*少し休ませてほしい
ビーグロウを追いやって、ようやくしばしの平穏が戻ってきた。もちろん外に行けば二国の兵がにらみあっているという現状は、まったく胃に優しくはないのだけど、少なくとも結界内は平穏が保たれている。
おれは自室でぼんやりと外を眺めていた。戦争間近ということもあって、備蓄や避難経路の確保に駆け回る人々で騒然と浮足立っている。
これがおれらの引き起こしたことなのだと思うと、ああ、やはり胸が痛い。おれの決断一つで、町がここまで騒がしくなってしまった。
無気力に垂れ下がる白髪が煩わしいくらいに美麗な輝きを見せる。いまやすっかりなじんでしまった女としての一部を見て、おれは何とも思わない自分に嫌気がさす。
男に戻りたいと思っていたはずなのにそれどころではなくなって、気が付いたらことが大きくなっていた。おれが玉座に君臨することになったら、きっと気軽に性別なんて変えられない。この国の象徴として、おれは一身に視線を受けることになる。
ため息を一つついて、白銀の髪がたなびいた。おれが女であることに慣れてきたように、きっと、王様であることにも慣れてくるのだろう。そうでないと困る。そうでなければ、おれはみんなを不幸にする。
「姫様ーいるかー?」
「ああ、ハンテル、珍しいな。結界の整備は終わったのか?」
「うんにゃー、まだちょっとばかしかかるな。なにせ結界が大きいからな。バランス調整も大変さ。ここには休憩にきたんだ」
緩んだ顔でいけしゃあしゃあとのたまって、虎は我が物顔で部屋を闊歩する。言わずとも顔には撫でてほしいと書いてあり、おれに癒しを求めているのが明白だ。
と、そこでおれの後ろにヴァルが控えていることに気づいたのか、ぎょっとネコ科の双眼を開いてわかりやすく驚きを現した。この虎は何かにつけて怒られており、今回もなでなでの報酬を怒られると思ったのだろう。
しかし、ヴァルは何も言わず、ハンテルを無機的な目で視界に映すだけ。これには大きな虎もはてなと思い、あたりをきょろきょろと見回していぶかし気に尻尾をくねらせる。
「どうしたんだヴァル。具合でも悪いのか?」
「いや、そういうわけではないのだが……」
「珍しく歯切れが悪いな。ははあん、さては姫様と喧嘩でもしたか? この前の虐殺で怒られたんだろ」
「……」
「え、まじで?」
まさかの冗談が的中してしまい、虎はあんぐりと口を開ける。見ていて面白いくらい表情がころころ変わるやつだが、あいにくこっちはそんな気分じゃない。
だけど別に喧嘩したというわけではない。ただ、ヴァルとどう接していいか戸惑ってしまい、ぎこちない空気が流れるようになっただけだ。ヴァルは変わらずおれに忠誠を誓ってくれているし、何も変わってなどいない。
変わったのはおれの方だ。死を象徴するような狼の重みがおれに乗っているようで、そこから逃げるように避けてしまうんだ。
おれのためにしてくれたのはわかっている。この狼はいつも最善を尽くしておれにささげてくれた。
感情に疎い狼には自分の不手際が分からない。そりゃそうだろう、何もへまなどしていないのだから。
ただ、おれが勝手につぶされそうになっているだけ。
さすがにハンテルにはおおよそのことがわかったのだろう、こいつは機転が利くし感情に疎いわけでもないのだから。
「あー、あー……なるほど。じゃあちょーっとだけ席外してもらっていいかヴァル」
「承知した……姫様のことをよろしく頼む」
「あいあいさー」
こんなに素直にハンテルの言うことを聞くなんて、ヴァルにも思うところがあったのだろうか。だとしたら申し訳なくなって、おれがまた一人で勝手に落ち込む。
ヴァルは音もなく部屋から出て行って、部屋の空気が少し軽くなる。
……こんなことを思う自分がとても汚く感じて、おれは目を伏せてしまう。透き通った頭髪が庇護されているくせに何を偉そうにと、そう責めているような気さえする。
そんな空気を感じながらもハンテルはにこりと笑みを形作り、暗鬱とした気分を追い出そうと明るい声を出してくれた。
「この部屋には今、おれと姫様の二人しかいないってことだな」
