chapter-6 安堵の軒下
風はいよいよ強く、雨はどんどん激しくなります。
つるつるになって滑りやすくなった天空橋を走って渡った所で、家の方向が違う友洋と未菜は分かれました。レインコートの後ろ姿が、雨のカーテンの向こうに消えて行きます。
残るは優衣だけです。
「ユイ、家まで帰れる!?」
目の前を通過した車の跳ねた泥を避けながら、和真は怒鳴りました。ぶわっ、と吹き寄せる風に傘が取られそうになります。
優衣の唇が、紫に変色しているのが辛うじて分かりました。
「たぶん……大丈夫……」
「無理だったらうちに行こうよ! 風邪引くよ!」
がたがた震えながら、優衣は頷きました。実はさっきから寒くてたまらなかったのです。
「……そうしたいかも」
「じゃあ、急ごう!」
ランドセルを抱えたまま、和真は走り出します。見失ったら大変です。優衣も力を振り搾り、必死で追いかけます。
超の字をいくつつけても足りないほどの悪天候の下を、傘とレインコートの二人は走って走って走りました。ああ、家とはどんなに素晴らしいものなのでしょうか。こんなに雨が降っていても、安全に暮らしてゆけるだなんて。
「ちょっと、どこ行ってたの!?」
玄関を開けた途端、お母さんは悲鳴を上げました。
ランドセルを抱え、ぐっしょりと濡れている和真と、レインコートからぽたぽた水滴を垂らしながら青い顔で佇む優衣が、そこに立っていたからです。驚くに決まっています。
「……ユイに、宿題教えてもらおうと……思って」
「嘘言わないの!!」
「いえ、あ、あの……ほんとなんですおばさん……」
「ユイちゃん、こんなバカのことなんか庇わなくてもいいのよ!」
バカ呼ばわりされた和真、ムッとして言い返します。
「ほんとだもん! オレまだ宿題やってないから──」
「宿題は自分でやるものでしょう!?」
「わっ……分かんないんだからしょうがないじゃんか!」
はあ、とお母さんはため息をつきました。説得は出来ないと考えたのでしょうか、黙って洗面所に行くとタオルを持ってきます。
「とりあえずそれで身体を拭きなさい。ユイちゃん、お風呂もうすぐ沸くけど入っていく?」
「いいんですか……?」
「いいのいいの、体調崩したら大変だからね」
「オレも入りたい!」
「あんたはちょっと待ってなさい。一緒に入るわけにいかないでしょ?」
言いながら、お母さんは濡れたタオルの代わりを持ってきます。ついでにドライヤーと、優衣のレインコートを吊るすハンガーも。まるで、こうなることが分かっていたかのような準備魔っぷりです。
「……カズのお母さん、すごいね」
湿った髪の毛を弄りながら、優衣が呟きました。ランドセルの中身が、ごそっと動きました。
ともあれ、無事に着けたのです。
ほっとするあまり、二人は今にも倒れてしまいそうでした。
雨はいつまでも、ちっとも止みそうにありません。雨戸の向こうから恐ろしい音は聞こえ続けて、まるで家が揺れているかのような錯覚さえ受けます。
「あおいちゃん、美味しい?」
語りかけても、あおいはウンともスンとも返しません。ただ黙って、お皿の上に置かれた真っ白な何かをペロペロと舌先で舐めています。
「知らなかったよ、ネコがマシュマロ食べられるなんて」
「これ、食べてるって言うのかな……。でも、私もちょっと意外だったかも。人間の食べ物でも大丈夫なんだね」
濡れた頭をタオルでわしゃわしゃと拭きながら、和真と優衣はぼんやりとあおいの姿を眺めていました。女の子向けの服なんかあるはずもなかったので、いま優衣が着ているのは和真のTシャツと半ズボンです。もう一人自分がいるみたいな気がして、和真は何だか不思議な心持ちでした。
「……飼い始めてからまだ何日かしか経ってないのに、こんなんで大丈夫なのかなぁ……。いっつも気にかけていなきゃいけないよ」
「でも私、さっきちょっと嬉しかったよ」
「?」
「あんなすっごい雨だったのに、みんな来てくれたじゃない? 心配してくれてるんだなーって思った」
そう言って優衣は、あおいの丸い背中をやさしく撫でてあげます。
確かに、優衣の言う通りです。二人で飼っている訳ではないのですから、大変な時は分担すればいいのです。
──ま、いいか。また何かあったら、その時考えよう。今考えたってキリがなさそうだもん。
優衣の細い指にじゃれつくあおいに自分も手を出しながら、和真はそう思いました。
雨戸がガタンと揺れる音が、また家中に響き渡りました。
翌日。例に倣ってランドセルにあおいを押し込め、和真は学校に向かいました。
多少挙動が不審なものにはなってしまいましたが、あおいを連れ込んだ事はお母さんにはばれていません。
「ごめん! 昨日行けなくて!」
通学路で合流するなり開口一番、紗耶香はそう叫んで頭を下げました。
後ろで健太郎も小さくなっています。どうやら、二人とも外出許可が出なかったようなのです。
「大丈夫大丈夫、何とかなったから」
「二人は家を出なくて正解だったと思うよ。すっごい雨だったし」
和真も友洋も取り成しますが、二人の感じている責任感はものすごいものでした。ランドセルから覗くあおいの顔を撫でながら、泣きそうになっています。
「ごめんね、あおい……怖かったよね……」
紗耶香の鼻声にも、きょとんとした様子のあおい。昨日のことはもう、忘れているのでしょうか。
「……そう言えば、何も考えずにまたこいつ学校に連れてきちゃったけど、どうしよう」
びっしょり湿ったアスファルトを踏みしめながら、和真はふと呟きました。
傘はさしていません。昨夜吹き荒れるだけ吹き荒れた後、台風は東京の上空を通過して行ったのでした。翻って今日は台風一過、昨日の雨がまるで嘘のような快晴です。
「確かに、授業中に鳴いちゃったらまずいもんね……」
「それは大丈夫だよ。いざとなったらユイが鳴いてくれるから」
さらっと飛び出した和真の言葉に、優衣は真っ赤な顔で叫び返しました。「もうやらない! 私もうぜったいやらないからねっ!」
「えー、それじゃ『ゆいにゃん』じゃないー」
「なんでミナちゃんまでそんなこと言うの!?」
「まーまー、あれはユイがやったから面白かったんだよ。サヤカ辺りにやらせたらどうなることやら」
「……どういう意味よ、ケンタ」
顔を見合わせ、和真と友洋はやれやれと笑います。
何だか、安心したのです。昨日の努力があったから、今日の今がある。そう思えたのでした。
晴れ渡った空の彼方を、旅客機の大きな影が越えて行きました。