諦めがつくんじゃないですか」
無言で溝口は森を睨みつけた。
「そんなの感情的になった人間が信じると思う? 溝口さんが病院へ行って診断書でももらってこればまだましかもしれないけれど。それよりも、これ以上付きまとわれるなら、ストーカー被害届けを警察に出して、念には念を入れないと」淵は腕を組み、自身と対話を始める。「でもダメだわ。警察なんて当てにならない。警察に連絡したにもかかわらず被害者が殺されたケースだっていくらでもあるのだし」
「いっそのことこっちから殺してやろうかしら」と溝口が言った。「正当防衛にならないかしら」
森はその過激な発言にあっけにとられ、しばらく彼女の顔を見つめたあとおずおずと、「過剰防衛ですよさすがに」
冗談にしようとした。
「私たち三人で育てるしかないか」と淵はため息をつく。「いい考えだと思うの」
「三人? マヤさんと……」森の声が大きくなる。
「溝口さんとあなた」
「ぼくはまだ父親と決まったわけじゃないし……というかDNA鑑定もしないからわからないし」
「そんなこと知らない。だってわたしだって今思いついたんだもの。当面の間だけ。ちょっと聞いて」
その淵の案とは、三人で今いる淵の家に暮らす。ガレージにちょうど三台車を停められるし、個室は、森が満男のものだった二階の部屋を、溝口は今は使われず放り込み部屋になっている一階の個室を整理して使えばいい。楽器の練習は音楽室でいつでもできる。で、基本子育ては溝口がすることにして、大変なときは淵と森も手を貸す。家賃、光熱費、食費合わせて三万でいい。今のマンションよりお得でしょ。私も何かと助かるし。
「そうね、平日の食事は分担制で行こう。ただし、週末は自由。どう?」
溝口も森もしばらく考え込んだ。
先に溝口が口を開く。
「一人より心強いですし、すごく魅力的なお誘いだと思いますけど」
「けど?」
「本当にいいのかなあと思って」
淵はむっとした表情で、
「何言ってるの。こっちから提案したんだから」
「す、すみません」
「森くんは?」
「溝口さんはわかりますけど、でもどうしてぼくもなんですか?」
「だって森くんが必要だからよ。まだわたし、妊娠してないんですけど」
「ああ。そういうことで」
「だからまあ、そのへんは少し溝口さんにも我慢してもらって……だから一階にしたんだけどね」
「ええ……そうですね」
「あ、あと、家を出て行くのはまったくの自由。どんな事情があっても文句を言わない、ということにしよう。たとえ森くんが溝口さんの子の父親だとわかったとしてもね。で、誰の子なの?」
溝口はやはり、わからないと言いながらも、森の顔をじっと見た。
「何度訊かれても同じです。私には、森くんとしか思えない」
「『計算上は』、ですけど。だとすれば、ぼくは『父なる神』だ」
森はやけくそになって答えた。
こうして急遽決まった同居だったが、むしろ不安のほうが大きかった。森は人生の半分以上を一人で暮らしてきた。いくら親しい知り合いだとはいえ、やはりいまさら他人と暮らせるかどうか自信がない。すぐに厭になるのではないか。それに何より、水落の反感を大いに買うことにもなる。ただでさえ、そもそも自分とは関わりのないはずの痴情のもつれに巻きこまれて迷惑しているのに、これ以上みずから水落を刺激したくなかった。溝口とともに暮らすなんて、自分にも責任の一端があると明言しているようなものだ。森は、すでに決まったことを、くよくよと何日も考え続けた。
練習に行くたびに、しょんぼりとした水落の姿が森の目に止まる。あれだけ太っていたのに、頬に陰りができている。以前と同じように明るく振舞おうと努めているのが痛々しかった。溝口とは、休憩中もまったく口をきかなかった。溝口のほうは、数ヶ月前が嘘のように、団員たちと楽しげに喋っている。森は、水落を自業自得だとは思いながらも、少し哀れに思った。彼はじっと溝口のことを見つめていることがよくあった。彼女が気になって仕方がないのか、あるいはもうひと騒動起こすタイミングを見計らっているのか、森はさまざまな憶測を巡らせる。
いちど水落と会って話してみる必要を森は感じはじめた。淵と溝口と共同生活を始めることについてもあらかじめ誤解のないよう説明しておきたかった。そして何より、溝口の子が自分の子ではないということを、はっきりと言っておかなければならなかった。
早くも二人きりになる機会がめぐってきた。練習場所として使っている市民ホールのトイレから、水落が一人で出てくるところだった。森は覚悟ができずに怯んだ。水落の目は笑っていなかった。言葉が通用するような人間には見えなかった。どれだけ心を尽くして
接したところで噛みつくときは噛みつく蛇のような水落。しかし森は、名前を呼んでしまった。このあと飲みに行きませんか。うん、いいよ、どこにする?