「……嫌な言い方するなあ」
完全に襲い掛かるくずのセリフだぞそれ。
苦笑が浮かぶが、笑みは笑み。心がわずかに晴れ渡る。
「んで、姫様はいいのか?」
「え、どういうこと?」
「いや、いつもなら自分にも仕事させろ! っておれらと正面衝突してるじゃん」
「……ああ、そうだね」
いつからだろうなあ。おれは何もしなくてもいいんじゃないかと思い始めたのは。戦闘を覚悟してから心は摩耗を続け、山場を繰り返すたびに疲れを感じ始めてきた。
ご入用ならいつでもお呼びくださいと執事二人に言われたって呼ぶ気にはなれず、すっかり冷めた紅茶が無機質に時間の流れを忍ばせる。
「向いてないんだよな」
さみしい音で漏れた言葉。何度も思ってきたことだ。おれに王は向いていない。
決断を下すのにもなれないし、何が最善かもわからない。右往左往してみんなを困らせているんじゃないかとすぐに不安になる。
これを乗り切ったとしても、おれは、果たしてやりきれるのだろうか。心がねを上げて、壊れるのが先なんじゃないだろうか。
人の死にも、主としても、少しずつ慣れてきたつもりだ。でもそれは、慣れてきたんじゃなくて、ただ感覚がマヒしただけなのかもしれない。考えることを放棄して、慣れたのだと思いたかっただけなのだろうか。
最近はそんなことばかりを考える。ダメなのはわかっているけど、急に異世界に呼ばれてあれよあれよという間にこんなところまで来たのだ。ちょっと感傷的になるくらいいいじゃないかと思いたい。
だけどこんなことをみんなに言って、失望されるのが怖い。羨望がなくなってしまうことがどうしようもなく恐ろしい。だからおれは、口角を上げるしかないんだ。
「すぐになれると思うから。心配かけさせてごめんな」
笑顔ならたくさん練習した。美少女の微笑みはいつでも完璧なはず。だから、大丈夫。
ハンテルは顎の下に手を置いて、考え事をした。そのあとすぐにあたりの様子をうかがって、ぐいっと近づいてきた。
「なあなあ姫様。おれは姫様のペットになりたいんだよ」
「……さんざん聞いた。字面的にどうしようもない趣味だと思うよ」
精悍な虎が牙をむいてにぃっと笑う。そして、おれの敬遠も意に返すことなく、この虎は。
おれを思いっきり抱きしめた。
「――――っ!」
顔面に当たるのはふかふかの毛皮。思ったより柔らかく、おひさまの匂いがする。優しくて、温かい、ハンテルの胸。
「どうだ姫様。いつ姫様に撫でられてもいいように、毎日きちんと手入れを欠かさずに整えた自慢の毛皮だ。おすすめは姫様が顔をうずめている胸な。ふっかふかでいい枕になりそうだろ?」
いきなりのことで何と答えていいものかわからない。気持ちがいいのは確かだが、それを正面切って言うには男としてのプライドが邪魔をする。
ハンテルは大きな体でおれを包み込むように抱きしめ、背中をとんとんとさすってくれる。ふわりとした毛皮に包まれて、そこには安らぎがあった。
「ペットっていうのはな、ご主人様に添い遂げるものだ。つらいときや悲しいときにそばによって慰めることができる。おれはそれにあこがれてるんだ」
「そうか……」
「姫様、疲れてるよな。みんなも心配してた。最近姫様の食が細いし、無理に笑ってるって」
「……なんだ、ばれてたのか、笑顔には自信あったんだけどなあ」
「当たり前だろ。おれらはみんな、姫様のためを思い、姫様のことを案じているんだ。見逃すはずもねえ」
思えば、こんな風に慰められるのなんていつ以来だろうか。おれはずっと敬われて接されてきた。慰められる時も、常に下からの忠誠に基づいていた。
ただこうして抱きしめられて、あやされて。寄りかかれる優しさに浸ったことなんてこの世界に来て初めてかもしれない。
それがとても心地よかったから、つい、感情が漏れてしまう。
「……不安なんだ。おれにできるかなって。おれのせいで、みんな不幸になるんじゃないかって」
せっかくの柔らかい毛皮を涙で湿らせてしまっても、吐露が止まらない。この世界に来てため込んでいたものが、一気にあふれてしまいそうになっている。
