chapter-8 救出の野原
その頃。
和真たちがそんな目に遭っているなどとは露知らず、野原へと分け行って来た人影がいました。
紗耶香です。頼まれていた釘を何本も持って、二人の待つ野原へと踏み込もうとします。
と。
不気味な唸り声に、気がつきました。
「なに……?」
さっき通った時は、聞こえなかったはず。何だか様子が変です。
紗耶香は立ち止まると、茂みの向こうからこっそり野原を覗きました。
大きな犬が何頭も並んで、牽制の声を上げています。
その輪の真ん中にいるのは、和真と優衣とあおい。何という事でしょう……!
「なっ……!」
全身の鳥肌が立ちました。あんなのに襲われたら、みんなタダで済むはずもありません。
紗耶香は釘を見つめました。いや、ダメです。こんなものを投げつけても、何の効果も与えられそうにありません。
紗耶香に出来ることは、ないのです。
「……ある」
ありました。
紗耶香は元来た道を、全力で駆け出しました。この茂みの先、天空橋の袂に、交番が一軒佇んでいるのを思い出していました。
お巡りさんならきっと、何とかしてくれるはず。その希望だけを頼りに、紗耶香は走ります。
「ユイ、カズ、あおいちゃん……待ってて……」
歯を食い縛った時でした。
向こうから、のんびり歩いてくる健太郎の姿が見えたのです。
「よーサヤカ、なんでそんなに────」
「犬がいるの!」
渾身の大声に、健太郎の顔は一瞬にして青ざめました。その言葉の意味を誰よりよく知っているのは、健太郎なのですから。
「ユイたちが囲まれてるの! お巡りさん呼んでくるから、ちょっとそこで待ってて!」
そう叫びながら、紗耶香は向こうへと消えて行きました。
「……オレのせいだ」
放心したように立ち尽くしたまま、健太郎は天を仰ぎました。
「オレがあの時、子犬なんて見つけたから……」
そしたら、親犬に目をつけられる事なんてなかったのに。みんなを危険に晒さずに、済んだかもしれないのに。
後悔と自責の念が、どろどろと胸に渦巻きます。
これは、オレが起こした問題だ。オレが何とかしなきゃいけない。
そう、強く思いました。
「──うおおおあああああーっ!!」
蹴った場所から砂煙が弾けます。
健太郎は走り出しました。
「私たち……どうなっちゃうんだろう……」
和真の背中で言いながら、優衣はもう既にぼろぼろと涙を溢していました。
一歩、また一歩と、犬たちは輪を狭め始めています。唸り声が一際大きくなるそのたびに、恐怖が強くなるのです。
「オレも、分かんない……」
すっかり力を失った声で、和真もそう返しました。
胸に抱いたあおいを、優衣はぎゅっと一層強く抱きしめました。今は、その温もりだけが頼りなのでした。
と。
あおいが、急にじたばたし始めたのです。
「ちょっ……あおいちゃん……!?」
腕の中で暴れるあおいに戸惑いながら、その時はっとしたように優衣は前方を見つめました。草むらの遥かに向こう、ぽつぽつと並ぶカラフルなライトの上に、二つの明るい光がこちらを向いているのに気がついたのです。
飛行機です。滑走路の上を今まさに、こちらに向かって離陸しようとしているに違いありません。
やがて、地響きのような重たい振動がし始めました。
キイイイイイイイイイイイイイ────ン!!
空気の乾いた今日、その音はいつもにも増して凄まじいものでした。
犬たちも、その音に驚いたのでしょう。びくりと身体を震わせ、唸り声も動きも止んでしまいました。
そしてそこに、駆け込んで来た小さな影がありました。全速力で包囲網を突破したそれは、和真たちに駆け寄ります。
「ケンタ……!」
びっくりしたような和真に、影──もとい、健太郎は笑います。「ごめん、遅くなった」
その手には、小石の礫。一瞬の迷いもなく、再び興奮を取り戻した犬目掛けて健太郎はそれを投げました。ガツン、と音がします。眉間に命中したのです。
「キャンッ!」
ひっくり返ったその犬は、泡を食ったように逃げて行きます。他の犬たちが怒りの声を上げ始めましたが、離陸していった飛行機の音のせいかさほど気にはなりません。
「すごい……」
言葉を失った和真。額の汗を拭いながら、健太郎はなおもまた礫を手にしました。
「次、あいつ!」
ガンッ!