二人は、日の暮れる頃、港にあるスナックに入った。扉に付いているカウベルが寂しげに鳴る。客は彼ら以外にいなかった。パンチパーマのママは手品の練習に忙しいらしく、いちど注文を取りに出てきたきり、カウンターの裏に引っ込んで出てこない。ときどき鳥が羽ばたくような音がし、いかにも手品という感じの音楽が小音量で鳴っているのが聞こえた。
「うわあ、懐かしいな。ポール・モーリアでしょ。なんだっけ、オリビアの……首飾りだっけ」
水落はジョッキビールを半分ほど一気に飲んだ。
「今聞くと恥ずかしいですね」
「そう? ぼく好きだけどな」
そして水落は、じゃらららら、らん、とメロディを口ずさんだ。
森は、余計な話は抜きにして、このままだらだらと飲んでいたいと思った。壁際のミラーボールが、空調のせいなのか、微妙に回転している。森は気分を変えたいと思った。
「歌ってもいいですか?」
そういう森は、手のひらに汗をかいていた。
「え? あ、いいよ、もちろん」
森はふかふかの赤いソファから腰をあげ、壁際のカラオケセットをリモコンで勝手に操作し、マイクの電源を入れた。ミラーボールが規則的に回転しだした。水落はじっと森の不審な行動を見ていた。ザ・ブルーハーツの『青空』のイントロが流れはじめる。水落は、「おっ」と言った。「懐かしい」
「カラオケなんて高校以来ですよ」
森は、幼い頃からソルフェージュのレッスンで、「音程は正確に、歌う時はきれいな声で。大声は出さない」と言われ続けてきた。そのため、音程が少しでもずれるのが耐えられない。上手な歌になってしまう。音楽の授業の時、小学校の同級生が獣のように叫び声をあげながら歌っているつもりになっているのを、森は馬鹿にしていた。
上手な歌しか歌えないのが今の自分には耐えがたい。森は、あの時の阿呆な小学生──そう、ちょうどオバマシのように──を思い出していた。その真似をして、腰を折り、腹の底から声を絞り出した。喉がごうごうと鳴って、声がかすれ、予期せず声が裏返ったりした。マイクを通して、がなり続けた。
水落は両人差し指を耳に突っ込んでその狂気の沙汰を眺めた。ママもバーカウンターに顔を覗かせ、シルクハットを左手に持ったまま口を開けて「阿呆な小学生」を検分しに来た。
歌い終え、あとは曲が止まるのを待つ間、森は、いつまでもこの曲が終わらないように祈った。曲が終わったあとの猛烈な恥ずかしさが怖かった。しかし容赦なく機械は演奏を止める。と同時に、画面に映っていた古めかしい映像も消える。身悶えしたくなる恥ずかしさが一瞬で襲来し、声を出さずにはいられなくなり、「ありがとうございました!」と言った。するとママが手振りでマイクを貸せといい、「練習の邪魔! ウサギが逃げたでしょ!」と、森よりもはるかに芯の太い声で叫んだ。ママは再びマイクを差し出す。それを受けとった森は、「すみませんでした」と小声で謝ったものの、それがマイクで増幅され、「した、した、した」とエコーがかかった。
「いいから、から……ウ(から)サギ捕まえて、えて、えて……エコーかけたのだれ、だれ、だれ……」
ママは店の裏からたも網を持ち出してきた。それから、店の扉にまず鍵をかけるように指示した。他の客が入ってきた隙に逃げ出したら困る。白いウサギはカウンターのスツールの下にうずくまっていた。森と水落は、二人がかりでウサギを挟み撃ちにしようと、両側からじわじわと近づいていった。森はたも網、水落は間に合わせに手に持った、不燃物用ゴミ袋の口を開いて構えながら。ウサギはスツールの脚やらマイクスタンドやら壁やらに体をぶつけながらも素早く逃げまわった。そして水落からもママからも森からも距離をおくと、また丸くなって髭をひくつかせた。ママがうっかり肘で胡椒の容れ物を倒すと、長い耳を激しく震わせた。
「ウサ、あんた、観念しないと食べるわよ」
ママがじわじわと追い詰めていく。素手だ。
「下手な歌聞かせて悪かったよ。びっくりしたねえ」
