墓場で演奏会
三.
モーツァルトの弦楽四重奏曲の練習と子作りは一対になる。午前中に淵の家の音楽室に森と畑中と間が集まって練習に励む。それから昼食を外で取ったあと(たいていは、市役所の隣の鰻屋か、照穂小学校の近くの中華料理屋だった)、四人は解散し、森だけはそのあと淵の家に車で引き返してさらに子作りに励む。そして午後いっぱいを淵とともに過ごし、日が暮れる頃に帰宅する。そのまま淵の家に泊まらないことは、暗黙の了解で決まっている。なぜか。泊まっていけば、という淵の勧めに対し、森がそれを、帰ります、と拒んだ、それ以来、淵は森の好きにさせている。
淵も淵で、毎回ことを始める前に、奇妙な儀式をした。口の中でなにか唱えながら印を結び、祈るのである。森は全裸のまま、その儀式が一段落するのを待たされることもあった。どれだけせっついても、それだけは欠かせなかった。ともあれ、およそ五分ていどの短いものだった。ある時、儀式が終わったあとで淵が、なにをしてるか訊かないの、と森に訊いた。祈ってるんでしょ、と彼は問い返した。
「そう、妊娠できるように」
「かもしれないと思ってました」
「ふつうすぎた?」
「いえ。あの、ところでどうして心の中で祈らずに、何というか、じっさい声にしたり指を組んだりするんですか?」
「うーん、なんだろ……そっちのほうが『やったぞ』っていう気になれるからかな。達成感?」
森はためらいながらも一歩踏み込んでみることにした。
「そんなに子どもが欲しいんですか?」
淵は森の目をまっすぐ見つめていたが、なにかを判断すると、
「うん、一人死んだから一人生むの。二人でも、三人でもいい」
と言った。森は、
「犬を飼うのじゃだめなんですか、人間じゃなきゃ?」
子どものいない夫婦がよくペットを飼っているのを思い出したのだ。森にとっては人の子も犬の仔も似たようなものだった。
「犬も好きだけど……どうしてどっちかを選ばなきゃならないの? 両方飼えばいいじゃない」
ずっといっしょにいると、二人の隔たりがどんどん見えてきてしまう。見えればそこにはまりこむまいと尻込みしてしまう。見えなければ隔たりなどないに等しい。だから森は自宅に帰る。欲望のままに、カルテットの練習がない日でもせっせと淵の家に通って彼女を抱く。彼女といない時、快楽を得る代わりに子作りに手を貸しているのだと思ってみる。男女が交われば子供ができる。当たり前の知識ではあるけれど、ほんとうにそんなことが自分の身にも起きうるのだとすると、どこか間違っているという感じがする。生まれてみて、しまった、ということにならないか。しかしそこで足踏みを続けていれば子どもは生まれない。これは種の戦略にちがいない、と考えると諦めがつく。理性は子どもが生まれてから使え。流れに身を任せろ。そんなの人間らしくない? 「人間らしい」とは、大勢の人間が同じことを始めた場合に人間にとって得にならないということ? 「自分一人くらい」と思った瞬間に、すでに大勢の人間が同じことを思っている?
