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美女?と野獣の異世界建国戦記  作者: とりあえず
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邪悪は熊を飲み込んで

「よかった。これで全員見つけられましたね。姫様に仇なす愚物を、ようやく全員始末することができます」


 狼の形をした邪悪は冷徹な顔にわずかな安堵を混ぜた。その姿に汚れ一つなく、戦場で会うには異様ともいえるきれいな執事服が異質さを際立たせていた。


 だが、ツキガスが息をのんだのはその異質さのせいだけではない。


 狼からはこの世のものとは思えないほどの威圧感が噴き出しており、思わず目をそらしたくなるような濁りが見えているのだ。

 死ぬだけでは生ぬるい。死してなお魂が汚れてしまうような。自分という存在が黒く上書きされてしまうような。


 人が触れていいものでは決してない。近づくだけでも吐き気がこみあげてくる。


 生き物すべての害悪者。

 今のヴァルデックはそういう存在だ。


 それでもツキガスは気丈にヴァルを睨み返す。逃げたくなる本能を必死に押さえつけ、足の震えを止める。

 逃げてしまえばおそらくあっさりと殺される。ツキガスはそれを理解していた。


「ここでおしまいか……せっかく勝ったんだがなあ……」


 ようやくハウゼンに勝ったというのに、これでは意味などなかった。ツキガスは急な脱力感に襲われて、危うく腰が抜けそうになってしまった。


(こいつ相手ではおれの全軍をぶつけても駄目だろな。さすがに全員をおれのわがままに付き合わせられねえ)


 あまりの力量差に当てられて、ツキガスは逆に冷静さを取り戻す。自分の軍が蹂躙されるくらいなら、おとなしく降参するしかない。


(あと、少しだったんだ……)


 あの姫君に手が届く一歩前。そこでツキガスは邪悪に捕まってしまった。

 歯がゆい思いをしながら、立ちはだかる壁の高さに何もできない。

 自分のふがいなさを嘆いても、現実は変わらない。


 だけど降参する前に、ツキガスには聞いておきたいことがある。


「なあ、全員って言ったよな。他の奴らは、どうなったんだ?」


 なぜそれを今聞いてしまったのか、ツキガスは少し後悔した。まだ見ぬ彼の同僚が今どうしているのか、気になって仕方なかったがゆえに口が勝手に動いてしまった。


 敵意がないことを感じたヴァルが顎に手を当てて考え込む。ここで殺すべきか降参させるべきか、悩んでいるのだろう。早く姫君の下に行きたいのは、向こうも同じなはずだ。

 それでもその程度の情報は与えても大丈夫だと判断したのだろう。狼は端正な顔から現状を告知する。


「他、ですか。確かレートビィが仕留めたのが一匹。ホリークが仕留めたのが一匹。姫様のところに一匹。そしてここに一匹。こんなところですね」

「そう……か」


 ヴァルの言葉はツキガスに衝撃を与え、考えたくもない現実を突きつけた。姫君のところにはオルワルトしかいない。つまり、残りの二人は――


(ああ、なんだ。ヒベクリフ、お前……死んでたのか……)


 どおりで来ないと思っていた。こんな化け物を前にしては、誰だって勝てやしないだろう。

 せめて逃げていてくれればいいと希望を持っていたのに、それも今打ち砕かれた。


 あのヒベクリフが死んだ。数々の回復スキルと自己強化スキルを積んだ死にぞこない将軍と揶揄される彼が。

 ヒベクリフはツキガスより強かったはずだ。だとしたら、今ここでツキガスが立っていられるのは運がよかっただけなのだろう。


 嘘の可能性を信じたい。だけど、ヴァルとの圧倒的な差を見せつけられてしまえば納得せざるを得ない。この狼の手にかかれば、ヒベクリフですら赤子の手をひねるよりたやすいだろうから。

 嘘だと断言する自分と受け入れて呆然とする自分に分かれ、葛藤が止まらない。


(頼むから、嘘だって言ってくれよ……ああ、くそ、なんておれは情けないんだ)


