不協和音
二.
カップルにはカップル同士の付き合いがあったと、森はおぼろげながら思い出す。学生だけでなく大人も、カップルはカップルでつるむのだ。独身者には入り込めない世界がある。ある時、淵が溝口と水落を大声で呼び寄せ、自宅に遊びに来ないかと誘うところに、森も居合わせた。二人はふたつ返事で受け、すぐに日程の調整に入った。そのすぐそばに立ち、森は全身耳になっていた。いったいどんなことが行われるのか、興味津々だったのだ。「あいかわらずぼんやりしてるよね」と、彼の存在に気づいた淵が森を一瞥した。
はあ、と森は春の隙間風のような返事をした。自分ではいつもしっかりしているつもりだったから、心外だった。
「そうだ、森くんもいっしょにどう?」
「はい?」
森は自宅に誘ってくれているのだとわかったが、訊き返した。口や目からこぼれだす喜びを隠しきれなかった。
「うちに来ない? 今週の日曜」
もう日程は決まってしまっているようだった。前日の土曜日に、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴きに島外へ出る予定だった。それで、そのまま一泊して日曜にゆっくりと島に帰ってくるつもりだった。数秒迷ったあげく、
「行かせてもらいます」
と森はめずらしくはきはきと返事をした。何とか土曜の最終のフェリーで島には戻れるだろう。ホテルの予約はキャンセルすることにした。
「よかった。賑やかになるね。お昼頃でいい?」
「むしろ昼でお願いします」
水落が調子よく言った。森が溝口のほうを見ると、目が合った。彼女はすぐに視線を逸らす。
「私もお昼でぜんぜん……」
「ぼくも」と森も返事をしながら、ああこれがぼんやりしていると言われる所以か、と思い当たったが、「ぼくも」と繰り返しただけで、それ以上言うことを思いつかない。
それぞれが何かを持ち寄ることになり、気の利いた料理のできない森は、酒を持っていくことにした。土曜日、島外に出たついでに、コンサートホールの近くの百貨店に立ち寄った。焼酎かワインかで迷ったあげく、店員に聞いて、いちばん飲みやすそうな、ラベルに猫の柄のついた白ワインを購入した。ワインを何種類か試飲したせいで、コンサートでは半分ほど眠ってしまった。
当日は、禁酒を徹底している溝口が、車で森を迎えに来てくれる段取りになった。約束の十一時三十分きっかりに、あの黄色いシトロエンが、森のマンションの駐車場に滑りこんできた。森が部屋の窓から外を見下ろしたとき、ちょうど溝口と水落が車中でキスを始めた。その熱烈さにぎょっとさせられ、慌ててカーテンを閉めた。とすぐに、溝口から着信が入った。「着きました」「はい、行きます」
駐車場では、水落がわざわざ車を降りて森を待っていた。どうも、こんにちは、とやけに丁寧な挨拶になってしまった。
「やあやあ、いいとこ住んでるんだね。あれ、夏みかんだよね」
「え、どれですか」
駐車場の隣の畑には、何本か木が植えてあった。森は言われて初めてそれが夏みかんだと知った。果実がなっていても得体が知れないので、ただ「橙色の果物っぽいもの」とか「でかいみかん」としか認識していなかった。
運転席にいた溝口も出てきて、「ほら、夏みかん」と水落が指差すと、彼女はただ「うん」とうなずいた。女になったなあ、と森は神秘を感じた。肉体関係は結ばれたと、森はここで確信するに至る。車に乗せてもらうのに気が引けた。
車中ではほとんど水落が喋っていたので、あまり口を開く必要がなかった。彼は自分と溝口を合わせて「ぼくたち」と呼んだ。あるいは彼女のことを、「エミ」と呼びすてにした。彼女が溝口エミだと、森は夏みかん同様そのときまで知らなかった。溝口はいつもの感じと変わらず物静かだったが、一方の水落はもう、彼女に対する好意を丸出しにしていた。思わず森は、バカだな、と内語してしまい申し訳なくなったが、でもバカはバカだ、と否定せず独身者の誇りを守った。開き直った。
十分ほど走ると、丘の上に住宅街が見え始めた。下調べに余念のない溝口は、すでに一度来たことがあるかのようにナビ要らず、ハンドルさばきにも迷いがなかった。彼女のことだから、ひょっとして本当に一度、下見に来たのかもしれない。坂は上らないって言ってたよ、と水落が隣から教えたが、必要な情報ではなかったらしく彼女は聞き流した。
右手に見える竹藪の間を縫いのぼってゆく坂道の手前に、「Fuchi」と彫り込まれた石の表札のかかる家があった。あったあったあった、と水落が騒いだ。煉瓦を所々にあしらった暖色系の外装で、古めかしく見えた。大きな窓ガラスが目を惹き、そこだけ見ると新しく見えもする。家の前に停車すると、淵が階段を降りてきた。家は丘の急斜面に建っていて、一階の正面一画がガレージになっていた。彼女は中に車を入れるように言い、全員が車を降りたのを見届けると、ガレージの脇にある階段を上っていった。三人はそのあとに続いた。
靴を脱いで玄関にあがるなり、「いやあ、いい家住んでますねえ」と水落がまた褒めた。淵は、「ほんとに思ってんの?」と実感のこもっていない彼の口調をなじった。正面に、青い、輪郭のかすれた絵のポスターがかかっていた。書道ですか、と森が訊くと淵は、ああ、たしかにそう見えるかも、と断りつつ、イヴ・クラインって画家の絵なの、と訂正した。裸の女の人の体に青い絵の具を塗ってさ、紙にべたっと張り付けさせたの。魚拓ならぬ人拓ね。
いろいろとこだわりがあるらしい。築四十年の家を買い取り、夫の知り合いの建築家に頼んで改装してもらったのだという。
「この家が売りに出されてるのを見つけたとき一目惚れしちゃってさ」
二階のリビングに通されると、大きなガラス窓の向こうに、風に波打つ竹藪が絵のように切り取られて見えた。森は歓声をあげた。部屋の中は物が少なく、焦茶色の木製テーブルを洒落た濃い赤の革のソファがL字型に取り囲んでいる他は、こまごまとした物は目につかず、生活感はなかった。まるで竹藪を見るためだけに用意された部屋みたいだった。