ともあれいっこうに妊娠の気配はなかった。ひと月もすると、おもてには出さなかったが彼女は心配しだした。月の満ち欠けが毎日の日付欄に図示してあるカレンダーを買ってきて、満月の日は妊娠しやすいだとか、何々を食べるといいだとか、迷信めいたことを口走る。森は、二人とも病院で「能力」検査を受ければ手っ取り早いと内心感じていたが、種無し馬と判断されたら用済みになるのではないかと恐れもした。さいわい、彼女はそうした科学的方法を好まなかった。森が「授精卵」とか「着床」といった言葉を使っただけで、何かが奪い取られるとでもいうかのように、嫌な顔をした。森には彼女のいう科学と昔ながらの知恵との境目がよくわからない。
どうやら森と淵の午後の習慣を、畑中が早くもその鋭い嗅覚で嗅ぎつけたらしかった。ある練習日、四人で食事を終えて解散したあと、森は例によって淵の自宅を訪れた。家の中に入って数分後、耳のいい淵が、畑中の乗る日産車のエンジン音を聞き分けたのだった。寝室のカーテンの隙間から覗いてみると、彼女が推察したとおり、ガレージの前に畑中の車が停まっていた。二人はインターフォンが鳴らされるのを、じっと息を詰めて待ったが、いっこうに鳴らない。ただ低いエンジン音だけが不気味に腹の底に響いてきた。車は間もなく、坂道を藪の中へゆっくりと上っていった。
それから何日かして、畑中くんが間さんといっしょに家にやって来たの、と淵は明かした。「私たちの関係に気がついたみたい」と言いながら、淵はベッドに腰かけ衣服を脱ぐと、サイドデスクの上に几帳面に畳んで置いた。「どうせ面白おかしくしか見てないんだろうけど」
森はそのときシャワーを浴びに行こうとしていた。
「でもだからって、どうして二人して来たんです」
ドアノブを握ったまま、森は浴室に行くに行かれずにいた。
「想像つかない?」
森は、いえ、とぶっきらぼうに答える。彼女を見た。
淵に「乱交パーティー」のサークルを紹介したのは畑中だった。彼女の方から頼んだわけではなく、冗談半分でのことだった。それらしい顔つきで「ご愁傷様です」と慰めの言葉をかけてくる大半の人々よりは大分ましだった。せっかく未亡人になったんだから、参加して気分でも変えてみたらどうですか、「節度ある」サークルですから。いろんな意味で、愉快ですよ、世界が開けますよ、と畑中が勧めてきた。後日、行ってきたよ、と短い報告をすると、畑中は今までになく嬉しそうに、瞳を潤ませ笑った。あなた、すばらしい。ほんとうにすばらしい。生きていてよかった──とまるで「いい演奏を褒めてるみたい」に繰り返すのだった。
背が低くがっちりとした体型の間が、出されたコーヒーの表面を見ながらむっつりとソファに座った。その横で煙草を吸っている畑中の手の動きはせっかちだった。間を埋めるために淵は隣室から、スティーヴ・ライヒの『ディファレント・トレイン』をかけた。森くんが言っていたのを思い出し、夫のコレクションから見つけ出したCDだった。大音量で見えない汽車が走り抜けていく。時間が煙を巻いて輪っかになりかかる。
「これ、テレビで聴いたことがあるぞ。第二次大戦のドキュメンタリーだろうか」
間が独り言をする。
「ライヒよ。夫の物なの」淵がすかさず受ける。
「……」
「この人、兵器マニアなんです。オケじゃなくて自衛隊に入るべきだったんですよ」畑中が哄笑する。「間さん、ときどきオケを軍隊と勘違いしてません?」
「そんなことない」
間はまた、むすっとした岩塊に戻る。淵は畑中の評が的確すぎて笑い出しそうになり、途中で諦めたのか、むしろ覚悟を決めてあからさまに笑う。
「で、なんの用?」
「われわれ人間には生きる時間が限られているんで単刀直入に言いますね。あのー、こないだの、例のパーティー、『楽しかった』って言ってましたよね」
「ええ、まあ。というか間さんの前でやめてよ」
「……」
「もう知ってますよ。それでなんですけど、ぼくらもそういうサークル、作りませんか? わざわざ島の外に出て行くの、億劫じゃないですか」
「何が言いたいのよ……」
彼女は間のほうにちらと視線をやると、彼は腕を組んで何かに対して頷いている。
「私はそういうの、嫌いじゃない。でも自分たちで作るのは面白くない。だって、わざわざお金を払ってまで参加するんだからいいんじゃない。それに、当日に誰が来るかわからないのもスリリングだし。島だと知り合いばっかりで」
