chapter-7 遭遇の深籔
結局、昼休みの騒がしい時間帯以外にあおいが鳴き出すこともなく、無事に一日が終わりました。
あとは、あおいをあの小屋に戻すだけ。日も西に傾き、橙色に染まった道路の上を、用事があると言って抜けた友洋と未菜を除く四人は、空港に向かって歩きます。
「やっぱ小屋、壊れちゃってるかなぁ」
途中で家に寄って取ってきた工具箱をぶんぶんと振り回しながらそう呟く健太郎は、台詞の割にはあまり残念そうではありません。
「壊れてたら、今度は超カッコいい小屋に建て替えてやろうっと」
「やめなよ、あおいが可哀想だよ」
「何だと!? そんなことないよな、あおい!?」
「にゃあ」
「ほら、イヤって言ってる」
「言ってないよ! 『すごい!』って言ってるんだよ!」
「オレは壊れてない方が嬉しいなー」
和真の一言で、健太郎も紗耶香も黙ってしまいます。この二人、放っておくとすぐに口喧嘩を始めてしまうのですから、困り者です。
実のところ、二人の気持ちも和真に近いのでした。みんなして頑張って作った小屋が壊れるなんて、やっぱり悲しいです。出来るなら、そのまま残っていてほしいのです。
天空橋を渡った四人はまっすぐ、道路を渡って茂みに入ります。空気が澄んでいるせいか、すぐ向こうの東京モノレール天空橋駅の入口の空調の音が、いつもより大きく聞こえました。
小屋が、ありました。
壁の板が一枚吹き飛んで、どこかに行ってしまっています。毛布も風に拐われる寸前のところで、四隅の小さな柱に引っ掛かっていました。
しかし、とりあえずは残っています。それだけでも十分、四人にとっては二度奇跡が起きたのと同じなのです。
「良かったー……」
ホッとしたようにランドセルを置くと、和真は首を出しているあおいに言いました。「ちょっと待ってろよ、あおい。家を元通りにするからなー」
にゃあ、と答えるとあおいはランドセルの底の方に潜り込みます。言葉は通じていないはずなのに、まるで意思が伝わっているようです。
「いいなー、あんな風に懐かれたい……」
さも羨ましそうに和真を眺める紗耶香の後ろから、健太郎がぷっと笑います。「がさつなサヤカじゃ無理無理ー、せめてユイくらいじゃなきゃ」
「なんですって!?」
また、始まります。
わいわいと騒ぎながらも、時間は過ぎていきました。
優衣と紗耶香が小屋の中を綺麗にしている間に、そばの野原で板を重ねて打って壁や屋根にする和真と健太郎。見事な分業は功を奏し、何だかんだと修理は進みます。暗くなる前には、屋根はほぼ元の姿を取り戻すことが出来ました。
しかし、ここで問題が一つ生じます。
「ケンタ、釘あと何本ある?」
板と釘を押さえながら、金槌を降り下ろす健太郎に和真は尋ねました。
「あと、二本くらい」
「足りなくない?」
言われて健太郎、板を眺めます。確かに、この大きな板を小屋に打ち付けるには二本では足りません。さっき別の面を修復していた時に、使い過ぎてしまったのでしょう。
「どうしよう?」
「どっちかが取りに行くしか……ぁ痛っ!」
指先の鈍痛に悲鳴を上げたのは、和真です。よそ見をしていた健太郎、ついうっかり和真の指を叩いてしまいました。
「わ、ごめん!」
「あー、ケンタが指叩いたー」
「うるさいサヤカ! お前だって叩いただろ!」
反論する健太郎を白い目で見ながら、紗耶香と優衣も寄って来ました。「大丈夫?」
小さく覗く指先に、血が滲んでいるのが見えます。はっ、と優衣が息を呑みました。
「止血した方がよさそうだね。でも、誰も絆創膏とか持ってないだろうし……」
紗耶香の心配そうな声に、健太郎は金槌を置いて立ち上がります。
「オレ、家から取って来ようか?」
言うが早いか駆け出そうとするその背中に、和真は声をかけます。痛みのせいで、途切れ途切れです。「つい……でに、家に釘とかあっ……たら、持ってきて……」
「え、ウチ釘なんてあったかな……」
紗耶香が進み出ました。
「そっちは私が行くよ。お父さんがよく工作とかしてるから、釘あると思う」
「分かったー」
二人はぱっと走り出すと、すぐに藪の向こうに姿を消しました。
「……私、何かできること、あるかな……?」
完全に波に乗り遅れた優衣、ぽつりとこぼします。指を擦りながら、唾をつけて痛みを堪える和真。ふと、優衣はその隣に座りました。
「カズ、休んでなかったでしょ? ちょっと休憩しようよ」
提案すると、和真はやっと少し笑いました。
「うん」
ゴオオォォ────!