ママは床に膝をつき、ウサギと同じ目線になった。ママが上半身をかがめると、スカートの間から太ももが垣間見え、森はすぐさま目を逸らした。
「大丈夫よ、もう大丈夫だから。また練習の続きしましょ。おいしい人参ご褒美にあげるから」
突然両手でつかみかかったママの手をすり抜けたウサギは、四つん這いのママの横を走り抜け、水落の大きな足に衝突しそうになって方向転換した拍子に床を滑り、体勢を整えなおして前方に駆け出したところへたまたま森のたも網があり、頭から網の中へ突入した。
「すごい、自分から投降した」
と水落は感心した。
「気高いですね」
「きみ、やるじゃない」
と森はなぜママに褒められた。
二人は二杯目のビールを注文した。ママはウサギの耳を束ねてつかみ、カウンターの裏へ連れていった。
「ほんとに食べられちゃうのかな」
ひととおり森の話を聞いた水落は、淀んだ瞳で、テーブルの上でジョッキの把手を握ったまま、動かなかった。森は殴られるのを恐れつつ、酩酊した溝口を自宅に運び込んだ夜のことを、言葉を選んで事実を正確に話すのに疲れ果て、ビロードのソファに背中を投げ出した。酔いも手伝い、今にも寝入りそうだった。カウンターには新たな客が二人いた。ママはいったいいつスイッチを切り替えたのか、手品師ではなくスナックのママとして振舞っていた。マッチで客の煙草に火をつけてあげたりしている。
水落は、森くんが嘘をついていないことはわかっている、と言った。ずいぶん前から、きみがマヤさんが気になってることなんてあからさまだったしね。
「とってつけたようなこと言わないでください」
森は顔が熱くなった。慌てて身を立て直し、抗弁した。
「みんな知ってるよ」
水落がにやりと笑う。
「みんなって、誰ですか」
森は畑中の顔を思い浮かべた。間さんでなければ、大方あいつが言いふらしているにちがいない。
「でも森くんじゃないとすると誰なんだろう父親は」
水落が真顔に戻る。
「ぼくは水落さんだと思うんです。DNA鑑定したがらないからわからないですけど。こういっちゃなんですけど、溝口さんの妄想だと思うんです」
森は話すうちにだんだんと、水落の味方のような口ぶりになってきた。
「最近さあ、人殺しする夢ばっかし見るんだよね。明らかにその、エミちゃんの相手なんだよ。顔は暗くてみえない。そりゃあもう、ほんとにひどい殺し方でさ、夢見てる方も気分が悪くなってくるぐらいでさ」
と水落は物騒なことを言った。
自分はいま「溝口さんの妄想」だと言わなかっただろうか。いや言わなかったのかもしれない。森はわからなくなる。
「溝口さんが精神病院に入院してたのは知ってますか」
「うん知ってるよ」
「それと関係があるんだと思います」
「そうね、あるかもしれない」
「ですよ」
森は自分がものすごくずるい奴に思えた。彼は、溝口が強迫的につけている日記のことも話す。たった一日の空白から、彼女の妄想が芽をだし、ふくらんで、現実のなかに溶け込んでしまったのだ。
「あー、かもね」
水落は聞いているのかいないのか、森の説を否定しなかった。森はほっとしてビールを一口飲み、イカ団子を食べた。そこへ、「極端な話さあ」と水落が言い出したので、口を動かしながらソファに両手をつき、身構えた。
「森くんの子だろうがいいんだよね」
森には言っている意味がわからなかった。
「ぼくが大事にしたいのはこれからのことでさ」
「じゃあどうして溝口さんを殴ったんです?」
水落を責めるのではなく、好奇心から森は訊いた。
「嘘でもいいから、ぼくの子だって一言いってほしかったんだよ。最終的にはそれでよかったんだよ。それがさ、絶対に言わないの」
森はふとオバマシを思い出す。そして、水落にならきっとなつくだろうなと思う。オバマシが溝口にむけて放った毒舌が、水落の暴力と同種のものかもしれないと思い至る。
「結婚しようって時に言うんだもんなあ……黙っておけないからって。どうせなら黙っときゃよかったのに、なーんで言うかなあ」