「間さんも切望していますよ」と畑中が畳みかけてくる。
「えっ、なんだ?」と間が飛び上がる。
「この人いまだに童貞なんだよ! すごくないですか? 捨てようと思えばいつだって捨てられただろうに」
と同時に、間が「あっ!」と短い叫び声をあげ、右手で自分の両まぶたを抑えた。
「どうして言う!」
「言わなきゃ始まらないじゃないですか。猫被らないでください。らしくないなあ」
畑中だけがやけに楽しそうだった。
「マヤさん、怒らないでくださいね」と彼は自分の太腿に手をついた。淵が彼の目を見るとそれを受け止めて再び話し始めた。「この人に、手解きしてあげてくれませんか?」
間はみるみる小さくなった。小石のように小さくなって動かなくなった。
「バカ言わないでよ、娼婦じゃあるまいし」
畑中は居住まいを乱さないまま、淵の顔色をうかがった。そして声を低めて言うのだった。
「森くんだけずるいじゃないですか。それとも、そのために俺らをカルテットに誘ったんですか。あいびきの口実として」
淵は血の気が退き、一瞬悲鳴を上げそうになった。紅茶を一口飲んで息を整えた。たしかに、そう思われても仕方がないのだ。
「……こないだ尾けて来てたの、見たわよ」
「どうなんです、あいつとできてるんですか?」
「ほっといてよ」と淵はため息をついた。
まったく、隅に置けないな、と畑中は呟くと、
「ほんとに、口実じゃないんですね」
「ほんとよ」間が視界に入ると淵は、「間さんも、ぐずぐずしてないでそういう店に行けばいいの、早い話が」
呆れた表情で間を睨みつけた。間が何か言いかけたが言葉が出てこないらしく、鯉のように口をぱくつかせた。
「そのへん、この人潔癖で……」
畑中が不可解な弁護をする。
「畑中くんはいいの。知り合いの女が性交を手解きする? いったい何時代よ」
間は鯰のように唇をきつく結び、泳ぐ目で淵を見た。よく見ると、純朴そうな黒い瞳を持っている。そんな彼がしゅんと肩を畳んで座っているのは、百歩譲って見ればどこか可愛げがなくもなかった。だが少年にしては外見だけ年を取りすぎている。
「てっきり畑中くんが陰で操られてるのかと思ってた。さんざん溝口さんに偉そうなこと言ってたけど、間さん、あなた女が分からないだけでしょ。『知らない』を『嫌い』って言い換えてるだけなのよ」
畑中が何か喋りたそうにしながらも、口を閉じたまま目顔で問いかけた。間は静かに怒っている。が、反論はできない。
「いいコンビよね。間さんが『大将』とすれば、畑中くんは『足軽』なのに。じつは逆だったとは」
「ちがいます、俺がこの人の世話を焼いて、結果的には操られてるんです、まったく、パペットですよ」
と畑中はけっきょくすぐに我慢ができなくなって口を開く。
「それが主従関係。対等な人間関係なんてない」
「マヤさんとご主人みたいにですか」
畑中が即座に皮肉で反応した。
隣室から、「ナインティフォーティファイヴ」という男の声が聞こえてきた。淵が帰ってと言うまでもなく、間は間もなく腰をあげ、畑中もそれを見ていっしょに立ち上がった。そして、うろんな背つきで靴を履き、外の階段を降りていった。
「間さんたちと三人で子作りした方が能率的じゃないです?」
森は言ったあとからひどく不愉快な気分になった。想像するとさらに居たたまれなくなる。
「嫉妬?」と淵は面倒くさそうに言った。
「……はい」と森は少し考えて正直に答えた。「でも、もう薄らいできました」
「あの二人の子どもはちょっとなあ……」
森はそれを聞いて、一応自分が彼女に選ばれたのだと良いふうに解釈し、さっきの不機嫌が嘘のよう、有性生殖する動物としての優越感にしばし浸る。
「私たちの遺伝子は遠く離れているのよ。だから意識はできないけど、強く引き合ってるの。N極とS極みたいに」
「ぼくがいるどこか遠い所って、そういうこと、ですか?」
「なにそれ?」
「マヤさんが言ったんじゃないですか」
「へえ、そんなこと」
第nラウンドが始まる。その日の森は使命感に燃えていた、人類に貢献しようとしているのだという愚考すら抱いた。ラウンド前に嫉妬させられて、まんまと煽られただけのような気もしたが、欲望と情熱とでよけいな想念は焼き尽くした。自分の精子が彼女に着床するなら今夜だ、と森は直感した。今日は命が宿るのにうってつけの夜だっ!