「私もこんな家に住みたいなあ」と溝口がため息をつく。淵は、「なんか誇らしいな」と言いながら、リビングを出たところにある空間を斜めに横切るこれも木製の階段を上るように促した。生活スペースはほとんど三階にあるのだと淵は言った。森はがぜん興味深く他人の家を観察した。しかしやはりここにも生活感はない。寝室の扉を森が知らずに(いや無意識は知っていたのか)開けようとすると、「ここはだめ!」と淵がつんのめるように立ちはだかって阻止した。
「片付けてないの!」
「嘘ですよ」
「いやほんとに、カオスなの」
森は彼女を押しのけてでも寝室の中を見たかったが、嫌われるといやだからやめておいた。
階段を上りきったところ、壁と天井との境目にある明かり採りからは陽射しが筋となってふりそそいだ。その明るい空間に、リビングのテーブルと同じ色調の扉がぽつんとあった。しかし漆喰のクリーム色の壁面とのコントラストで、存在感がある。
「ほらここ」
淵が開けると、涼しげな薄紫色の花の植わった趣味の良い鉢が、森の視界を洗った。外に出てみると、庭を取り囲む柵の出入口のところにアーチが設けられ、それがモッコウバラの枝葉に覆われている。右手には葡萄棚まであり、マスカットの房がいくつもぶら下がっている中を、今ではあまり見かけなくなった蜜蜂が優しい羽音で飛び交う。その下には白いテーブルと二脚の椅子。
「極楽だ。天上楽園だ」
森が目をむいて呟いた。
「その言い方、森進一みたい」淵がけたけたと笑う。「極楽だとしてもさ、その極楽を作るのに、ずいぶん手間がかかるのよ」
「ぜんぶ自分で?」
「うん、そう」
「すごい」
「なんか森くん、顔が怖いんだけど」
「すいません……ここが家の反対側にあたるわけですか」
「うん。こっちから見たら一階。反対から見たら三階」
溝口は本心から羨んでいるようだった。気の早いことに、こんな家に住めたらいいね、などと水落とじゃれ合っている。とはいえ森も、こんな家に暮らせたらどんな気分だろう、人格も変わるだろうか、と一人庭を眺めやるのだった。しかし独り身にはやはり広すぎる。
リビングに戻ると、すぐに缶ビールが出てきた。その後、大皿に盛ったサラダを淵が運んでくると、溝口も手伝いに立った。残された森と水落は、働きもせずひたすらビールを飲んだ。せめて空き缶くらいは片付けようと思って森が台所、というかキッチンと呼んだ方がいい場所へ運んでいくと、淵も料理を盛り付けたりオーブンからグラタンのプレートを出したりする合間に飲んでいた。溝口はジンジャーエール。ところで淵の夫の影がないので、森がその居所を尋ねたところ、買い出しに出ているがもうじき帰るとのことだった。
溝口と水落は、場所を変えるにしても、いつも隣り合ってソファにかけていた。そして溝口の方がしきりに世話を焼き、水落の小皿に料理を盛り付けたり、服に付いたパン屑をとってあげたりしていた。森が、こんな子どもみたいな扱いされたら恥ずかしいなあ、と思いながら幸せそうな二人をぼんやり見ていると、淵が含み笑いをしながら呆れたふうに目配せをしてきた。
淵と水落と森がすでに赤ら顔をしているところへ、扉の開く音がし、ビニルがかさかさ鳴る音がした。まもなく、ほっそりとした体型の、中性的で肌の白い男が、買い物袋を手に提げ、三階へ続く階段の前に姿を現した。家の造りが頑丈なのか、足音はまったく聞こえなかった。その姿を見て、森はとっさに異様な感覚に捉われた。その理由はすぐにわかった。思わず魅入られてしまうほど、男は整った顔立ちをしていたのだ。顔の部品も美品であり、その配置も完璧だった。完敗である。しかしそこまで美しいと、森はなんだか痛快だった。
「あ、どうも」と彼は言ったものの、先を続けられないらしく、だいぶ間が空いてから、「ようこそ」と緊張ぎみに挨拶した。
「なによ、『ようこそ』って」と淵がビールを噴きそうになった。
「こちらがマヤさんのご主人?」水落が遠慮なく男を検分する。
「はい、淵満男といいます」
「めちゃくちゃイケメンじゃないっすか! なんか自分が妖怪みたいに思えてきた」
「う〜ん、無駄に顔だけはね」
「マヤさんひどいなあ。でもご主人、もてもてで大変でしょ」
「まあ、はい」と満男が自分で答えた。少しも嫌味ではない。物心ついた頃から言われ慣れてきたのだろう、特に自慢するほどのことでもないのだ。広いリビングに、一挙に笑い声が膨らんだ。満男だけが、瞬きを繰り返し、真っ赤になっている。自分の発言がどうしてこうも笑いを呼んでいるのか、いまいち理解できていない様子だ。
「正直な人ですね」と森も涙を拭いながら言った。すっかり好感を持ってしまう。
「もてるって、いいことだと思っているでしょ」と満男は反論する。
「そりゃあ、思ってますよ」と水落。
「相手は複数ですけど、こっちは一人ですよ。さすがにウザいですよ」
迂闊にも、わかります、と言いかけて森は口をつぐむ。
「抜けてるのよこの人は」とあくまで妻の方は辛辣だった。
「じゃあどうしてマヤさんを選ばれたんですか」と溝口が訊くと森も水落もうなずく。
「それはあれですよ。彼女がまったくぼくに興味を示さなかったから」
「ふーん。なるほど」
「へー、そんなもんか」
「もうやめて」
ひとしきり笑い、食べて、疲れて、淵が換気のため窓を開けると、ひんやりとした風が入り込んできた。とともに、藪を渡ってゆく笹の葉擦れの音が聞こえ、一同は緑茶を飲みながらその静けさに耳をそばだてた。風にしなう竹の織りなす模様が、見えないものの足跡のように森には見えた。そんなとき、満男が突如、「溝口さん!」と名を呼んだ。彼女は息を飲んで居住まいを直し、「はい、なんでしょう」と応じた。「またなに」と迷惑そうに言う妻を無視して満男は、「あの、ぼく、実はですね、溝口さんのファンなんです。新報フィルのCDも何枚か持ってます。差し出がましいのですけど、サインをしてもらえませんか?」と言うのだ。溝口は赤面し、「もちろん、そんなことなら、喜んで」と軽く頭をさげた。
「え、ほんとですかっ!」
その喜びようといったら、森まで嬉しくなるほどだった。黄金比で作られた顔が燦然と輝くと、「ありがたい」という言葉さえ思い浮かんだ。満男は軽い足取りでCDと油性ペンを取りにいった。ディスクにじかにサインをしてもらい、色紙にももう一つサインしてもらい、おまけに握手までしてもらった。淵は呆れ顔で小鼻を膨らませて一部始終を見ていた。水落は、「ぼくのは、いいですか?」と彼女の手からペンをかすめ取ってみせた。