光景がありありと思い浮かんだ。溝口が相手の目をしっかりと見据えて、相手が傷つくような事実を口にする。そのぶん、言葉はぐさりと胸に突き刺さる。みると、水落の大きな拳が震えていた。森は気づかれないように後ずさった。だがすぐにソファの背もたれで行き止まりになる。水落は深く息を吸ってから、ゆっくりと吐き出す。森はいまやはっきりと彼を恐れている。そのあまりの弱々しさが可笑しくも腹立たしくもある。森は水落のかわりにもう一度溝口の頬を張り倒す場面を、奥歯を噛みながら想像する。
「知ってる? テレビでやってたんだけどね、チンパンジーってさ、どのオスが父親かわかんないように、メスはいろんなオスと交わるんだってさ。ゴリラは違うみたいだけど。あー、たしかに、賢いやり方だなーって思って。人間にもチンパンジータイプとゴリラタイプのメスがいるんだね」
水落は森の頭のなかを見透かしているかのように話題を変えてくれた。
「あ……たぶんその番組、ぼくも見ました。最後のほうだけですけど。NHKでしょ?」
「そうそう」
水落は声が大きい。客の一人が耳聡く聞きつけ、青年たち、と声をかけてきた。
「おれの娘さ、そうかもしれない」客はスツールを伝って二人のそばまで来て酒臭い息を吐いた。「いっしょには住んでないんだけどさ、その子、たぶんおれの実の子じゃない。あー、おれもチンパンジーの策略にやられたかなあ! 金だけ巻き上げられてる。まあ……いいんだけどね。娘かわいいから」
男はそう言って自分の額をぱちんとひとつ叩くと、元の席へ戻っていった。
「ぼくは無理だなー、尊敬しますよ」
客に向かって水落が呼びかけると、男は目をつむって横を向いたまま片手を挙げ、「ありがと!」と照れくさそうに笑った。そして、連れとママにむかって、男と女はね、永遠に理解しあえないんだよ、な、むしろ理解しあえないからこそ求め合うんだよ、な、善も悪もそこからぜーんぶ出てくる、と森と水落のほうも意識しながら管を巻いた。
「そう! 俺たちチンパンジー! ちがう、以下!」
水落が叫んだ。そしてジョッキを持ち上げると、「森くんもほら」と促した。森はしぶしぶジョッキを握り、胸の前あたりにかかげた。
カウンターの二人の客とママは青年たちに凝らした目を向けていたが、さきほどの、チンパンジーの策略にやられた一人が、「はー」と合いの手のような声を出した。「乾杯っ」
やがて、ウィスキーのロックが二杯運ばれてきた。「青年たち、俺からのおごりね、飲んでよ」と得意げに男は言った。「りがとうござっす」水落が激しく礼を言ったが、そのあと妙な間が空いた。森は黙って頭を下げた。「よかったら歌ったら?」と客の男は言った。気の回る男だった。きっと女のヒトにも親切なんだろうな、と森は思った。「やめてよう。さっきあの人のせいでさんざんな目に合ったんだから」とママが愚痴るのが聞こえた。立ち上がったときの勢いはどこへやら、二人はおとなしく席に着く。
「ぼくさ、群馬に帰ろうと思う。ちょうどいいタイミングというか悪いタイミングというか、親父が倒れてさ。まあ持ち直したんだけどさ、あ、うち、うどん屋やってんだけどね、ちょっとあの体では店続けてくのたいへんかなーと思って。音楽ばっかやってないで、店継げとはずっと言われてたんだけど、いい機会だし。ね。親父のおかげで冷水浴びせられたよ」
「一人っ子ですか?」
と森は間の抜けた質問をした。
「ん? 妹がいるけど? あ、ああ、そうね。妹は継がない意志がものすごく固い」
水落の口から以前の飄々とした笑い声がこぼれた。
森は拍子抜けしてしまった。まだ信じられなかったが、油断すると口元から笑みがこぼれそうになるのを何度も引き締めた。
「あのね、まだ親には言ってないけどさ、将来ね、今の店を音楽バーレストランに改装してさ、ライブ演奏できるスペース作って、で、名物メニューにうどんを出そうと思うんだ。良くない? 正直、オケのホルンって、暇なんだよね」
「バーレストランで、うどん」
「そう、本格的なやつ。店の名前も考えてあるの実は。『BAR うどん屋』っての」
「どっちですか」
