その黒は死を意味する
こんなこと誰にだって想定できはしない。アーフィムはそう嘆いた。
ヨルドシュテインのたくらみに乗って、王位を我が物にできるはずだったのに。あと一歩というところまできて、彼の足は邪悪に捕まってしまったのだ。
「こんばんは、暗殺にまいりました」
最初その言葉を聞いたときは何かの冗談だと思った。なぜなら彼がいたのは軍部の中心、彼に従う者たちが王位を簒奪しようと謀反を計画していたまさにその時だったのだから。
一体どこから忍び込んできたのか、この黒狼は音もなく入ってきて暗殺するなどと大言を吐く。外にはまだ兵が大勢いるうえに、実力者も多数参加している。今この部屋にいるのはアーフィムが見込んだ実力者ばかりだ。
「ふむ、なかなか数が多いですね。何か良からぬたくらみごとの最中だったのでしょうか」
狼は動じた風もなく、端正な顔であたりを見渡す。とっさのことでもすぐさま対応して剣を抜く兵たちを見ても、狼は眉一つ動かさない。
「アーフィムというのはどのサルですか? まあ、どのみち全員殺すのであまり意味のない質問なのですけど、やはり対象くらいは知っておいたほうがいいかと思いまして」
「殺せると思っているのか!?」
「もちろんでございます。下等なサル一人殺せないようでは、姫様の従者として恥ずべきことですので」
兵たちの怒気に当てられても、狼はにこりと返答するだけ。だが、これほどまでに冷たい微笑などアーフィムは見たことがない。無価値なものだと言わんばかりに無機質な目は、笑っているようでその実ただの作り物だ。名のある人形師が魂を込め忘れてしまったような、そんな綺麗ながらもおぞましい笑みをたたえて狼は一礼する。
すでにこの場の誰もがこの狼の異質さを感じ取っているだろう。だが、暗殺すると言われて、素直に逃げ出せるわけがない。勝てないかもしれないという疑念を殺し、彼らは皆武器を手に取るしか道はないのだ。
そんな狼の目がアーフィムに向けられた。その殺意たるや、まるで死神の鎌を首筋に当てられたかのごとく。死をつかさどる神のように機械的で慈悲などない瞳が、哀れな標的を見定めた。
「どうやら貴方のようですね。それでは、姫様のため、その命もらい受けます」
「させるかぁ!」
死ぬ、そう覚悟したとき兵の誰かが狼へと突っ込んでいった。
振りかぶった剣先は違うことなく狼を狙い、そのままつややかな毛皮を裂いてしまうかと思われた。
だが――
「『病状酌量の余地はない』」
狼がそう呟いて息を吹きかけただけで、その男は崩れ落ちた。狼を穿つはずの剣はむなしい音を立てて床に落ち、持ち主がそれを握ることはもう二度とない。
誰かの息をのむ音が響くほどの静寂。この場にいる誰もがそんなスキルなど知らない。彼らの知っている即死系の魔法はもっと長い詠唱を必要とする実用性など皆無の代物だ。こんな即座に殺せてしまう、実戦的なスキルが存在しているなど聞いたことすらない。
「お恥ずかしい話、暗殺が得意だなどと姫様に自分を売り込んではいたのですが、これが初仕事なのですよね。ですので、どのように殺したらいいのか、あまりわかっておりません」
すでにこと切れた兵に目もくれず、狼は困ったように首をかしげる。
死ぬことはすでに確定事項なのだろうか。アーフィムは寒気が止まらない。あと少しで国を我が物にできるのに、こんなところで得体のしれないやつに殺されてしまうのか。
そんなことが認められていいはずがない。彼は持てる限りの力を込めて声を振り絞った。外にはまだ、彼を慕う兵が大勢いるはずだ。
「兵士たち! 曲者だ! 誰かこいつをぶち殺せ!」
しかし、待てども返答はなく、ただ静寂が絶望を際立たせるだけ。
「誰か! いないのか!」
あおられた絶望は胸中を満たし、最悪の想像を掻き立てる。それがあまりにも恐ろしくて、彼は何度も何度も声を張り上げる。
だが、結果は変わらない。誰も彼の助けには来ない。
「実を言うなら、悩んでいたのです」
静かな狼の声がアーフィムの叫びを切り裂いて飛び込んでくる。その先にはきっと絶望しかない、それがわかっていても彼にはその言葉を止められない。
