ばいばい
まだ日も登り切っていない明け方、碧流はそっとベッドから抜け出した。
すやすやと眠る梓の顔をじっと見つめて、そして、微笑む。
「…やだ、なあ…」
小さな声は、今にも泣き始めそうに震えていた。
音を立てないように階段を下りた碧流は、リビングの電気をつけた。誰も起きていない。当然だ。平日、一番早く起きるのは梓で、彼女が眠っているのを碧流はちゃんと確認した。
脱衣所のタンスの一番下の段から、フリフリのゴスロリを出して、腕を通す。背伸びをしながら鏡を見て、髪を結う。ハイソックスも履いて、いつもの姿に戻ると、抜き足でリビングに戻った。机の上には、メモ帳が一つ。
昨日、オーダー表代わりにしたそれにメッセージを書く。字が乱れないように丁寧に。何度も手が震えて、泣きだしそうになったが、最後の読点まで書いた。
深呼吸をして、梓の鞄から家の鍵を拝借する。玄関に向かう途中、ショッピングモールで梓が買ってくれたうさぎと目が合った。
「…ここ、に…いたんだ…」
昨日はおうち文化祭の準備で忙しかったし、夜はずっとどうやって出て行くか考えていたから、この子のことは忘れていた。どうやら昨日の朝、靴箱の上に置いてそのままだったらしい。
手を伸ばして、薄ピンク色のうさぎを持ち上げる。
「…いいんだよね。これで、私は、…お姉ちゃんたちを、守れるんだもん」
ぎゅうと力いっぱい抱きしめて、元の場所に戻した。
「…ばいばい」
そっと玄関の扉を開ける。冷たい空気が入ってきて、碧流は身震いした。
気付かれないように扉を閉めて、鍵を掛ける。ポストに、鍵とメッセージを書いたメモ帳を入れた。
カチャン、と、ポストが閉まる。
「ばいばい、れつ、ちはる、はるき…おねえちゃん」
緑色の瞳から溢れる涙をそのままに、碧流は庭を出た。誰も起きていない早朝を、碧流はふらふらと歩いていく。
「本当に出てきたんだ」
ぴたりと歩みが止まる。碧流は涙で濡れた顔のまま、ゆっくりと振り返った。
背後には慧音が立っていた。彼は碧流と目が合うと、にこりと人好きのする笑顔を向ける。
「…」
「あれ、無視? 見えてる? 泣きすぎて、僕のこと見えないのかな」
からかうような口調に碧流は特に反応する様子もなく、小さく口を開いた。
「どうしてLancelotを狙うの?」
静かな住宅街に碧流の声が響く。
数メートル離れたところにいる慧音は、その問いが聞こえているはずなのに黙ったまま笑っていた。しんと静かな空間で、碧流は涙を流しながら慧音を見つめる。
暫くして、慧音の表情が変わった。作ったような笑みだったのが、どこか哀愁を含んだものになったように見えた。そのまま、ぽつりと呟く。
「…そんなの、僕たちが知りたいよ」
言葉の意味に戸惑った碧流に構わず、慧音は数メートルの距離を詰めた。
「さあ、君のお父さんに会いに行こうか」
碧流を見下ろした慧音は、また張り付けたような笑顔で手を差し出した。
碧流はくっと唇を噛んで、その手を、取った。