一時間後、森はベッドで重いまぶたをこじ開け、帰宅した。自宅の玄関に立ったとき、両膝が震えていた。このところ、ヴァイオリンの練習がおろそかになっているのが気になっていた。指の節々に嵌っている歯車が錆びついて動かなくなる夢になんども苦しめられた。定期演奏会が迫っているし、モーツァルトのカルテットの練習もしなければならない。根が生真面目な森は、いつもなら今頃猛練習しているはずなのだ。
帰るなりソファに尻を投げだし、ワーグナーをさらわなくては、と頭では思いつつも、腰を上げられずにテレビを点けると、白髪の大学教授が女性のインタビュアーに向かって喋っていた。
動物というのは実に合理的で論理的です。目的に向かってまっしぐらに突き進むんですね。でも人間は、言語を獲得したばっかりに、つまり抽象化する能力を獲得したということですが──そのせいでですね、いつの間にか目的を手段と取り違えてしまうことがある。例えば戦争ですね。本来なら敵対する者どうしの和解が目的であるはずが、敵の殲滅こそが目的にすり替わってしまう。言語を獲得した動物はね、必ず滅びるんですよ。仕方のないことです。
そうして教授は、どうしようと変更できない真理がそこにあることが嬉しくて仕方がないとでもいうふうに声を引いて笑うのだった。森は身を乗り出して画面に釘付けになった。
教授はさらに話を続ける。あのねえ、人間には明確な発情期がないでしょ? だからね、見た目でわかんないんですよけっ、きょく、わ。メスが発情してるかどうかなんて。ですから、メスは衣服や装飾品を身につけることで、あるいはよりわかりやすい信号を送って、発情してるぞ、ということを伝えなきゃならんわけで──
聞き役のアナウンサーは真顔であいづちを打っていた。やがて映像が切り替わり、画面が緑の陰影に覆われた。森林だった。音声を通して、いろいろな獣の鳴き声がする。陽の当たる丈の低い樹々の間で、ゴリラの家族がくつろいでいる光景だった。赤ちゃんゴリラが二頭、お父さんゴリラの背中の上でじゃれあっている。その教授は、画面下のテロップによると、ゴリラの専門家ということだった。
それでもカルテットの練習は続く。淵に畑中と間の話を聞かされてから、平静を繕いはするものの、森は以前と同じように二人と接することができなくなっていた。あえてそこをみずから突つきたがる畑中は、森と淵を「御両人」と一からげで呼び始めた。両人とも、好きにさせておいた。とくに練習には支障がなく、それどころか、演奏の形がまとまってくるにつれ、四人はますます熱心に打ち込むようになった。その間だけは、何ものにも邪魔されない、特別な時間が許された。
十月も後半、森のもとに淵から連絡が入る。アドレス欄を見ると、他のアドレスにも一斉送信されていた。
みなさん練習お疲れ様。
今週の土曜日に、西河原霊園にてカルテットの本番を行いたいのですが、ご都合いかが
でしょう。
寒くならないうちにね? 私の希望では、お昼ぐらいがいいな。
返信お待ちしてます。では。
淵マヤ
練習期間は一と月ばかり。準備には十分だった。ただ、淵は「そろそろだ」というタイミングを口でも態度でもほのめかさなかった。なぜ今週の土曜なのか。ただの気分か。何か特別な意味があるというのか。森は前日に彼女と会ったばかりだった。昨日教えてくれればよかったのに、と彼はぼやいた。何度か文面を読み返してはみたが、裏のメッセージは読み取れない。いずれにしても土曜日はコインランドリーで溜まった洗濯物を洗うくらいしか用事はない。森はよけいなことは考えずに、問題なしです、とすぐに返信した。畑中からは三十分ほどして、間からは二時間後に返信があった。
畑中:土曜日、空いてまっせ。マヤさんのためならどこへでも。
間:了解しました。一日空けておきます。万全の態勢でのぞみましょう。
淵:すごい、トントン拍子ね。
じゃ、当日は、正午頃にまず私の家に来てください。
よろしくお願いします。風邪をひかないようお気をつけて。
楽しみましょう?
