chapter-5 荒天の往路
「……あんた、いつまでそうやって動き回ってんのよ」
マンガを読み耽りながらうろうろとテレビの前を歩いている和真に、ついにお母さんは呆れ声を上げました。
今は午後四時。学校から帰ってきて以来ずっとこの調子なので、かれこれ五時間以上になるでしょうか。もっとも、途中で何度もマンガを持ち換えていますが。
「何でもないよ。母さんには関係ないし」
「テレビが見えないのよ」
「どうせつまんない韓流ドラマでしょ?」
クッションが飛んできましたが、和真は綺麗に避けてみせます。
一心不乱に読むのには、もちろん理由がありました。あおいの事が、心配でしょうがなかったのです。
外は風も雨もいや増しになるばかり。やっぱり学校帰りに見に行った時に、無理矢理連れて帰るべきだったのか。そう思うと、マンガでも読んでないとやっていられないのです。
「って言うかあんた、宿題は終わったの?」
「きのう居残りさせられた時についでに終わらせちゃった」
「バカね、それは昨日のでしょ。今日のよ今日の」
無論、やっている訳がありません。
「やって来たらおやつにしてあげるから、さっさとやってきなさい」
「はあーい」
気のない返事をしながら、和真は階段を上がっていきます。その背中にお母さんが不安そうな目を向けていたことには、気づきませんでした。
今日の宿題は、算数の問題集。
速度の計算がどうにも苦手な和真は、たった数問を解くのも一苦労です。勉強机に座ってランドセルからプリントを引っ張り出すと、和真はとりあえず鉛筆を握って問題文を睨みました。
【羽田空港から300㎞離れた中部空港まで、36分で飛ぶ飛行機があります。ところがある日、天気が悪くなって到着が9分遅れてしまいました。この日、飛行機は時速何㎞で飛んでいたでしょう】
「問題文、長いんだよ……」
さっそく愚痴が口をつきます。
机に頬杖をついて、和真は想像してみました。羽田空港を飛び立ったジェット機が、ぐんぐんと高度を上げながら神奈川を飛び越し、富士山の上を越え、和真の知らない大きな空港へと鮮やかに舞い降りる姿が、頭の中を巡ります。
どこまでも蒼いあの空を、滑るように駆けて行くあの姿が。
──オレにも翼があったら、宿題なんかやらないで逃げられるのかなあ。
そう思った途端、
ガタンっ!!
物凄い音が鳴り響きました。
びくっと身体を震わせる和真。それは、吹き荒れる台風の風で雨戸が壊れた音だったのです。
和真の空想の空を、一瞬で真っ黒な雲が多い尽くしました。
横殴りの雨を受けながら、飛行機は行く手を阻む強い風を前に必死に進み続けます。時おり風に煽られ、ぐらぐらと揺れるびしょ濡れの機体。ああ、そのなんと凄まじい光景でしょうか。外から聞こえてくる風の音が、否応なしに迫力を倍加するのです。
ふいに、和真ははっとしました。
そうです、問題文のおかげで思い出しました。
この天気の中、あんな危うい小屋の中にいるあおいのことを。
ガタガタンっ!!
恐ろしい音が響くたび、和真の胸のどきどきは加速します。
今こうしている間にも、あおいは雨に打たれているかもしれない。風邪でも引いたら、怪我でもしたら、どうしよう……!
五度目の轟音が聞こえた時、ついに和真は意を決しました。ランドセルを逆さまにして中身をぜんぶ引っくり返し、レインコートを羽織ります。そしてそのまま、玄関めがけて猛ダッシュ!
「ちょっと、カズマ!!」
お母さんの声など、聞いていられません。ネコ一匹の命が懸かっているのです。傘を引っ掴むと、和真は体当たりするようにしてドアを開けました。
滝のような雨が、目の前の道路に降り注いでいます。一瞬立ち止まりそうになりましたが、もう後には引けません。
「うわあああああああ!!」
叫びながら、和真は駆け出しました。
そこは、想像以上に危険でした。
何度も何度も風に吹っ飛ばされそうになりながら、傘をさしている甲斐もなく雨に降り込まれながら、それでも無我夢中で和真は走りました。もう何度通ったか分からない、見知ったはずのあの道が、こんなに長いなんて。そう思いながらも、がむしゃらに走り続けます。いつもの羽田の町が、ぼんやりと霞んで見えました。
靴がすっかり泥だらけになった頃、天空橋を駆け抜けた和真はようやくあの野原の手前に辿り着きました。海が、ざぶんざぶんと荒れています。
「はあ……! はあ……!」
荒い息を吐きながら辺りを見渡すと、他にも誰かが走って来ます。
「カズ……!」
「ゆ、ユイ! それにトモとミナまで!」
それは優衣と友洋、未菜だったのです。
「どうしても……心配に……なっちゃって……」
「ぼくも……今日、ぼくとミナがお世話の日だから……」
来る途中で、一緒になったのでしょう。頷くと、和真は風に負けないくらいの大声で叫びました。
「あおい、今行くよ!」
とにかく猛烈な、風。雨。
ぬかるんで水没し、水路のようになった狭い道を、ばしゃばしゃと泥を跳ねながら四人は駆け抜けました。
帰ったら何を言われるか分かりませんが、そんなことは今は考えていられません。あと少し、あと少しと思うたびに距離が延びていくような気がします。どうしてこんなに奥深くに小屋を建ててしまったんだろう、と走りながら和真は唇を噛みました。
小屋がありました!
傾いていますが、無事のようです。和真の家の雨戸は壊れたのに。まさに奇跡としか言いようがありません。
「あおい!! 大丈夫!?」
四人は小屋の中を覗き込みました。隅っこで丸くなっている毛の塊があります。
あおいです。
「うわ、やっぱりびしょ濡れだ……!」
抱きかかえながら、和真は呻きました。小屋は無事だったとは言え、雨は普通に降り込んでいたのです。奥の毛布が、ぐっしょりと濡れて重たくなっています。
「ここにこれ以上いさせるのはまずいよね……」
友洋は悔しそうに足元を睨み付けています。「ぼくの家で引き取れたらよかったのになぁ……」
「うちもたぶん無理だと思う! ごめんっ!」
暴風雨の中、未菜も叫びました。和真は優衣をちらっと見上げましたが、すぐにあおいに目を戻します。私もぜったい無理、とその目が語っていたからです。
自分しか、いない。
「オレの家に行こう、あおい!」
言いながら、ランドセルの蓋を和真は開きました。中は思いの外、濡れていません。あおいを上手く入れてしまうと、すぐさま蓋を閉じます。
あとは、ここから家に帰るだけです。一刻も早く戻らなければ、みんな凍えてしまいます。
「戻ろう、カズ!」
叫んだ友洋の頭上を、飛行機が爆音を上げながら通過していきました。その音はいつもと違って苦しく、辛そうでした。