「姫様はお優しいお方。今回も、アーフィムをとらえてその罪を暴くだけでいいと言われてはいたのです。もちろん、やむを得ない場合は殺してもいいと承諾はいただいておりますが」
「なにが、言いたい……」
「ですが、災いの芽は小さなうちに摘む方がいいに決まっております。姫様のやさしさにへりくだり反逆するなど反吐が出るほど唾棄すべき愚物でしかありません。それに、姫様は降りかかる出来事に気を病んでしまっております。ああ、なんとおいたわしい。あの方の安寧のため、不安の芽はすべて駆逐せねばなりませぬ」
ですので、と狼は続ける。その続きは聞きたくない。けれど、現実は残酷だ。
「外の者も皆殺しにしてまいりました」
誰かの戦意が折れた音がする。アーフィムも、力が抜けて立つことをあきらめてしまうほど。
「馬鹿な……外には百ほどの兵がいたはずだ。それを、それを一人でだと……」
「あまり私を見くびられても困りますが、ごみがいくら固まったところでごみはごみ。ごみは踏みつけられて捨てられる定めでしかありません」
確かにこの世界にはスキルさえ使えれば一騎当千の働きをする猛者はいる。だが、この狼はもはやそういう次元にいない。どれだけ相手が強くても、それを一蹴してしまうだけの何かがある。
「う、うあああああああああああっ!」
叫んだのは誰の声だったか。もはやそれを考えることすらできなくなった思考回路で、眼前の光景を呆然と見るしかできない。
一縷の望みをかけたのだろう。狼に向かって兵士の誰かがとびかかる。一矢報いたいという気持ちのこもった一撃は、アーフィムの目から見ても素晴らしいものだ。
しかしそれでも狼には遠く及ばない。狼はわずかに身をよじっただけでその一撃を交わし、わずかに手を振った。たったそれだけ、それだけの動作でその兵士は息絶えてしまう。寸分たがわず投げられた小さなナイフが、猛者の命を刈り取った。
顔色一つ変えずにことを成し遂げる黒狼は、誰の目から見ても悪魔そのものだ。決して逃れられない死神。アーフィムは絶望の境地に立たされた。
「悪魔だ……お前は、悪魔だ!」
「悪魔ですか。正確には少し違いますね」
黒狼は姿勢を正したまま、アーフィムの言葉を否定する。だが、この邪悪が悪魔でないのなら、なんだと言うのか。
「邪神ヴァーデル、名前くらいは聞いたことありませんか?」
それくらいアーフィムじゃなくても誰でも知っている。その昔天に反逆し悪魔の大軍を率いて戦ったという神話に出てくる邪神。災いを固めて作られたというその邪神は、何もせずともただ存在するだけで生き物を死に追いやった。
「姫様は私をお作りになられるときに、その邪神のかけらを使いました。イグサがステラの遺物を使ったように、姫様は私に邪悪をお与えになられました」
「……は?」
何の話をしているのかアーフィムには分からない。作ったと言った。それは禁忌の領分だ。人が踏み込んではいけない、神の領域。
「私は姫様に、邪悪であれと願われた存在。あの方の美しい白を守るために、すべての穢れを引き受ける存在。それが私なのです」
そこで初めて狼に感情らしきものが浮かんだ。陶酔と誇らしげに語る姿には、邪悪を押し付けられた忌避感などまるでない。主に願われた、そのことが彼にとってはすべてだ。
それが彼、ヴァルデック。状態異常と即死のスキルを豊富に備えた隠密の達人。単純な戦闘能力に特化しているわけではなく、からめ手を前提に作られた狼だ。
もっとも、ヴァルを作った当の本人にそんな気持ちは当然ない。彼はただ、ゲームでの状態異常付加率向上効果がほしくてそれを追加しただけなのだから。彼はヴァルがそんなことを考えていることすら思いつきもしない。
そもそものコンセプト自体、執事服を着た忍者ってかっこいいのでは、とかいう思い付きなのだが、もちろんそんなことも知らない。
しかし、狼にとってそれはとても誇らしいことだ。あの美しく汚れのない白を守ることができる。騎士たちとは違い、自分だけがあの方の汚れをいただける。それが彼にとってどれだけ誇らしいことか。それも当然、あの方は知らない。
「故に、私は貴方がたを殺します。姫様がこれ以上穢れることのないように、私がすべて引き受けます」