大地を轟かせながら、銀翼の旅客機が空へと舞い上がってゆきます。
「……ユイ、慣れたね」
和真はふと、聞きました。耳こそ押さえてはいるものの、優衣はさして怖がってはいないように見えたからです。
「うん。みんなと何度も来てるうちに、慣れちゃった」
膝の上にぴょんと飛び乗ってきたあおいの背中を撫でながら、はにかむように優衣は笑います。
紗耶香ほどの体力もなく、未菜のように注意も利かない。勝手にそう思っていた優衣はここへ来るといつも、あおいをお世話する役割を自ら買って出ていました。 ずっとじっとしていたからこそ、飛行機にも、ネコにも馴れる事が出来たのかもしれません。
「ふさふさしてる……」
しっぽを擦りながら呟くと、和真も食い付いて来ました。「あ、ずるい。オレも触る!」
ふさふさふさ。
さわさわさわ。
自分のしっぽをオモチャにされて、どう感じるのでしょうか。あおいは小さく「にゃあ」と鳴きました。
涼しげな海風が羽田空港を越えて、優しく二人と一匹を包み込みます。
羽田の空はどこまでも高く、広く、それはまるで誰かの前に拡がる未来の世界のようでした。
今日こうしていられるのも、これまでの懸命の苦労があるから。
みんなを集めて家を作り、台風のたびに様子を見に行き、必要とあらば引き取る。この数日間だけで、どれほどこの子のために奔走した事でしょう。
だからこそ、よけいにかわいく見えるんだ。和真は、そう思います。
「……前に、ケンタくんも言ってたけど」
優衣はどこか遠くを見ながら、ふと言います。「やっぱり、いきものを飼うのって大変なんだね。でも、楽しい。もっとずっとずうっと、こんな生活を続けられたらいいのにな」
「オレもそう思う」
まだ修繕の終わっていない壁を見やりながら、和真も頷きました。あおいの頭に手を置くと、にゃっと返事が返ってきます。
「こんな風に、いつまでも楽しく暮らせたらなぁ────」
ぴりっ。
空気が凍り付くような感覚に、ふと和真は気づきました。
鋭い緊張が、身体中に走ります。
「……なに……?」
尋ねたのは優衣です。緊張は優衣にもあおいにも伝わっているらしく、その表情は強張っています。
「何だろう」
ごくりと唾を飲み込んだ、その時でした。
がさがさっ。
原っぱを囲むように生い茂る草の間から、大きな犬が一頭、姿を現したのです。
思い出される、数日前の会話。
大きさも見かけも、健太郎が以前に見かけたという犬にそっくりです。
「…………!」
二人は思わず固まりました。
低い低い唸り声を上げながら、犬はそこで止まります。そうとう不機嫌なようです。一体、何があったというのでしょうか。
「……ケンタ、奥に子犬もいたって言ってた」
震える声で和真は呟きました。「オレたちが子犬に近づかないようにしてるのかも……?」
「じゃ、じゃあ逃げようよ! 私たちが向こうに行かなきゃいいんでしょ!?」
横から涙目で優衣が訴えます。和真も頷きました。
二人はくるっと後ろを振り返り、
ぐるるるるるるるるる……。
元来た藪の方からも、その声が聞こえてくるのに気がついたのです。
いえ、よくよく耳を欹てると、それは四方から聞こえてきています。いつしか二人は、完全に囲まれてしまったのです。
「そんな……」
何がいけなかったんだろう。自分たちのした事を和真は全て思い返してみましたが、分かりません。
やがて、取り囲む犬たちが全て顔を出しました。敵意剥き出しの恐ろしい顔が、眼が、二人を睨み付けています。
「…………」
声なんて、とても出ませんでした。
背中をぴったりとくっつけて立つ、和真と優衣。
優衣の腕に抱かれたあおいさえもが、今は身動き一つ出来なかったのです。