「ね、気になるでしょ。一度は入ってみたいでしょ」
「たしかに、一度は入ってみないと気持ち悪くて落ち着かない」
水落は旨そうにウィスキーを啜った。そしてグラスを持って席を立つと、カウンターにいる男客たちに近づいていった。その急速な距離の縮めかたに、森は暴力の臭いすら嗅ぎ取ってひやりとした。が、水落と男客たちが二言三言交わすとすぐに打ち解け、ものの数分もすると旧知の仲のようになった。森は、とうてい自分にはできないと心底感心し、商売をさせたら絶対に間違いなしだと納得した。
旺盛に時間は流れ去る。森はひとりその河の中に立っていて、流れに逆らおうとしている。水落はとっくに河原にあがって男たちと談笑している。えいっ、と水面に背中から倒れこんだ。心地よかった。水面に浮かんでいるだけなのに、どうして動いているとわかるのだろう。周りの景色が動いているからか。しかしいまは空も岸も樹も家も人も見えない。おーい、こっちに来なよ、という水落の声がくぐもって聞こえる。次の瞬間には、その声が聞こえたことすら思い出せない……
一眠りすると、妙に頭がすっきりした。が、まだ夢の中にいるような感じがした。水落はまだ客の男たちと飲んでいた。自分だけが夢の外に出て、まだ展開されている夢を映画のように眺めているとしてもおかしくはなかった。
これから生まれてくる溝口の子は、自分の子に違いない。
そんな想念がよぎる。
頭が冴えてくるにつれ、ありえない、という理性的判断があとを追いかけてくる。
しかし森の直感は、光の速さでそれを突き放した。
水落の丸くて分厚い背中がゆさゆさと揺れていた。笑っているのだった。
それから数日を経た練習後、車のタイヤの空気が四本とも抜かれているのを見て、すぐに思い当たった。タイヤはすべて、刃物のようなもので切り裂かれていた。森はつくづく自分が嫌になった。水落がやったに違いなかった。その時になってようやく、肝心なことをすっかり言い忘れていたことに気がついた。水落が群馬に帰ると言いだしたのをいいことに、安心しきってしまっていた。淵の家で溝口と共同生活を始めることを言い忘れていたのだ。スナックでの一夜は、森の中で愉快な記憶としてまだ鮮明に残っていた。しかし現実は刻々と変化する。タイムマシンがあってほしい、と森は本気で願った。
翌週のはじめ、水落は団員たちの前でとつぜん退団を発表した。どよめきが起きた。森のほか、トレーナー以外は聞かされていなかったらしい。畑中も間も淵も、溝口さえひどく驚いていた。溝口と水落のひと騒動を知らない面々、つまりほとんどの団員たちは、声をあげて残念がった。森でさえ、退団が事実だったとわかり今さらながら驚いた。
帰り際、どこからか畑中が足音も立てずに現れて、水落くんはきみの淫蕩ぶりに腹を立てていたよ、と森の背中を軽く叩いた。溝口さんと淵さんと同棲を始めるんだろ? すごいじゃないの、と皮肉った。とたんに森は飛び着いて畑中の左の頬を殴った。脳震盪を起こした畑中は壁に凭れかかり、そのままずり下がってゆっくりと尻餅をついた。ほら、こっちも、と彼は右の頬も差し出した。森はその場に畑中を置き去りにし、修理したての車で帰路についた。
水落は告知どおり、楽団から消えた。送別会では、半数以上の団員が本気で(!)泣いていた。水落は、翌日の練習からほんとうに姿を現さなくなった。いなくなったはいいが、溝口の子どもは森の子どもだと楽団内でさんざん吹聴していったようだ。しかしさらなる嫌がらせを恐れていた森は、それだけで済んだことに胸を撫でおろした。表向きには、水落と溝口の関係を森が破局に至らせたという構図になるが、それも諦めるしかない。へたに抗弁したら、ますます事実として凝固してしまう。
水落の吹き込んだでたらめがむしろ、森の思いつきに重さと手触りを与えた。はじめ、溝口の子が自分の子であることがあってもいい、という奇妙な思い方をした。どういうことだろうと思った。赤ん坊を抱いてあやしたり、おむつを替えたり、だっこして買い物に連れていったりと、テレビや町中で親子連れを見かけるうちに想像が具体的になるにつれ、また何より、赤ん坊をマヤさんと自分が世話するのだと思うと、それが少し楽しみにもなってきた。