狼は自らの邪悪を誇っている。主から与えられた、唯一無二の個性を。
たとえそのせいであの白に触ることを恐れたとしても、自分が触ることであの白いお方が汚れてしまうのではと危惧するようになったとしても。それでも彼は誇るのだ。
狼がハンテルを嫌うその根底に、羨望という感情があることを、今の彼はまだ知らない。あの白色に何のためらいもなく触れるという点で、両者の価値観はずれすぎている。
そして同様に、彼は他人に触られることも好まない。姫君が誇る従者の中で、自分が一番汚れているという認識が、彼にそうさせてしまうのだ。
そのことについて気にしているのは、彼しかいないというのに。
そこまでの話を聞いてアーフィムには断片的な理解しかできなかったが、それでも十分に理解できたことがある。
これはもはや、人の踏み込んでいい問題ではなかったのだ。目の前の狼は人の形をしているだけの邪悪。人がどうこうできる相手ではない。
「姫様はお優しい方です」
黒い邪悪が、主に思いをはせて呟く。
「私にお任せしてくだされば、ビストマルトの皇帝から15将軍にいたるまで、そのすべてを殺しつくしてご覧に入れるというのに。あの方はわずかな交流の道を選び、私に乗せる邪悪を減らそうとしてくださいます」
その言がたわごとなんかでないことは、この部屋の人間ならだれもが感じることだろう。
世界を相手取るに十分な邪悪。それこそまさに邪神にふさわしい。
部屋にいた兵たちが崩れ落ちていく。アーフィムは最初、それが絶望から来るものだと思っていた。彼らの戦意がついえ、身を投げ出したのだと。
それが違うと気づいたのは、アーフィム自身に異変が起きてからだった。
「……ガハッ、なんだ、これは」
武官として体には自信があった。だから、吐血した瞬間にそれが狼によるものだとすぐに察しがついた。鉛のように重くなっていく体に鞭打って顔を上げると、冷たい光を宿した眼光とぶつかる。
「ふむ、ようやく効いてきましたか。思ったより遅かったですね」
「お前、なにを……おれに何をした……」
「なぜ教えなければならないのか理解に苦しみますが、まだ時間がかかりそうですしいいでしょう。冥途の土産ということでぜひお持ちください」
時間がかかるということは、邪神云々のくだりもただの時間稼ぎだったのだろうか。そうアーフィムは思いたかったが、体を蝕むこの寒気が嘘ではないと語っていた。
「先ほど使った『病状酌量の余地はない』ですが、これは対象を即死させ感染源とします。そこから範囲は拡大し、周囲一面を死で覆いつくす。そんな魔法です」
「そんな、まほう……しらな、い……」
「まあそうでしょうとも。無能のくせに威張っているサルが天級魔法を知っているわけありませんからね」
「ばかな……!」
天級魔法など、神話の領域だ。それをこんなにあっさりと使えるなんて信じられない。上級魔法でさえ、儀式が必要になる場面もあるというのに。
だがもし、それが本当なら、この場は神々の力で犯されていることになる。あらがえるわけがない。そんな不条理の塊に、人ごときになにができる。
「生き残りがいると面倒なので、周囲を根こそぎ殺します。あまり強く起動していませんが、ここら周辺なら問題ないでしょう。ふむ、初めての暗殺なのですが、こんなものでいいのでしょうか」
姫様の希望にそえていればいいのですけど。なんて漏らす狼はもう兵たちから興味を失ってしまったようだ。あとは死んだことを確認して去るだけ。そのつもりなのだろう。
そこでついにアーフィムが折れた。戦意だけでなく生きる気力すら根元から叩き折られ、たとえここで九死に一生を得たとしても、人として再起不能に違いない。
この世界にこれほどおぞましい邪悪がいるとわかったうえで生きるなど不可能だ。こうなってしまっては、死ぬことこそが正解なのではないだろうか。そんなことさえ思ってしまうくらい、アーフィムは絶望していた。
王になるという野心はもうない。ここで死ぬことに、諦観をもって受け入れた。
しばらくして、この場で自分以外の生者がいないことを確認した狼もここを去る。
死の道を歩く黒狼は、いつも通り端正な顔をしていた。