「あ、いや……じゃあ」
「ははは、嘘です嘘です」
そのあと淵の方を見て水落は、
「失礼ですけど、お似合いですねえ」
としみじみ言った。淵は水落をわざと睨みつけ、
「お似合いと失礼がどう結びつくのよ」
と空を叩いた。
「いやなんか、奥様のほうが手綱を握ってらっしゃる印象があって……ご主人のほうは優しい感じで奥様を立ててらっしゃって……ねえ森くん」
淵は森のほうへ視線を移す。
「私が男みたいって言いたいわけ?」
「そういうわけではないんですけどまあ、うまくバランスがとれているというか……ねえ森くん」
「照れ隠しですよ」
「お、うまいこと言う」
「森くんまでそんなことを。ふふ、まあいいわ、何だって」
五人は隣室へ移動した。その十畳ほどの部屋に入ってまず森の目についたのは、自分の背丈ほどもある細長い木製のスピーカーだった。部屋の壁面は防音施工されているようで、小さな穴が一面に空いていた。部屋の中央には、背もたれのある木製の椅子と、譜面立てが置いてあり、その三又の脚元にはチェロケースが横倒しになっている。森のアパートの窮屈な防音ブースとは大違いだった。
音楽室に入ると、酔いまで吸い取られていくようだった。淵はCDを収納してある木製ラックの扉を開けて探し物を始めた。彼女は何か急いでいるふうでもあったが、酔っていて手元がおぼつかないだけかもしれなかった。彼女を後ろから抱きすくめたいかすかな欲望が所かまわず疼くところをみると、森もまだ酔いから醒めていなかった。
彼女が再生したCDは、ジュリアード弦楽四重奏団の演奏する、モーツァルトの弦楽四重奏曲第十九番「不協和音」。森が好きで、何度も聴いた曲だった、初めてこの曲を聴いたときは驚いたものだった。十八世紀に作曲された曲ながら、アダージョで始まる曲の冒頭はいわゆる現代音楽のようで、それぞれの弦の音が旋律や和音をなしかかる手前の、異様な緊張状態が続くのだ。それが、アレグロにテンポが移ったとたん、ハ長調の朗らかで軽やかな旋律が雲間からさっと射してくる。淵がその曲を前置きなしにかけたとき、森は忘れていた良い記憶や良くない記憶が一斉に蘇ってきたかのような、喜びと苦しみの入り混じったわけのわからない感情に一瞬襲われた。
スピーカーが高性能なので、まるで別の曲に聞こえる。初めて見る真空管アンプもその音に一役買っているのだろうか。
「こんなに立体的な曲だったのねえ。弓が弦を擦る音まで全部聞こえる」
と、溝口は何度もうなずきながら演奏に聴き入っていた。通りすがりの人が見たら、誰かと会話しているみたいだ。
「鼻息も」と森が付け加える。
「すごくいいっすね。ぼく、正直弦楽器の上手い下手ってよくわからないんですよ、吹奏楽出身なもので。だけどこれはいいなあ」水落は目を閉じたまま神妙そうに言う。あながち嘘ではなさそうだ。水落はしばらく黙っていて突如、「すげえ、スピーカーの中で人が演奏してる!」と叫んだ。CMにもってこいである。
満男は満足げに微笑んだ。彼は椅子を別の部屋から持ち出してきて足を組み、俯き加減に聴いていた。その横顔は、ギリシャの美青年の彫刻そのものだ。その横で森はカーペットの上に胡座をかいて指揮をし、淵は右側のスピーカーのそばで腕を組んで壁に背をもたせかけ、溝口と水落はやはり並んで立ち、両側のスピーカーから飛んでくる音がちょうど交叉するあたりを陣取っていた。水落はトランペットを真似たような音で曲を口ずさんでいる。初めて聴いた曲だと言ったが、なぜか歌えていた。スピーカーの背後の大きな窓ガラス越しに、雀の群れが陣形を崩さずに飛んでいった。
二楽章の終わりあたりで、淵が急につまみを回して音量を下げると、眠ったように動かなかった満男が、傷つき怯えたような顔を持ち上げた。
「私、カルテットやりたいのよ」と淵が誰にむかってか言った。
「カルテット」と呟いたきり森は内へこもり、学生の時以来やってないなあと思う。
「溝口さん、いっしょにどう?」と淵が誘った。
「私は……」彼女はそう言っていちど俯くと、水落の顔を見た。「オケで手いっぱいで……」
「そう。ときどき、変な夢を見るんです。ものすごく広い墓地でね、そのお墓のど真ん中でこの曲を演奏しているの。チェロは自分っぽい人が弾いているんだけど、ヴァイオリン二人とヴィオラは誰だかわからないのね。たぶん私の父親とか大学の先生とかが混ざってると思うんだけどそれは見かけだけでさ。言葉は話せなくて、私は演奏しながら、その人たちが鳥類だってことを知ってるの」
淵は話を中断して、「退屈?」と一同に訊いた。三者三様に首を横に振る。人の夢の話って、私だったら退屈だけどなあ、と彼女はひとりごちる。
「でその夢がね、あまりに生々しくて、目が覚めても現実みたいなの。演奏し終わったときの疲労がまだ腕や肩に残っている感じまでそのまま」
森は墓場で演奏する光景を思い浮かべようとした。日本の墓石だと強烈な違和感しか湧かないが、キリスト教墓地ならありそうな光景だ。秋の空気の澄んだ晴れの日に、故人の埋葬されている墓石を取り囲んでカルテットを演奏する。それならありそうに思える。ひとり納得していると、淵は次に、森に目を止めた。断る理由はなかった。淵となら本望である。気楽に彼女の誘いを受けた。しかし森はひとつ勘違いをしていた。淵はたんに弦楽四重奏曲を演奏したがっているわけではないのだった。
「さっそく、下見に行ってみよっか」と淵は言った。「実はもう、お墓も決まってるの」
「お墓、どうして?」
不審に思った森は尋ねながら、早くも嫌な予感に捕えられた。
「だから、お墓でこの曲を弾くの。見た夢を再現したいわけ」
「だめなんですか、この部屋じゃあ。じゅうぶん広いじゃないですか」
「それじゃ意味ないの」
〈ドリームズ・カム・トゥルー〉と森の頭の中で、畑中の声が聞こえた。夢は叶う。畑中ならそう言って淵をからかってもおかしくない。森の無意識は畑中の声を盗用したのだった。
「この団地のむこうにあるお墓。わりと近いよ」
彼女は、壁にかかっている、風車のある野原の風景画のあたりを指差した。
「それでそのお墓の壁なんだけどさ、音がよく反響するの。コンサートホールをそのままお墓に変えちゃったみたいによく響くの。ねえ?」
満男が頷くと、へえ〜、と一同が声を揃える。