いっぽうで森は頭の中でもう一度整理してみる。生まれてくる赤ん坊についてだ。自分と溝口は交わっていない。よし。しかし彼女が妊娠したのは、酔った彼女をマンションに運び入れた夜のことだ。よし。その夜まで彼女はvirginだった。よし。病院で診察したところ、赤ん坊が生まれてくることはたしかだ。よし。日数の計算上は、森が父親である──しだいに、森は静かな驚きに包まれていくのだった。もしほんとうに赤ん坊が自分の子だとして、事実がそのまま世界中に伝われば、大騒ぎになるだろう。奇跡の子として連日のように取り沙汰されるだろう。メディアが放っておかない。次こそもう、うっかりは許されない。死ぬまで黙っておくこと。森は自分を戒めた。
溝口も森も、十一月いっぱいでマンションを引き払い、淵の家に引っ越した。新たな生活は始まったばかりだ。
淵は溝口のお腹の膨らみを毎日チェックした。森は間近で妊婦を見るのは初めてのことだった。予定日は十二月の下旬。毎日見ているので、明らかに腹部は膨らんできているはずなのに、まだいまいち実感がない。季節の移り変わりと同じように。しかし着実にお腹は膨らみ続けている。ほんの少しずつならば、自分がまったくの別人に──あるいは猿やその他の動物にさえ──変身していったとしても、案外、手遅れになるまで気がつかないのかもしれない。冬の装いはほとんど済んでいた。海からの風が強く港に吹きつけ、森は週末の釣りにも足が向かなくなった。
問題は慣れない共同生活だった。どうしたってすべてが自分の思い通りにはいかない。ソファに寝そべって鯛焼きでもかじりながらテレビを見る気にはもはやなれなかった。いや個室はあったからいくらでもできたのだが、彼女たちの気配を意識するとそこまで気を緩めるには至らない。しかし意外なことにそれを不満には思わないのだった。こんな短期間で人は変われるものかと森は我ながら感心し、それはむしろ気持ちの良いことだと知った。森は淵や溝口に似ていきつつあるのかもしれない。次に島を出て帰省したとき、久々に再会する両親や友人たちは、森の言葉遣いまでが別人のようになっているのを目の当たりにして、ひどく仰天するかもしれない、そんなことを想像し、森はほくそ笑んだ。
共同生活の風通しの良さを、森は気に入っていた。疲れていても子作りに駆り出されることもある。溝口の気分が悪いときには料理番を交代せざるをえず予定が狂ったりすることもある。小さなハプニングは日常茶飯事だ。こういうのが日常というものだったと、森は思い出しつつあった。森は足腰を鍛えるため、新たに山登りを始めた。
ある日曜日の夕方、島に雪が降りだした。人々は色めき立った。去年は一度も降らなかったから、およそ二年ぶりの雪だった。空から落ちてくる雪片も、幻のように頼りなく、地に着く前に消えてなくなった。が、日が沈み、大気が冷えてくると、ガレージの前の道がうっすらと白みを帯び、そこに屋内の照明が当たるので、普段より地面が明るく見えた。
淵はその日は行き先をはっきりとは告げず、島の外へ行っていた。帰りは翌日になるとのことだった。森も溝口もあえて行き先を尋ねはしなかった。夜は二人で宅配ピザを取って食べた。マルゲリータとタコスを半分ずつ。溝口は偏食でピザを受け付けず、ほとんどを森が食べた。溝口は買いだめして冷凍してあった枝豆ばかりを食べた。森の塩加減が絶妙だというので、彼が茹でてやった。洗い物は取り皿二枚だけだ。手早く洗いものを済ませた森は、ドリッパーでコーヒーを淹れ、溝口のムーミンのカップにも注いだ。彼女は礼を言うと、冷えるね、とカップを両手で包んだ。
「やっぱり、家が良いと、冬も楽しいな」
「熱量が違いますよね」
溝口は首を傾げ、森の発言を聞き流した。
「あ、えっと、妊婦にコーヒーはいいんでしたっけ?」
「わかんないですけど、いいでしょ」言いながら彼女はもう一口飲む。