畑中と間の送ったメッセージは森にも送られてくる。男二人の忠犬さながらの対応を滑稽に思った。が同時にそれは、淵が二人とすでに関係を結んでいるのかもしれないという良からぬ思いつきを追い払うため、無理をしてでも優越の側に立とうとして、無理に嗤おうとしているのでもあった。
本番当日、森が淵の家に着くと、ガレージの中に一台、ガレージの前に一台、車が停まっていた。そういえば、満男の車はなくなっている。勝手知る森は坂道を上って家の裏側の駐車場に回った。そこにも車はなかった。森が庭に面した三階の扉を淵に開けてもらって中に入ると、彼女はいらっしゃいと彼の二の腕のあたりに軽く触れた。
畑中と間はすでに、階下でパート練習をしている。二人ともスーツに蝶ネクタイという格好だ。髪はポマードを塗ったのか頭に貼りつき照り輝いている。さすがだと森は恐れ入る。この人たちはこういう、金にも薬にもならないことにこそ本腰を入れるのだ。森が畑中に理由を尋ねると、見えない観客がたくさんいるからだよ、とうそぶき、口の片端を上げた。森が首を傾げると、「ふん、幽霊への礼儀だよ。聴いてるかもしれないだろ」
その本気か冗談か判然としない理屈が、かつては見えた森はそれをいくらか真に受けざるを得ない。たしかにそういうこともありうるかもしれない。幽霊がいるとして、それが正装を好むのかはわからないが。幽霊はそんな瑣末なことにはこだわらないだろうと自分を納得させようとしていたところへ、
「夢の中ではね、私たちみんな、スーツを着ていたの。蝶ネクタイはやりすぎだけど」
淵は黒い上下のスーツを手にしていた。満男の遺品のひとつだった。それに着替えるように、淵は森に催促した。内心は気味が悪かったが、言われたとおりに従った。サイズはオーダーメイドにもかかわらず、肩幅も裾丈も驚くほどぴったりだった。せめてネクタイの色は自分で、ブルーのものを選んだ。淵は髪を後ろでまとめ、黒のパンツスーツに着替えていた。よく似合っていた。
めいめいが車で西河原霊園に出向くと、駐車場の出入口に水落と溝口が並んで立っていた。畑中は通り過ぎざまにウィンドウを下ろすと、「ども」とぶっきらぼうに挨拶した。間は一旦停止し、溝口とは目を合わさずに、「わざわざ」と前を向いたまま呟いた。淵は片手を振り、森はなぜか声は出さずに、「水落さん」と唇を動かした。続々と車を降りてくる黒服を見て、水落は笑いをこらえている。溝口は真顔で口を引き結び、小脇に大きな花束を抱えていた。
めいめいが楽器の準備をしている間に、「しまった!」と淵が叫ぶ。その声が谷間に反響するのを初めて耳にした畑中が、「おお、いいな」と嘆声を漏らした。淵は演奏時に座る椅子のことを考えていなかった。ヴァイオリンやヴィオラはまだいいが、チェロは立って弾くわけにはいかない。彼女は慌てて自宅へ引き返そうとした。そこへ水落が、球体のオブジェの周りを取り囲むあの岩々を思い出させた。そのうちの一つは、満男が最期に座っていたものだ。森はぎくりとして話を変えようとしたが、淵は、それもそうだね。ありがとう、と、淡々と墓の間を歩んでいくのだった。あるいはどこかで、彼女は初めから、あのオブジェの前で演奏するつもりだったのではないかと森は思い至る。
四人の距離は少し遠かったが、オブジェを取り囲む形で岩に腰かけると様になった。北側の高速道路に向かって左から、森、畑中、間、淵の順に座る。淵は自動車の運転席にいつも置いている低反発クッションを持ち出してきて、それを尻の下に敷いた。それから、めいめいが譜面立ての位置を見やすいように微調整し、準備は整った。森がまず音叉を使ってラの音を合わせ、それを他の三人にも受け渡す。ラが合えば、あとは思い思いに調弦をする。