「ね、やりたくなってきたでしょ? きっと気持ちいいわよ」
と淵は森にたたみかけた。
「はい」
「言わされてない?」
「いや、場所が気になるけど……やりますよ」
「ほんとに? よかった」
淵は森の右手を両手で握った。彼もしっかりと握り返した。
「せっかくだから、みんなで行ってみます? 散歩がてら」
淵は全員の居場所を目で確かめながら言う。
水落は、「遠いんですか」とか「どれぐらいかかります」と疑心あらわに尋ね、長く歩かされるのを警戒した。溝口が、少しは痩せなきゃ、と彼に忠告する。森はむしろ歩くのは好きだし、それに何より、淵と散歩できるのならなおさら気が進む。満男は来るのか来ないのかはっきりとしなかった。みなぶつぶつ言いながらも揃って玄関まで移動し、おぼつかない足取りで靴につま先を入れようとした。
竹藪の坂道を上り、住宅地を抜けて丘の反対側まで行く。
森と淵の歩みは速く、その後ろを溝口と水落が手をつないで歩き、いちばん後ろに満男の姿があった。森と淵は、この靴はどこで買ったのだとか、「NIKE」のばったもんで「NICE」という偽ブランドがあるとか、たわいのない話をしながら歩いた。背後で他の人には見えないお花畑の中を歩いている溝口と水落の姿が小さくなると、そのつど立ち止まっては待った。森はずっと歩いていたかった。瓦屋根の立派な家を右へ曲がると、また藪が眼前に現れた。
「ほんとはこの丘の向こう側に降りてからぐるーっと回っていかなきゃなんないんだけど」
淵はそう言うと、藪の手前にある月極駐車場の中へつかつかと入っていった。「ごめんね、せっかちなのわたし」
墓地は森が思ったよりもはるかに広かった。駐車場の縁から急勾配に下る丘の斜面と藪がつくる谷間の底には、墓石がひしめき、幾何学模様をなしていた。谷間の向こう側には高速道路が右へカーブしながら走っていて、その軌跡がそのまま霊園の北側の壁になっている。空から大きな蓋をすれば、たしかにコンサートホールにでもなりそうだ。
「ここだけ金網がないの。気をつけてね。でも近道だから。わたしの真似をして」
淵は両手で交互に竹をつかんで支えにしながら、軽々と藪の斜面をくだってゆく。後ろ姿は楽しげだった。そこは、淵の家の前からつながる藪の、西端にあたる場所だったから、傾きかけた陽の光に足元は照らされて明るかった。地面に降り積もった笹の葉が湿り気をおびて黄金色に光った。
あとに森が続く。背後で、水落に手を取られている溝口は、なんとなく泣きそうな顔をしている。彼女は踵が高い靴を履いて歩きにくそうだった。竹の表面はひんやりとしていて滑らかだった。落葉を踏みしめながら慎重に降りていくと、淵は早くも墓場に降り立っていた。そして、陽射しに手を翳し、他の四人が降りてくるのを眩しそうに見守っていた。水落が足を滑らせ転倒すると、溝口まで仲良く斜面を滑り落ちた。水落の体重のせいでよく滑った。淵は腰を折って大笑いした。ちょうど谷底まで降りてきた森に、
「いい歳した大人が何してんだろ」と言い放った。
「連れてきたのはマヤさんでしょ」
森は言ったものの、水落の無残な姿を見ると同じく笑いの発作をこらえきれない。淵にはどこか畑中に似た部分があると森は感じた。
「ヒヒヒ、罠にはまったな」
「なんですかそれあ、蛇」
「いま何てった?」
「蛇です蛇」
みるみるうちに、淵の肌がつやを失っていくのがわかり、森は教えたことに少し罪悪感をおぼえた。
「うそうそうそうそうそ、やめてやめてどこどこどこ! ねえどこ!」
残念ながら嘘ではなかった。自転車のタイヤのチューブではなく、黒い蛇が、三十センチほど上にある斜面に這い上ろうとしてSの字に固まっていた。要するに淵のすぐ後ろにいる。森は彼女に手を差し伸べ、ゆっくりと体を回転させた。そして蛇を指さした。
「いた! いやだお願い助けてどうにかして」
「ほっとけば何もしてきませんよ」
二人は後ずさりを始めた。森は子どもの頃は平気だったはずなのに、見れば見るほど、蛇の鱗は気持ち悪かった。しかしどうして気持ち悪いのかがわからなかった。
「わたし、ほんっとうに、蛇、ダメなの。長いヒモを、見るだけで、心臓が、止まりそうになる」
「そこまで嫌いって、すごいですね」
「きっと、前世に、なにか、あるのよ」
そこへ、
「この高低差はないよお」
と顔じゅう汗だくの水落が交叉する枯れ竹の隙間からようやく姿を現した。背後にいる溝口は、いまは淡々としていて、息もあがっていなければ、汗もかいていない。だが膝や肘に泥が着いていた。
「汗、かかないんですか」と森は溝口に訊いてみた。
「かいてますよじゅうぶん。背中とか」
「しっ」と淵が苛立たしげに人差し指を唇に当てる。「蛇が動く」
「えっ、蛇。どこどこ」
森が指差すと、
「ひょー、気持ちわりい」と水落がはしゃぐ。彼に怖いものなどあるのだろうか。
四人が横並びに蛇の動向を見守る中、つかつかと前方に歩みだした者があった。遅れて黙々と藪を降りてきた満男だった。彼は早足で蛇のそばまで歩いて行くと、一瞬のためらいもなく蛇の首をつかもうと腰をかがめた。
「やめなって!」と妻が叫んだ。
「大丈夫! 毒蛇じゃないからー!」
蛇は首を捻り、襲いかかる人間の手と対峙した。森はもっとよく見ようと数歩前に進み出た。満男の手は石膏のように白く、ピアニストが羨むほど指は長く、傷ひとつないように見える。蛇は頭をゆるく回転させながら牙を向いて手を威嚇した。満男はその背後をかこうとする。しかし蛇は首を捻りながら頭をぐっとうしろに引いたので、つかみかかる満男の手は空振りに終わった。同時に、蛇にとってはそれが攻撃の準備態勢でもあった。とうとう蛇は人間の親指の付け根あたりをとらえた。「あいてて」と言ったものの満男は取り乱すことなく、手に喰いつかせたまま蛇を宙にぶら下げておいて(このとき淵はやるせのない悲鳴をあげた)、反対の手で首根っこをしっかりとつかんで牙を皮膚から引き抜くと、そのまま腕を何度かを振り回し、遠くに放り投げた。淵はまた悲鳴をあげた。
「よっ、男前っ!」と水落が拍手した。
「痛くないですか?」森はおそるおそる満男の傷口を覗き込んだ。親指から、赤い二筋の血が浸み出しているのがはっきりとわかった。
「ええ、大丈夫です。お騒がせしました」