投げ放たれたその小石は、標的になった犬のお腹を直撃しました。
みんなでボールで遊んでいると、いつもボールの扱いが一番に上手かった健太郎。こんなところで役に立つとは思ってもみませんでした。
隙を突かれた犬たちはどんどん逃げて行き、残るは小道の入り口辺りにいる一頭だけになりました。
「あと、あいつだけだ」
勝ち誇ったように健太郎は言いました。その手はもう、小石を握っています。
行方を見守るしかない和真と優衣は、ただ唖然として後ろ姿を見守ります。
その背中が、ふいにびくっと縦に跳ねました。
突然でした。健太郎は一歩後退すると、小さく呟いたのです。
「……オレ、あの犬には石、投げられない……」
「えっ?」
思わず訊ね返すと、健太郎は前を指差しました。
いま、三人と対峙しているその犬の周りに、子犬が何匹も出てきているのです。クーン、クーンと鳴きながら、大きな犬に擦り寄っています。
親子です。
健太郎にはそれが、この前自分が目にした犬たちに見えてしまったのです。
健太郎は小石を取り落としました。それが合図だったかのように、犬は一歩一歩、迫って来ます。
煮え滾るような怒りを宿したその顔を、優衣は見てしまいました。相手はうんと減ったのに、逃げられる気がしないのです。怖くて、恐くて、また涙が零れます。
「ピリリリリリリ──────!」
突然、大きな笛の音が響き渡りました。
驚いたのは犬たちです。ぴょんと飛び上がったかと思うと後ろを振り返ります。直後、再び笛の音が空気を裂きます。
悲しい声で吼えながら、犬たちはついに逃げ出しました。茂みに分け入り、行方を眩ましてしまいます。
へなへなと、優衣たちはその場にへたり込みました。優衣の腕から飛び出したあおいが、三人の前にちょこんと座りました。
がさがさと音を立て野原に入ってきたのは、お巡りさんでした。ホイッスルを手にぐるりと辺りを見渡すと、お巡りさんは三人に向かって尋ねました。
「君たちだね、野犬に囲まれていたのは」
そうです。その通りです。
「助けに……来てくれたの?」
和真の問いに、お巡りさんはしっかりと頷きます。「無事で良かった。ここから出よう、ついて来なさい」
背の高い制服のお巡りさんの立ち姿を見上げた優衣は、その身体が放つ安心感にまた涙が出てきました。
三人と一匹は、助かったのです。
「共同飼育?」
交番の机に座ったお巡りさんは、変な声で聞き返しました。
ここは、天空橋交番です。空港の茂みから出てきた三人に、事情を聞くためお巡りさんは寄って行くよう命じたのでした。中で座っていた紗耶香は三人の姿を見つけるなり、ほっとしたように笑い声をかけました。
ですが当の和真は、心中はさほど穏やかではありません。
「すると君たちは、親御さんの諒解も得ずにこっそりあの場所で飼育していたということかな?」
「うん」
渋々認める和真。ウソをついても、何だかすぐにバレそうな気がしました。
「みんなの家じゃ動物が飼えないから、あそこに小屋を立てたんだ」
そう説明すると、お巡りさんは困ったように頭をガリガリと掻きます。白い机の上に広げられた調書には、まだ何も書かれていません。
和真は不安でした。こっそり飼っていることは、誰に対しても秘密にしてあるのです。もしお巡りさんの口からお母さんたちに知れ渡ってしまえば、不都合な事になりかねません。
果たして、事態は和真の思惑に沿うように進んでゆきます。お巡りさんは難しい顔をして言いました。
「……あの場所はそもそも、立ち入り禁止の区域になっているんだ。特別な許可がない限り、本当は入ることも許されないんだよ。君たちがあのネコをこっそり飼いたくなる気持ちも分かる。分かるが、問題のある行動を黙認していては我々警察の意味がないんだ。分かるね?」
四人は首をすくめました。もちろん、分かります。その返答が、何を意味しているのかも含めて。
お巡りさんに「あのネコ」呼ばわりされた当のあおいは、交番の床に寝そべって牛乳を舐めています。この子との楽しかった生活を放棄せよと、お巡りさんは命じるつもりなのでしょう。悔しくて、悲しくて、みんな俯いています。
が、お巡りさんは意外な事を言い出しました。
「……分かった。君たちの親御さんの方で飼育許可が下りるまでの間、このネコはここに置いておいてもいいことにしよう」
四人は一斉に顔を上げました。
後頭部をぽりぽりと掻きながら、少し決まり悪そうにお巡りさんは続けます。「悪質な行為を取り締まるのは我々の仕事だが、飼育の権利までは奪えないからな。ただし、君たちでちゃんと世話はすること。我々が提供出来るのは、場所だけだ」
和真たちの胸は、喜びで一杯になりました。あおいを失う事態は、避けられたのです。
「ありがとう、お巡りさん!」
机に身を乗り出しながら、健太郎が叫びます。それに倣って他の三人も口々に、感謝の言葉を述べました。
良かった、本当に良かった。
一転、晴れやかな表情になる和真たちに、まだ難しい顔のままでお巡りさんは告げました。
「ただし、もう二度とあの茂みに入ってはいけないよ。野犬がいる以上放っておくわけにもいかないから、保健所に駆除をしてもらう。それにそもそも、危険だからね」