「よく許可が取れましたよね。こんなところでコンサートだなんて」
水落がチェロにも負けない大きな声で言うと淵は、
「許可なんて取ってないのよ!」
さらりと言ってのける。
「ええ! 大丈夫っすか!」
返事をする代わりに淵は、チェロで始まる第一楽章の冒頭の音符を、重々しくなりすぎないよう注意を払いながら刻み始めている。ヴィオラの間、第二ヴァイオリンの畑中と続き、慌てて森も発車したバスに飛び乗る。音の波は放物線型に湾曲した壁面に反射し、ちょうどパラボラアンテナが受信した電波みたいに束となって演奏者たちを貫いた。森の鼓膜がびんびんと響いた。きついエコーがかかって音は鳴り響き、まだほのかに空中を飛び交う残響をかき分け、演奏は先へ先へと進んでいく。前後の音符が重なって聞こえたり、前の音符が後の音符より長く鳴っていたりする。楽譜どおりには聞こえない。
アレグロのテンポに速まると、残響の雲のせいで演奏はさらに錯綜して聞こえるようになった。壁面を反射してくる過去の音に捕まると耳の錯覚に戸惑い、消え去りつつあるそのパッセージの続きを、森は誤ってもう一度弾いてしまいそうになることがたびたびあった。四人のテンポは揺れに揺れた。溝口と水落は面白がってあちこち歩きまわりながら、聞こえかたの違いを試した。
混沌とした演奏を聴くうち、森の聴覚は焦点を失ってふわりと浮上し、いま弓でこすって出しつつある音の連なりは後退して背景になった。そのかわりにあちこちから倍音が聞こえ、その無数の倍音がそれぞれに距離をなしてあらたな立体模様を作り出した。森は耳がどうかしたのかと不安になった。それとも耳鳴りか。四人が実際に出している音以外の音が空間を満たした。聞いているのは、まったく別種の音楽。それは、旋律というよりも音の雲から次々と降りそそぐ雨だった。
実際に雨が降り出していた。空は青みの方が多く、ところどころに薄い雲が居た。まだ第三楽章の途中までしか演奏していなかったが、楽器が濡れてはたまらない。みないそいそとハンカチで楽器についた水滴を丁寧に拭い、ケースの中に退避させた。そして、ケースの上からも雨水が浸みてくるのを恐れて駐車場に向かって駆けだした。雨の薄いカーテンが、墓石をひとしきり洗う。チェロを抱えたしんがりの淵が「うわー」と叫びながら自動車にたどり着くやいなや、雨はまもなくやんだ。森はヴァイオリンを助手席に置き、運転席から空を見あげた。雨女、狐の嫁入り、と呟いた。
畑中が「気まぐれな天気」と言い、間が「秋だからな」と加え、「私たち雨乞いの才能あるのかも」と淵が評した。誰も「狐の嫁入り」とは言わないのでもどかしくて、森が「狐の嫁入りだ」ともう一度かれらの前で口にした。とたんに、淵が意外な反応を見せた。
「何それ」と彼女は目を丸くした。「狐の、何?」
「嫁入り、ですよ。知りませんか?」
「初めて聞いた」
「晴れているのに雨が降ることですよ」
「何言ってるの森くん、晴れているのに雨は降らないよ」
「いまがそうだったじゃないですか」
「さっきは晴れとは言わないのよだから。でもどうして狐が嫁入りするわけ? なんかの言い伝え?」
「ぼくも詳しくは知りませんけど。たぶんそうじゃないですか」
「ねえねえ、『狐の嫁入り』って知ってる?」