「はい、まあ」
「ここでの暮らし、どうですか」
「溝口さんは?」
「さっきも言いましたけど。楽しいですよ」
「ぼくも。二週間くらい、ですか」
「ちょうどです。十四日間」
「さすが」
「なにが?」
森は首を振る。
「もう生まれますかね」
「まだでしょう」溝口は笑いたそうにしている。「そんな気がします」
溝口は円を描くように慈しんで自分のお腹をさすった。森は、妊娠しているとはいえ、自分の体をそんなに優しく撫でることが、何度見ても奇妙で仕方がなかった。
「まだ日記帳、つけてます?」
「もちろんですよ」
「育児日記も細かいんだろうな……」
「うわ、馬鹿にしてますね」
「してませんよ」
「してます」
「……この静けさ、怖くなりません?」
「うん、怖い。東京にいるときは、ずっと車の音が聞こえてたから。この島の夜は底なしですね」
「たしかに」
二人は耳を澄ます。
「もう寝ます?」
「まだ早いですよ」
溝口は小鼻をうごめかせる。くしゃみを我慢している。
「まだ七時半か……音楽、聴きます?」
「うん」
溝口は言うなりくしゃみをした。
「胎教だ胎教だ。モーツァルトが生まれるように。何がいいです?」
溝口は自分のお腹を見ながらしばし思案する。
「ブラームスのヴァイオリン・ソナタがいいな」
「一番?」
「うん、一番」
「好きですね」
森は音楽室に行ってCDをプレイヤーの皿に載せて再生し、リビングに戻る。
「せっかくなんで、そばで聴きません?」
「そうですね」
森が先に暖房をつけておく。そこへ、溝口が大事そうに腹を抱えてやって来る。森はかつて満男が使っていた椅子を持ち出してきて彼女を座らせた。
「ベストチョイスですね、この曲。いまにぴったりだ」
消え入りそうな、恐ろしく音色に神経の行き届いたヴァレリー・アファナシエフのピアノを背景に、ギドン・クレーメルのかすれたヴァイオリンが鳴る。これは森の数少ない私物で、溝口に薦めるとひどく気に入ったものだった。
森は楽譜を開いた。音符をたどりながら聴くと、あっという間に時間が過ぎる。
第二楽章の終わり頃、森がまた突然口を開いた。
「今なら思い出せるかもしれませんよ」
溝口は目を瞠ったまま森の顔を見た。そのまま、何も言い出せなかった。
「まだ空白なんでしょ? いつか溝口さんが言ってた日記」
「あ、ええ……」
「試してみます?」
「でもどうして急に?」
「どうも、思い出すってことを、かん違いしてたみたいです」
「……とにかく、日記帳持ってくるね」
外の雪が激しくなっていた。風に煽られて渦巻いている。マヤさんは帰ってこられるだろうかと森は心配になる。一度しか会ったことがなかったのに、ふいに満男の不在感が募った。雪の中にもいず、この椅子にも座っていない、どちらにもいないことが信じられなかったが、それは同時に遠い。
溝口の持ってきた手帳はもう、森には見慣れたものだ。薄緑に裁縫用の裁ち鋏とミシンが描いてある表紙に、ビニルカバーがかけてあった。よく整理されているという印象を受けた。ページをめくった拍子に、付属のクリアファイルの中に、森の知らない人たちの写真が何枚か入っているのが見えた。ここに赤ん坊の写真もしまいこまれるのだろうか。でももうじき年は改まる。まさか、毎年同じ手帳を使いつづけるほど強迫的ではないだろう。
ページはあるところまで──きっと昨日の日付まで、ぎっしりと文字で埋め尽くされていた。一日分の空欄をはみ出し、ページの隅にまで細い文字が書かれている。森はふと、『耳なし芳一』の怪談を思い出した。子供の頃、怖すぎて大好きだった。平家の落武者の亡霊が、芳一の、御経の書かれていない耳だけを引きちぎっていく。ぽっかりと白く空いたページがことのほか異様に見えた。周囲の文字が、その空白にむけて吸い込まれてゆくようだった。そこに何かを書き付けることがひどく野蛮な行為のようにも思える。だがもうやめるわけにはいかなかった。溝口がボールペンを手にし、ページを汚す時を今かと待ち構えている。
〈了〉