「いやこっちこそ。というか奥さんがいちばん騒いでましたけど」
言葉の通じない相手がいちばん怖い。言葉が通じれば、蛇だってライオンだって、どうにかして説得するのに、と淵はいかにも淵らしいことを言って一同を笑わせた。一行はすっかり蛇に気を取られ、当初の目的を忘れていた。ひとりその目的が気になって仕方のない溝口が、さあ行きましょうか、と淵のかわりに促した。彼女が黙々と墓石の間を進んで行くので、みな、なんとなくついていった。しかし溝口自身、どこへ向かっているのかわからないはずだった。淵は行き先を告げることなくただ呆然と溝口の背に従っている。にもかかわらずそれについて口にする者もいない。一行は決然とさまよった。
途中、古くて大きな桜の木があった。その周囲はペット墓地らしく、「愛犬モモの墓」「愛猫サンドリーヌの墓」「おかもとの墓(亀)」などと石に刻まれてあった。イグアナの墓まである。五人はしばらく、墓石の間を、面白い名前や動物を探して歩き回りまたしばし道草を食った。
動物と人間の区域はいちおう、一本の細道で分けられていた。人間の墓の間を溝口についてどんどん先へ進むと、二つの立方体で球を上下から挟み込んでいるオブジェに突き当たった。満男は偉い人の墓にちがいないと言い張ったが、どこにも葬られている人物の名が記されていなかった。どう造ってあるのか、球体が宙に浮かんでいるように見えるしかけになっている。ほんとうに浮かんでいるようにしか見えない。五人は口々に不思議がったり、推理したり、怖がったりした。満男がまた蛮勇をふるって隙間に手を入れるや、「冷たい!」と手を引っこめた。
溝口がオブジェの前に仁王立ちになり、おもむろに拍手を始めた。「あの、ここ神社じゃないけど?」と水落が指摘するのを無視し、彼女はなんどか拍手をするたびに、手のひらを合わせたままじっと立っていた。
「うん、確かに、いい響きですよ。ほら」
彼女はもう一度、高く澄んだ音で拍手をする。鳥が鳴いた。
「でしょ?」
淵も始める。
他の三人も始める。中でも手の大きい水落の拍手は際立っていた。「パン」というより「ボスン」という音に近い。
「あれ、いま、『うるせぇ!』って聞こえなかった?」
淵が言うと、みな耳を澄ませた。聞こえない。もう一度、森が力いっぱい叩いてみた。反応はなかった。うるせぇ、ってマヤさんのぼくに対する当てこすりじゃないっすか、と水落はうたぐった。
「森くん、会場はこの場所でいい? 私、かなり本気だよ?」
「はい」
墓で演奏するのに、「ここ」も「あそこ」もない。
「あと一人ヴァイオリンと、ヴィオラはどうする?」
「あの、思い当たるには思い当たるんですけど……」
「私も……きっといっしょじゃない?」
「畑中さんと間さん?」
「やっぱりかー。あの二人ぐらいしか、こんな変な誘い、乗らないよね」
溝口と水落は、敷地内を散歩し始めた。墓地デートだ。森のところまで声は届かないが、墓石を指差して何やら笑い合っているのが気味悪い。満男は、オブジェを円形に取り囲んでいる岩の一つに、じっと腰かけ、瞑想にふけっている。それを横目に、
「あとそもそも、この墓地の人がOKしてくれますかね」
と森は続ける。
「別にお墓で破壊活動するわけじゃないんだからさ……演奏くらいさせてくれるでしょ。まあなんとかするわ。あの二人も私が誘ってみる」
雲のない青空が薄く黄色がかり、カラスの鳴き声が騒々しくなってきた。淵も森も恋人たちを放置していたが、そろそろ呼び戻すことにした。森と淵はじゃんけんした。森が負け、二人を探しにいった。物陰でセックスでもしていたらどうしようと本気で心配した。だから、「溝口さーん水落さーん」とまず大声で呼びかけてみた。すると三度目に、「なんだーい」と水落から返事がきた。二人は墓地の端のほうにある、煉瓦造りの古い火葬場の辺りまで流れて行っていた。
森が水落と溝口と連れ立って戻ると、満男はなお、同じ岩の上にじっと座って動かない。肌の色が、鮫色の岩に同化しかかっているのを不審がった森は声をかけてみるが、大丈夫だとしか言わない。
「気分が良くないみたいなの」腕を組んだまま横に立っていた淵が、憮然として言う。「やっぱり、毒蛇だったんじゃないのかしらあれ」
「ちがう、普通の蛇だって……子どものとき図鑑で見たんだ」
満男はあくまで主張を崩さない。
「病院行ってって言っても聞かないのよ」
「でも、ちょっと様子が変ですよ」と溝口が珍しく、心配そうな抑揚のある口調で言った。
「単なる貧血ですから」
「って言うんだけど、救急車呼んだ方がいいかしら」
水落がポケットからiPhoneを取り出し、「蛇の毒」を検索し始めた。画面をタップしながら、場合によっては死ぬこともあるだってさ、と記事をそのまま読み上げた。
「そんなの、何も言ったことにならないでしょ」と溝口は言って捨てた。
「分からないけど、救急車呼んだほうがいいんじゃないかな、念のため」
と森が勧めても、満男は頑なに拒んだ。こんなときにプライドとか捨てなよ、ほんとはあれ毒蛇なんでしょ、と淵が詰め寄った。だが満男が抵抗する気力もなさそうなのを見て取ると、ふいに黙りこくった。じゃあ、救急車じゃなくて、マヤさんの車で病院に行きましょ、ね、と溝口が代案を示し、満男の背中に軽く手を置いた。一同は返事を待った。
満男はようやく頷く。行くってことですね、と溝口が確認をとると満男は、はい、と苦しそうに声を絞り出した。淵は夫を睨みつけたあと、慌てて来た道を引き返し、竹藪の中に姿を消した。
「あ」と溝口が言った。「マヤさんお酒飲んでる」
「ここに来てから運転代わればいいよ」と水落はiPhoneの画面に目を落としたままだ。
「行かなきゃ。ねえ、いっしょに来て。森くん、この人を見ててください」
溝口は水落の手を引き引き、小走りに立ち去った。
空は赤っぽくなり、竹藪の笹の葉はまだ黄色く西日に照らされているが、墓地の底には刻々と暗闇が溜まりつつあった。なにせ墓場だ。照明は必要ない。隠せるものなら隠してしまったほうがよい。風が出てきた。