 敵の情報で踊らされるなんて、将軍としてふがいない失態だ。

 だけどそれでも、その可能性に思い至ってしまうと冷静さが消えていってしまう。


 聞くべきではなかった。感情がこんなにも高ぶってしまうなら、知らない方がよかった。


(おれは将軍だ。おれの肩には兵士が乗っている……)


 彼は真面目にそれをきちんと把握している。ヴァル相手では全滅してしまうなら、降参するしかないだろうということも。


 だが、だが。


 疲れた体に鞭うって、ツキガスは槍を構えなおす。自分のしていることが悪手だと分かっていても、感情が止まらなかった。


 もっと触らせてやればよかった。嫌がらずにもふらせてやるべきだった。第五席でのストレスに苛まれながら、いつもツキガスのことを気にかけてくれていたのに。


(ごめんなヒベクリフ。おれ、お前に何もできなかった……)


 迷惑をかけてばかりの後輩だった。全然素直じゃない友人だった。


 どんなに謝っても、もう届かないのに。


 ここが戦場でなかったら、ツキガスは大声で泣いていただろう。わき目もふらずに泣き叫んで、その死を悼んでいたはずだ。

 だけどここは戦場であり、戦争の真っただ中だ。穂先をヴァルに向けるツキガスの目からボロボロ雫がこぼれても、声だけは噛み殺す。


 彼は将軍として、せめて声だけは殺そうと唇を強く噛む。穂先がわずかに震えており、彼の動揺を表しているようだ。


『ツキガスちゃんは、自分のことだけ考えてればいいから』


 それはいつだったか、ヒベクリフがツキガスに向けて言った言葉だった。まだまだ未熟な後輩に向けて、何があっても心配しなくていいと慰めてくれた先輩の言葉。


 自分のことだけを考えたなら、ここはもう降参の一手だろう。

 そんなことはわかっている。わかっているけれど。


(だけどお前を殺されて、自分のことだけ考えられるわけねえだろうが!)


 一矢報いなければならない。そうでなければヒベクリフは何のために死んだ。


 強固な義務感がツキガスの中に芽生え、涙目に憎悪がともる。殺気を向けられたヴァルは何も変わらず、ただただ見下すような目線を送り続けているだけ。


(勝つ! こいつをまいて、オルワルト先輩と合流する! おれの速さについてこられるわけがないんだ、その間に姫様をいただいて戦争を終わらせる!)


 ヒベクリフが天国で聞いたら、確実に怒るだろう。そんなことはわかっている。

 けれどもツキガスは止まらない。いや、止められないのだ。


 自分の中に芽生えた様々な感情が混ざり合って、すでに単一の思考を保っていられない。悲喜交々とした感情にほんろうされて、かろうじて立っている状態だ。

 将軍として駄目なことも理解してもなお、感情が従ってくれない。ヒベクリフの笑顔ばかりがちらついて、がむしゃらに手を伸ばしてしまう。


「それに、ここでおれが降参したら……オルワルト先輩は……」


 ヒベクリフと同じ道をたどり、もう二度と会えなくなってしまう。


「そんなこと、させて、たまるかよ……!」


 ぎりりと歯を噛み締めて、涙を強引にぬぐい去る。爆発スキルで二度も自爆したせいで顔がすすけていたが、ヴァルの威圧感に負けない決意がにじみ出ていた。


 自分は弱い。だけど、守りたいものがある。つかみたいものがある。


 それなら、ここで立ち上がらないといけないだろう。


 あの狼には絶対勝てない。ツキガスはそれを受け入れる。

 だが戦争には勝ってみせる。その決意を胸に、熊は瞬時に踵を返した。


 加速を。あの狼が追い付けないほどの速さを! さっき得た最上級の素早さを!