畑中も間も首を横に振った。人をからかうのが好きな畑中も、どうやら本当に知らないらしい。淵は、火葬場の脇にあるプレファブ小屋の庇の下で睦まじく雨宿りしていた水落と溝口までわざわざ呼び寄せた。やはり二人とも知らないと答えた。検索好きの水落がiPhoneで、「キツネのよめいり」とGoogle検索してみたが一つも引っかからない。そんなはずはないと森が食い下がると、間が、ものすごく古い言葉なのではないかと推理した。それをたまたま森が知っていたのではないか。そんなことはない、とさらに森は抗弁する。小学校で習った。知らない人の方が多いということは、古びた言葉だということだよ、と間。たしかにそうかもしれない。森は信じかける。でもやっぱり納得がいかないので、自分のiPhoneでも調べてみる。信じがたいことに、なかった。ほら、と淵は軽く流した。でもその言葉、面白いからこれから使っていこっと。
「寒いよ」と畑中が薄い唇を青ざめさせながら二の腕をさすった。
「秋だしな」と間が受ける。
「帰りますか。続きやりますか」と水落が切り出す。
「ありがとう、私の夢に付き合ってくれて。現実のほうが素敵だった」
そう言う淵の表情は光の加減で憂いにかげって見えた。
「最後までやりましょうよせっかくだから。また三楽章から」
狐の嫁入りを知らないなんてあるものかと森はまだ執着していた。最後まで演奏すれば元に戻るはずだと変な理屈を思いついた。
「でも畑中くんはもう……」
「や、いいっすよ。俺、どうも低体温なもんで。平熱、三十五度台なんです。朝なんて、五度三分とかですよ」
「私、貼るカイロありますよ」溝口がショルダーバッグから取り出す。「はい、背中に貼ってください」
「ありがとう」
「まあ、せっかく四楽章まで練習したんだからなあ」間もひとり納得していた。「カルテットは時間がかかるんだよ」
演奏再開。
雨後のため空気中の水蒸気に音が吸収されるからか、さっきよりも音がくぐもって聞こえた。でも演奏そのものは、四人の息が合ってきて、また楽器も鳴り始めて、しだいに良くなってきた。反響の効果はだいぶん弱まり、後半はこぢんまりとまとまった演奏になった。しかし四人の表情は、弾き切ったという満足感に包まれていた。墓参りに来たらしい中年の女二人がいつの間にか遠巻きに聴いていて、演奏が終わると拍手を送られた。それに、水落と溝口の拍手がつけ加わる。淵が立ち上がると、森がつられて立ちあがり、ついで畑中が、間の腕を取って同時に立ちあがった。職業柄の癖だった。そして思い思いのタイミングで一礼した。水落が後先考えず、口元に両手で壁を作って、「アンコール!」と叫んだ。アンコール曲など準備していなかった四人は絶句したが、また、「アンコール!」が飛んでくる。四人は額を集めて相談し、もう一度第一楽章をやることに決めた。
二度目は、森は他の三人の呼吸が手に取るようにわかった。淵も畑中も間もおそらくそうだった。ここだ、というタイミングで音が鳴る。また、返してくる音の強弱や音色にも、説得力や親密さがあった。意味はわからない。けれども、意味だけがわからないからこそ、例えば言葉を使って話しているときにはすぐに喧嘩腰になるといった状況は避けられた。森は本気で、人間が音楽だけを使って話す高度な文明世界を夢想した。みなが互いの考えや感情を音で把握しあいながら、一回目よりも良い演奏を四人が目指そうとしている、音楽に奉仕している、尊敬している、という感じがして森は涙ぐむ。