満男は岩の上で両ひざを抱いてうずくまっていた。森がじっとその背中を見つめていると、震えているのがわかった。自分たちが来た方に目をやると、笹の葉はいよいよ薄闇に浸されはじめていた。何の音かと森がふたたび満男に目をやると、歯が鳴っているのだった。死にはしないかと心配になり、自分でもうんざりしながら「大丈夫ですか?」と再度尋ねると、さらに弱々しくなった声で「大丈夫」と答える。何度訊いても「大丈夫」と答える。
「寒く、ないですか」
「寒いです」
外からの力で揺さぶられていると見えるほどに、満男の肩は震えていた。森はかけてやれそうなものを探したが、なにも見つからなかった。森自身、半袖のTシャツしか着ていず、肌寒かった。
「気分は、どうですか」
満男の意識を引き止めておくために、森はふたたび話しかけた。
「……緑とか、赤とか。黄色とか、オレンジ」
「え?」
数分が過ぎた。
「……色が、見えます。動いて……」
「遅いなあ」
森はため息をついたが、そこにはわずかに嗚咽に似た響きがあった。
周囲は今にも紺色の濃さの中に溶けこもうとしていた。高速道路のアスファルトの表面を自動車のタイヤがこすって走り過ぎる摩擦音と、カラスの鳴き声ばかりが聞こえた。森ははっとして、カラスが死臭を嗅ぎつけて来はしまいかと、空を見上げた。カラスが死臭を嗅ぎわけるとどこかで読んだり見たりしたことがあったがそれが本当かどうかは知らなかった。作り話だといい。カラスは近くにはいなかったが、何か黒い影がせわしげに飛び交っていた。動きからして、おそらくコウモリだと森は推測した。
遠くでクラクションの音が立つ。高速を走る車が鳴らしたのだとはじめは勘違いしたが、また同じ音がつづいた。ドップラー効果もない。墓石がわずかに明るくなった。ヘッドライトらしき人工的な光の筋が見える。森の内が慌ただしくざわついたが、何をしてよいのかわからない。とりあえず、
「マヤさんのご主人、動けますか?」
と訊いた。返事はない。
「肩、貸しますね」
森は背後から満男の脇に両手を差し入れ、体を持ち上げようとした。が、岩に根を張ったかのようにびくともしなかった。何度試しても無駄だった。最後に持ち上げようとしたとき、「やめろや!」という憎々しげな関西弁の叫びがすぐ耳元で森の鼓膜を痛めつけた。彼は仰天して両手を素早く引っこめた。満男はそのままバランスを崩し、肩から敷石の上に転げ落ちた。足音が入り乱れて近づいてきた。
最後に満男といっしょだった森は、参考人として警察から事情を聞かれた。岩から転げたときにできた側頭部の打撲について特に詳しく質問された。記憶している通りに話そうとも思ったが、とうてい理解されない、いやむしろ誤解の種にもなりそうだったから、迎えが来たため体を担ぎ上げようとしたら、重くて手を滑らせてしまった、とだけ説明した。最期に「やめろや!」と突然断末魔の叫び声をあげたなどと言って妙な嫌疑をかけられたらたまらない。その時刻にはほとんど死んでいて、直接の死因はあくまで蛇の毒だという検死結果がまもなく出て、森の警戒心は杞憂に終わった。しかし得体の知れない罪悪感はきれいに拭い去れなかった。
享年四〇。森も葬儀に出た。女性の参列者が多かった。女装している参列者も一人いたが、だれもそのことには触れなかった。参列したものの彼は、どんな顔をすればいいのかわからなかった。ほとんど初対面で、しかも、みなは「志なかばで惜しくも逝かれた」という上手な言い方をするが森は、満男は少なくともこの世の人生は棒に振ったのだしそれを自業自得だと感じている。感情の動きに意識をこらせばこらすほど、悲しみは見つからない。周囲の湿っぽい感じが多少なりとも伝染するくらいだ。なにより、考えるほどに、自分が内心満男の死を望んでいたのが実現したのではないかという考えに囚われ始めるのだった。放蕩をきわめた元夫を恨み、火事で焼け死んでしまえと呪い続けた女の願いがそっくりそのまま実現したという実話を聞いたことがあった。あの、「やめろや!」という叫びは、自分の本心に向けられた痛罵だったのではないか。焼香を待ちながら森は思い巡らせた。淵が霊柩車に乗り込むのを見届け、葬儀場を出た。火葬場には行かなかった。満男のような綺麗な顔が焼かれるのは痛ましくて、見たくなかった。溝口と水落はそのまま火葬場へ向かった。
淵はしばらく練習を休んだが、一週間もすると姿を見せた。いくらか痩せていた。森は、わざわざ話しかければ不自然な慰めの言葉をかけてしまいそうだったから、必要がないかぎり淵に話しかけないでいた。それに、彼女の悲しみがどれほどのものであれ、自分はいっしょになって悲しめない、それが非情さとして伝わるのが怖くもあった。
練習前、森が朝、楽団の小さな事務所の書棚でブルックナーの交響曲の楽譜を探していると、淵が入ってきた。あ、ちょうど良かった、と靴を脱ぐなり、彼女も楽譜を探し始めた。そしてすぐに水色の表紙の冊子を指で引き抜くと言った。
「畑中くんと間さん、両方オッケーだってさ。ちょっと、嘘ついちゃったけど」
彼女が手に持っているキーホルダーについた鍵が、動きに合わせてじゃらじゃら鳴る。淵は楽譜の表紙を、返事をしない彼の鼻つらに押し付けた。そこには、
Wolfgang Amadeus Mozart
Complete String Quartet
と印字してあった。
「……あの、もう、いいんですか?」
「いつ私がよくなかったっていうわけ。心配してんの?」
「ええ、だって、それなりには」
「大丈夫よ、夫の一人や二人」
さすがにちょっと言うのがたいへんそうだった。
満男が例の墓地で死んだことはもう誰もが知っていた。だから、畑中と間にはただ、その墓地でいっしょにモーツァルトの弦楽四重奏曲を演奏したいんだけど、メンバーが足りないから助けてほしい、と頼むだけでよかった。じっさいの時系列は逆だけど、そのほうが断りづらいでしょ。「あの人たちには内緒よ」と淵はいたずらっぽく囁いた。
淵はコピー機の電源を入れながら、
「ファーストがいい? セカンドがいい?」
と森に訊いた。
「畑中さんは」
「きっとファーストがいいって言うに決まってる。目立ちたがり屋だから。じゃあ、癪にさわるし森くんファーストね」
目立ちたがり屋。たしかに、案外。畑中をそう評したのは淵が初めてだった。夏に小学校で弾いた『チャルダッシュ』は、ただ目立ちたかっただけなのかと森の腑に落ちた。