「この世界に来てさ、おれ、よくわからないことばかりで、一生懸命してきたつもりだけど、どんどんことが大きくなってくるし、みんなを巻き込んで……」
頬を撫でる毛皮がとても心地よい。お前、こんなに柔らかかったんだな。
「――――怖いんだ。どうしようもなく」
被毛にしみこむ本音がふわりと受け止められて、こぼれる涙を掬い取る。ハンテルは何も言わず、大きな手でおれの頭を撫でるだけ。
こんな世界に飛ばされただけでも恐ろしいのに、今ではおれが先頭に立って戦争を起こそうとしている。剣戟の音が嫌でも耳に反響し、来る未来の惨劇に苛まれてしまう。今まで自分を鼓舞して偽ってなんとかごまかしてきたけれど、膨れ上がった叫びは一国一城の重みに耐えきれず、押し出されてこぼれていく。
まるで地雷原の中で身動き取れずに泣きわめくようだ。どっちに進んだらいいかもわからずに被害だけを大きくしてしまった悔恨が、耳朶でつねに猜疑をささやいてやまない。お前にそれができるのかと、自分の声で。
ああ、できるわけがない。こちとらただの社会不適応者だぞ。社会のてっぺんに立つ資格も、能力も兼ね備えているわけないじゃないか。おれが右を選ぶか左を選ぶかで人の生き死にが決まる世界に、耐えられるほどの精神を持っていないんだ。
ハンテルの胸で吐き出した声音は、静かな部屋にしみわたって消えていく。先ほどから無言を貫いているこいつは一体どう思ったのだろうか。軽蔑したのだろうか、落胆したのだろうか。
でも、そうじゃないことは、撫でる手つきから容易にくみ取れる。それはとても柔らかく、あやすような勢いを変えることはなかった。
あまりにも優しいから、言うつもりのなかった言葉がどんどんあふれ出してくる。弱った心が泣き叫ぶように、吐き出してしまうんだ。
「ヴァルが悪くないのだってわかってる! みんなそうだ、ヴァルもビーグロウもハウゼンだって! みんな自分の利益を求めて動いてる! それが正しいと思ってる!」
毛皮にぶつけるように言葉を打ち出して、涙とともに吸い込まれていく。たまってよどんだ感情の奔流が、すべて毛皮が受け止めてくれる。
「あいつらはおれなんかよりずっと賢いから、それが正しいことなんだろう! でも、人が死んだ! 死んだんだ! おれのために、おれを生かすために!」
それがたまらなく恐ろしいことのように感じられて、おれは泣きじゃくらずにはいられなかった。屍の上で生きていく覚悟が、おれには全くない。無菌室のような安穏とした世界で育ったおれには、そんなもの必要なかったから。
「これからも、きっとそうなんだ。おれのために、たくさん死ぬ。それが国を動かすということなんだし、王様になるってことなんだろう。……おれにはできる気がしない。もう無理だ、嫌なんだ」
成り行きでするには重すぎる責務。責任を背負う覚悟もないやつに大役は務まらない。
わかっていてもどうすることもできなかった。おれらは強すぎて、世界にとって異物だから。自分の場所を作るにはこうするしかなったんだ。
それがわかっていても、駄目なんだ。もう帰りたい。すべて投げ出して、男に戻って引きこもりたい。退廃的な楽園に帰って、安らかに死にたい。
最近、そんなことばかり考える。おれが積極的に動かなくなったのも、疲れ果ててしまったからだ。
ひとしきり吐き出して、ハンテルの毛皮はさぞ重くなったことだろう。それでも虎は顔色一つ変えず、あやすようにおれの髪をなで続けてくれた。
「……でも」
そして、おれより数倍逞しい虎が、包み込むように喉を震わせる。
「でも、姫様はここにいる。逃げ出すこともせず、受け止めてどうにかしようとしている」
「それは……おれに逃げ場がないだけだから」
「そんなことねえだろ。おれらさえいれば、どこでだってやっていける。事実、建国だっておれらだけでやったことだ。姫様ご自慢の精鋭さえいれば、たいていのことは何とかなるんだよ。それでも、姫様はここにいるんだ」
逃げたいと思っていた。だが、行動には移さなかった。
他の選択肢が浮かばなかったくらい視野が狭い人間だったのか。いや、そうじゃない。他ならぬ自分が決めたことなんだ。居場所を得るために戦おうと、おれ自身が。