 ツキガスは自身の体が発している悲鳴を押さえつけ、またも神の領域手前に手を伸ばす。


「『時間よ止まれ。(プロスタラ)おれはお前を(・ビザン・)置いていく(アッシェルタ)』!」


 時間が遅くなる感覚がして、ツキガスは成功を確信した。

 確実に進化していく彼の才能は決意に応えた。これで誰も彼には追い付けない。誰よりも早く戦場を駆け抜け、あの姫君の下へ。


 音すら置き去りにしていく速さを体感し、ツキガスは一歩を踏み出した。短い脚に力を込めて、あとは跳ぶだけ。


 体が悲鳴を上げている。いかに獣人の屈強な体でも、二度の最上級スキルには耐えられないと叫んでいる。


(戦争が終わるまででいいんだ! ヒベクリフ、お前の頑丈さを少しでも、少しでもおれに貸してくれ……!)


 体が壊れていく確かな感覚に危機感を抱きながらも、あきらめるという選択肢は放棄している。


 必ず勝つという信念が、彼の才能を上のステージに押し上げる。今のツキガスは、ビストマルトでもさぞや輝けることだろう。


 そんなツキガスは思いもよらなかったに違いない。


 まさか、この圧縮された時間に順応する生物がいるだなんて。


「こざかしい真似を」


 耳元で寒気がするような声がしたと思ったら、ツキガスはこけていた。


「は?」


 呆けた声を出して、ツキガスは地面を滑っていく。圧倒的加速によって出された初速が殺され、鎧と地面の摩擦で火花が散った。


「あがっ! ぐがあぁ!」


 鎧の中で熊の体躯が何度もぶつかった。身を守るはずの鎧に幾多ものあざを作られ、体は壊れる寸前だ。


 ようやく止まったころには、ツキガスは全身が汚れた無残な姿になっていた。


「い、いったい、何が……?」


 毛皮を土埃で汚したツキガスは、うめくようにつぶやいた。その声音には、信じられないという感情が多分に含まれている。

 最上級の加速スキルを使ったはずだ。そんな彼に追いつける存在なんてビストマルトでもごくわずか、ましてや追いついてこかすなど、誰もできないに違いないのに。


 相棒の槍だけはどうにか手放していないようだが、もはやこれを振るう力が残っているのかどうか。それでもツキガスはぐっと槍を握るのだ。


 すでに立つことさえままならないツキガスではあるが、何とか立ち上がる。もはや意地だけで体を動かしており、気を抜いてしまえばすぐに意識を失ってしまうだろう。


 かすれる視界で確認すると、先ほどまでツキガスがいた場所には狼がすました顔で立っていた。

 あの狼は、最上級の加速をしたツキガスに平然とした顔で追いついたのか。そして、防御力などなさそうな執事服で、鎧姿のツキガスをこかしたと。そんなことがあり得ていいのだろうか。


 ヴァルは先ほどからの見下す視線のまま、ツキガスに歩み寄る。悠然と、気負いなく。まるで道端に落ちたごみを拾いに行くような気軽さで。


「逃がしてしまっては姫様のご迷惑になります。ごみ掃除も私の仕事ですので、おとなしくしていてくださいね」


 最上級スキルにあっさり追いつけるだけの力を持つ狼は、逃がす気などないと告げている。


 逃げられない、もはやツキガスはそれを本能で悟ってしまった。


 ここで心が折れなかったことを称賛するべきだろう。おとなしくしていれば、楽に死ねる状況だ。それでも、ツキガスはあきらめられない。ここであきらめられるほど、潔い性格をしていないのだ。


 もはや満足に力も入らなくなった手で槍を構え、ツキガスはヴァルを睨む。息は荒く毛皮は乱れ、最上級どころか上級スキルすら満足に使えないほど憔悴している。

 どうあがいても絶望しかなく、打開策は浮かばない。万策尽きた状態で、睨むだけしかできていない。


 この瞬間に、ツキガスは自分の死を確信した。


(オルワルト先輩、どうか、どうかご武運を。ヒベクリフ、おれもすぐにそっちに行こう。もし会えたなら、少しくらいは、まあ、もふらせてやってもいいからな)