淵が楽譜をコピーし、森が製本にかかった。が、森の両面テープの貼り方があまりに雑すぎて途中で交代になった。パート譜を四部作り終えると、二人はいっしょに事務所を出た。淵は森をその日の夕食に誘った。森も、いずれはと希望していたがあまりに急で戸惑った。もちろん誘いは受けるしかない。練習後、森が車で迎えに行くと、淵は鶯色のワンピースに着替え、ガレージの前で待っていた。赤っぽい宝石のついたネックレスと服の色がよく合っていた。だが張り切りすぎではないかと、自分のなりと比べて森は思った。ジーンズに衿の伸びた茶色い長袖シャツ。レストランに着いてみると、森は自分の服装のほうが不自然だと悟った。店は島の東側の高台の住宅地に紛れてあり、森は理由もなく大衆食堂のようなものを思い浮かべていたが、静かな雰囲気の、小さな店だった。店内は構えが小さい分賑やかに見える。ドレスコードはなかったが、目に付く客みな、それなりに正装に近い格好をしていた。給仕係が二人を、市街地を見下ろせるテーブルに案内する。街明りはまばらで、船の漁火だと言われれば信じてしまいそうだ。乏しい光を励ますように、まだ十月というのに、窓のそばに植えてある木に巻きつけられた青や黄色や緑の電飾が瞬いていた。森はそれを目にすると、満男が死ぬ前に色が見えると言ったことを思い出した、あの世は極彩色なのかもしれない。じきに給仕係がやってきて、両手で抱えられる大きさの黒板を持ってきた。そこからコースを選ぶように、日々の反復によって削ぎ落とされた、抑揚と無駄のない声で言う。森はメインに白身魚を、淵は鴨肉を選んだ。彼女は自分で数ある銘柄から赤ワインを選んだ。
「霊感ってある?」と淵が最初の一口を飲みながら言った。
「いや、ないですけど。マヤさんは?」
「全然」
淵の返事はそっけなかった。しばらく二人は窓の外に目をやった。
「あ、でも、小さい頃は見えましたよ、死んだひいばあちゃんとか犬とかインコとか」
「え、すごい」
「でも今はぼくも全然。昔は怖がりで、幽霊とかおばけをほんとに信じて怖がってましたけど、なんか感覚が鈍ってきたのか、そういう恐怖ってないんです。人間のほうが怖いくらいで」
「ふっ、言えてるかも。オーナーとかね」
「クズですか」
「クズとは呼ばないわ」
料理が来て、真っ白なテーブルの上が鮮やかになった。二人は前菜を黙々と食べ、スープを飲みながらパンをちぎって食べた。森はいざ食べ始めると、かえって空腹になった気がした。メインの鴨肉と魚は、パン用の皿に取り分けて二人で交換した。そのあたりから、会話が滑らかに進み始めた。面と向かって音楽の好みについて話し合ったのもこの時が初めてだった。満男のことに触れないでおこうと努めると、しぜんと音楽の話題がふえた。
淵はストラヴィンスキーのヴァイオリン協奏曲が宇宙的で好きだと明かした。森は聴いたことがなかったので聴いたことがないと答え、自分は今更だがバッハが大好きだと付け加えた。空気の澄んだ広々とした風景を遠くまで見渡しているような感じがして。言いながら、淵の家の音楽室に飾ってあった小さな風景画を思い出していた。淵はなぜか笑いたそうに口をもぞもぞさせていた。
「ごめんね……そりゃ私だってバッハは好きだよ。『無伴奏チェロ組曲』なんて、中学の頃からずっと憧れてるもん。だってさ、好きな飲み物訊かれて、『水』って答えるようなものだよ。ついおかしくなっちゃって」
淵は人差し指で涙を拭う。森は憮然として、すでに淵が酔っ払っていないかどうかを検査する。バッハが「水」だというのはわからないではなかったが、分かり易さの中にも、独特の鉱物が溶け込んでいると森は思ったが、また笑われそうで口にはしなかった。
「初めて聴く曲でも聴けばバッハってわかる。あれは何なんでしょう」
淵は真顔になり、「対位法」とか「和声」とか「対称性」という言葉を使い、バッハの手癖の説明を熱心に始めた。森はどうにかこうにか理解できたがついていくのがやっとだった。淵の口調からは、ほんとうに音楽が好きな気持ちが伝わってくる。
料理の皿が一通り片づいた頃、
「でもどうしてモーツァルトの『不協和音』なんですか?」
森はずっと訊こうと思っていたことを尋ねた。
「さっきの話とつながってる?」
「あ、いえ。自分の中では繋がってるんですが」
「夢の選曲に理由なんてあるのかしらね」
父親のコレクションの中から、私が初めて選んで聴いた曲だったの。中学校に入ったばかりの頃、音楽の授業の夏休みの宿題で、自由に一曲選んで聴いた感想を書いてくるように言われた。その時に父の棚から目をつぶって引き抜いたのがそのレコードだったの。私ね、あれを聴いたとき、人生ではじめて、「一人ぼっちだなあ」って自覚したの。ううん、私だけじゃなくて、人間みんな一人ぼっちなんだ、っていうすごい真理を悟った感じがきた。それ以来、頭の中で好きな楽節を再生できるくらい繰り返し聴いている。ふふ、私の人生のテーマ曲? バイブルなの。
ぼくが初めて聴いたのはもっと遅く、高校生の時。背伸びして調性のない音楽を聴いていた頃のこと。ジョン・ケージ、武満徹、ブーレーズ、メシアン、シュトックハウゼン、クセナキス、シェーンベルク、ヴァレーズ、シュニトケ……でもやっぱり、ライヒやテリー・ライリーとかのミニマルミュージックのほうが聴きやすくて。ピアノをやっていたら、もっと曲の構造とか作曲者の意図とかにも興味が湧いていたかもしれない。でも旋律がなくて構造だけの音楽というのは、難しい数式を眺めているみたいで、のめり込むことができなかった。それでだんだん、インド音楽とか、ジプシー音楽とか、タンゴなんかにも興味が目移りしたりしていた時期に、風邪をひいて学校を休んだ朝テレビを見ていたら、「不協和音」と出会った。
「へえ、現代音楽聴くの。演奏するのは楽しいけど、聴くのはちょっとね。夫が聴いてたんだけどさ、あの人もね、楽器弾けないくせにやけに知識はあったな。男はやっぱり名前とか理屈から入るのね。あの人のCD、たくさんあるから持ってく?」
「ほんとですか」
「いいわよ。どうせ要らないし」
森はすごく嬉しかったが、淵の無理している感じがいやだった。
「ひとりは、つらくないですか?」
わざと森は淵に訊いてみた。
「愚問ね。さっきも言ったように、さびしさが私の基本だから」