だとするならば、この現状も自業自得なのかもしれない。自分の手に余ることをわかっていながら、それでも突き進んだ結果が双肩にのしかかっている。この結果も、仕方のないことだった。
「仕方なくなんかねえよ。他の誰もがそう言っても、おれはそう思わない」
はっきりと、ハンテルはそれを否定した。柔らかい毛皮の下に眠るたくましさでもって、おれを諭し続けるこの虎は明確におれの非をはねのけたのだ。
「姫様はきちんと物事を考えられる人だ。こっそり生きていくこともできたのに、それだと他の姫様の子を探せないからと拒んだ。そして、優しいから、この町の人を見捨てられなくて奮い立った。そんな姫様をだれが馬鹿にできる。どの口で仕方がないなんて言える。おれらの中の誰もが、それを知っている。だから、あとは姫様がきちんと立ち上がるだけなんだ」
「立てる、かな……」
「余裕余裕。おれらが支えるからさ、もうちょっとだけ頑張ってみようぜ。それからでも、遅くはないしな」
「ありがとう。本当に、お前らがいてくれてよかった……」
「それはこっちのセリフだな。姫様がいなかったら、おれらは途方に暮れてただろうし。何をするでもなくさまよって、ひょっとして、あいつらと敵同士になってたなんてあり得る話だ。姫様がいてくれたから、おれらはひとつにまとまれるんだ。おれらは……いや、おれは――――」
そこでハンテルは言葉を切って、まさしくこれこそが肝心だと口にする。
「世界中の誰よりも貴方様をお慕い申し上げているのですよ」
急に言葉を硬くして、紡がれたのは愛の言葉。それはおれの中で思いもしない反応を引き出して、憂鬱を吹き飛ばしてくれた。
吹き飛ばされた憂鬱はおれのつややかな唇から笑いとなって噴き出した。真剣な場面だとわかってはいるけれど、ここまでまじめに口説かれると反射的に笑ってしまう。おれの中に根付いている男としての価値観が、それを冗談だと笑い飛ばしてしまったんだ。
だけど、言われてみればもっともな場面だ。部屋の中で男女が抱き合う光景は、どこからどう見ても一世一代の告白シーン。ギャルゲでしか見たことのない光景の主役を、まさか自分がはるなんて思いもしなかった。それも女側で。
おれに笑われたのが意外だったのだろう。ハンテルはばつの悪そうな顔で頭をかき、ちょっとだけふてくされたように顎を突き出した。
「別に冗談なんかじゃないんですけどねー。ペットはおとなしくニャーニャー鳴いてればいいってことかな」
「ごめんって。まさかここで口説かれるとは思ってなかったからさ。ちょっと驚いちゃって」
「口説く、とはちょーっと違うな。おれはただ本心をわかってほしかっただけさ。おれらは姫様の行くところならどこにでも従う。だから、何も心配することなく背中を預け、そして、寄りかかって立ち上がってくれればいいのさ」
気持ちが軽くなっていくのを感じる。胸中にわだかまっていた汚泥が洗い流されていくようだ。問題が解決したわけではないけれど、一人じゃないと感じられることがこんなに頼もしいだなんて。
ハンテルの言を実行するかのように、もう一度、虎の胸に体重を預ける。男としてのプライドをほんの少しだけ押さえつけて、ふかふかの毛皮に体を沈めていく。
こんなこと、またとない機会だろう。おれが望めばいつだってハンテルはその胸を貸してくれるだろうけど、さすがにおれだってこんな情けないところばかり見せてはいられない。きっとどうせすぐ同じことをするかもしれないけど、気持ちだけはこれっきりだと思うようにしておこう。
「ハンテル、柔らかいな……」
「だろ。姫様のために、毎日手入れを欠かしてないからな。いつだってこの胸は、姫様のためにあけてあるんだ。使いたいときはいつでも言ってくれ」
「ヴァルにも、あとで謝っておく」
「そうしてやってくれ。あいつはまったく鈍い奴だから、口で言わないとわからないんだ」
だから、今だけは。戦争の足音から逃げるように、シーツにくるまって現実から逃避する幼子のように。
少しだけ、おれをくるんでほしい。
そうしたら、頑張れる気がするから。