 死にゆく体に鞭を打て。少しでもあがくのだ。


 ツキガスは最後に一度深呼吸をして、槍を握りなおす。


 勝てる可能性なんて万に一つもない。そんなことは十分承知している。


(けどヒベクリフ(あいつ)なら絶対こうする。勝てないと分かっていても、死ぬと分かっていても)


 展開するは本日三度目の最上級スキル。発動したとたんに体が灰になって崩れてもおかしくない。それでもそれで時間が稼げるのなら。この戦場で唯一残っている先輩の役に立てるのなら。


 ためらう理由など、何もない。


 ツキガスが考えていた通り、彼の行動はヒベクリフと全く同じだった。

 命を賭して、誰かの道を切り開く。彼らの理念はまさしく崇高と言えるだろう。


(ヒベクリフ、おれはお前の後輩として、その心に従おう。その背中を追って、おれは殉じよう)


 後悔も絶望も追い払い、ツキガスはヴァルデックを鋭く見据える。その眼にはもう、涙はない。


 ビストマルト第15軍将軍、サウステン=ツキガス、彼の命を賭した特攻を今ここに。


「『時間よ止まれ。(プロスタラ)おれはお前を(・ビザン)』――――」

「『病状酌量の余地はないシックオータムコロシウム』」


 いつの間にそばに来ていたのか。それすらもわからないままツキガスは詠唱を打ち切られた。ずっと見ていたはずなのに、消えたことにも気づかなかった。

 こかされたのも納得の速さ。無詠唱でこの速度を前にしては、ツキガスの最上級など止まって見えるのだろう。


 即死魔法をかけられて、すっと意識が遠くなる。命の灯が無遠慮に消されていくのを感じる。視界一面に端正な黒狼の顔を映して、ツキガスの意識が薄れていく。


(そうか、おれはここで死ぬのか……)


 なしたことは何もなかった。友を失い、目的すら果たせず、足止めにすらならないままに、ツキガスはここで死んでいく。


(シルク先輩、申し訳ありません。自分は、やはり、未熟者でした……)


 脳裏を流れるのは数々の走馬灯。ヒベクリフもオルワルトも笑顔でいる世界が、ツキガスは大好きだった。大好きだったのだ。


 出せるものはすべて出した。後悔が浮かんでは消える中、ツキガスの体は力を失い崩れていく。


(オレナ、オレナ……またお前を置いていくことになって、すまないと思う)


 二度と置いていかないと決めたのに、自分は、帰ってくるつもりだったのに。


 自分も死んだとなれば、ヒベクリフに怒られそうだ。せめて、残った先輩の無事をともに祈ろう。その時は、好きなだけ触ってくれ。


 死ぬときはもっと悔恨に満ちたものだと思っていた。死にたくないと、泣き叫ぶに違いないと、軍人としてそれを覚悟してきたつもりだった。


(どうして、おれは、他人のことばっかり……)


 ツキガスもヒベクリフもいなくなったら、シルクはどう思うだろう。オレナは悲しむのかもしれない。それに、彼女はこのまま進んでしまうのだろうか。


 そんなことばかりが頭に浮かぶ。自分がいなくなった世界が、平和でありますようにと。


 視界もかすみ、世界が薄れていく。遅々とした、しかし確実な死に飲まれてツキガスはその生涯を終える。


 最後の刹那、文字通り死ぬ間際の一瞬。


 それは鮮やかな色でツキガスの目に飛び込んできた。


 透き通るような白色。ツキガスが焦がれてたまらなかった、彼女の姿。


(ああ……)


 この戦争を通してさらにきれいになった彼女の顔は、なぜか泣きそうになっていた。

 自分のために泣くだなんて、おそらくこれは自分の妄想なのだろう。ツキガスは自虐的にそれを受け入れた。


 だが、妄想であれ最後に見られたのが彼女の姿なら悪くない。ツキガスは彼女の今後の無事を祈り、そして目を閉じる。


(このサウステン=ツキガス。貴方様のことを、愛して、おりました……)


 完全に地に伏したビストマルト第15軍将軍、サウステン=ツキガス。


 彼の生涯はここで静かに幕を閉じたのだ。

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