「わかりますよ、でもさびしさって『諸行無常』みたいに穏やかな感じですけど、喪失感というのはもっと、なんというか、深い穴のようなものじゃ……」
(こないださ)と淵がふいに不敵な笑みを浮かべ、椅子から腰を浮かせてテーブルに身を乗り出してきた。森は片耳を彼女の口元に近づけた。
(乱交パーティーに行ってみたの)
「え?」と森が言うと淵は口の端に笑くぼをつくり、バッグから携帯電話を取り出すと、Googleの検索画面に〈乱交パーティー〉と打ち込んで見せた。「もちろん、島の外にね」
森はそういうアイデアが存在しているらしいということは聞き知っていたが、まさかほんとうに巷間で実践されているとは、まだ信じられなかった。
「一度行ってみたいと思ってたんだ。夫が生きていれば、一生行くことはなかったと思う」
「あの……どんなことを、するんです」
森は恐々と尋ねる。
「だから、いろんな人と……するのよ。私が行ったのはわりとノーマルで、異性どうしでしかしちゃいけなかったんだけど」
「十分アブノーマルだと思いますけど」
自分で訊いておきながら森は、だんだんと腹立たしくなってきた。いくら無口だからといって、どうして他人には言えないような話ばかりしてくるのか。自分が絶対に口外しないとでも思い込んでいるのか。これは信頼なんかではない、みくびっているのだ。やっぱり、秘密をぶちまけるための便利な穴にすぎないのだ。
「もしぼくが言いふらしたらどうするんですか」
「面倒なことになるわね。『未亡人が夫の四十九日も済ませないうちに淫らなパーティーに参加』」隣のテーブルにいた若い女性のひとりが振り向いて淵を見た。「でも、人類の存亡を危うくさせるような戦争が始まるわけでもないのよ。ダメ、私酔ってきた」
デザートのパンナコッタを残して店を出ることにした。
家の前に到着するまで、淵は助手席でこんこんと眠り続けた。森が呼んでも肩を揺すっても、目を覚まさなかった。彼女は無防備に白い首筋を見せて眠っていた。森は途中コンビニに寄り、ペットボトルの水を買った。首筋に青い血管が浮いている。森は発車し、しばらく道路を闇雲に走り回った。「誘拐」という言葉が頭に浮かび、自分の愚行を苦笑するしかなかった。だがやめるにやめられなかった。このまま眠り続けてくれないかと、倒錯した欲求まで湧いてくるのだった。いくつの赤信号で停まっただろうか、森はとうとう運転席から助手席に身を乗り出し、淵の首筋にこっそりと唇を付けた。
しばらくして目を覚ました淵は森に居場所を尋ね、帰り道の案内を始めた。レストランを出てから一時間は経っていたが、彼女にとってはまだ十分程度のことだった。あとさらに十分もすれば家に着くことになっている。腕時計を見て、めずらしく今日は道が混んでたのね、と淵は不思議がった。
淵の家の前に着くと、藪の中へ続く坂道を指差し、「上って」と淵は寝ぼけた声で言った。「ガレージ、空いてないの」森は言われるがまま、L字になった真っ暗な道を上っていった。上りきったところにある民家の角を左折し、しばらく直進すると、淵が停まるように言う。よく見てみると、そこは、以前来た庭だった。庭の葡萄棚の裏が、駐車スペースになっているのだった。森は、駐車場に車を入れるまでの間、「はあ」「ああ」以外声を発さなかった。葡萄の房の、影だけが間近に見えた。
三階から中に入るのは初めてだった。二人は黙って二階へ下り、リビングでコーヒーを飲んだ。森は何か言おうと思ったが、息があがってできなかった。夜の竹藪は巨大な黒い塊となり、月の光を受けて寒々と光っていた。ゆっくりと呼吸をしているように見えた。淵はリビングから毎晩、一人でこれを見ているのだろうかと考えると、彼女という人間への理解が、遠ざかっていくような気がする。森は、自分の中でここまでは言ってもいいと決めている限界を押し広げ、彼女を捕まえたくなる。
「すいません。さっき、気づいてました?」と森はかすれた声で訊いた。
「なんのこと?」
「マヤさんが眠ってる間に……」
「ふふ、馬鹿正直よね。やっぱり、夢じゃなかったのか」
二人は三階に戻って共にシャワーを浴びたあと、かつての夫婦の寝室へ向かった。室内はリビングと同じように整理整頓されていた。満男が死んだからかどうかはわからなかった。まるで自分が来ることを彼女が予期していたかのようにも森には感じられた。それが錯覚だと思うと、今ここにいる自分があまたいる男たちの影のようにも思われた。
夜が明けていくまでは長くて短く、短くて長かった。時間が呼吸し、伸び縮みしているかのようだ。森は淵と何度が交わっては、その合間に話をした。眠くてしかたがなかったが、彼女の存在を横に感じると眠られなかった。自分もまた今夜の慰めにすぎないのかという意味の言葉を口走ったことを、彼はいくらか後悔しながら思い出した。淵は憮然として声色を変え、私、オケの団員とは寝ないつもりだったの、と言った。そのあと、一時間か一分かが過ぎたあと、彼女が森に奇妙な提案をした、あれは現実だったのか、と森は首を傾げた。交わりながら、私に子どもを授けて、と彼女はこれもあらかじめ準備された台詞のように改まって口にした。子どもが欲しいの。なるべく早く。出産適齢期はとっくに過ぎてるから。森くんの子ども、とは言わなかった。彼ははじめ、満男が死んでまだ間もないにもかかわらず、それが結婚の奇妙な申し込みだと勘違いした。ぼくもいっしょにその子を育てるってことです、よね? 森は遠回しに訊いた。ううん、それはどっちでもいいの。でも森くんの子ならなおさら嬉しい。その子とこの家で暮らすの。ぼくじゃ役不足ですか? 森が冗談まじり、嫉妬まじりに訊いた。その様子が滑稽だったのか、淵は声をたてて笑った。彼女が笑うと朝が間違って来たみたいだった。彼女は体の向きを森に向け直すと、彼の目を直視しながら、森くんはいずれいなくなるから、と断言した。どこから? マヤさんの目の前から? この島から? この国から? この世から? ううん、ただ感じるの。夫が死ぬだなんてまったく予期できなかった。生き続けるとうっかり信じ切っていた。森くんはいつだって「ここ」から離れる準備ができている。べつに非難しているわけじゃないの。死ぬよりか、いなくなったほうがましなの。とにかくあなたはどこか遠い所にいる。いいの、それで。