chapter-10 憂色の交番
次の日は、日曜日。
今週は授業参観があったので、休みはこの日だけです。思いっきり遊ぼうと、ずっと前から和真は決めていました。
しかし、どうも気乗りがしません。昨日のお母さんの顔を思い出してしまうのです。
気にしたら負けだとは、分かっているのですが。
「まあ、いっか」
そう思って、和真は出掛けて行きました。
いざ交番に着いてみると、他の五人は既に中にいました。紙とにらめっこしていたお巡りさんがこちらをちらっと見て、またお前か、とでも言いたそうな顔をします。
あおいは、ぐっすりと眠っていました。
だらんとしたしっぽを擦りながら、友洋が振り返って苦笑いします。「今朝、お世話しに来た時からすっごく眠そうでさ。しばらくしたら寝ちゃったんだ」
「へえ……」
穏やかなその寝顔を、和真はそっと覗き込みました。時おり、長く細いヒゲがぴくっと可愛らしく動きます。
ここ数日間は、あおいにとってもストレスフルな時間だったことでしょう。きっと、眠たくて仕方ないのです。
そしてよく見れば、他のみんなもずいぶん暗い顔をしています。
「……なにか、あったの?」
お巡りさんには聞こえないように小さな声で尋ねると、優衣が答えました。
「お母さんに、質問された。牛乳が減りすぎだって」
「あ、うちもだ」
「オレの家も」
「私のとこもだよ……」
なんと、全員が聞かれているようなのです。
メンバーはほぼ、向こうに明らかになったと見て間違いはないでしょう。
少しどんよりとした空気を破るように、和真は声を張り上げました。
「みんな、外行こう! こんなところにいたら眠くなっちゃうし!」
和真の声に頷いたみんなは、あおいをそっと寝かせたまま外へと遊びに出てきました。
ここ天空橋の先には、広大な東京湾が横たわっています。岸壁に沿うように続くらっぱの口のように窄んだ先は、多摩川の河口です。
六人は小さい頃からずっと、この街で育ちました。ですからみんな、どこが遊ぶのに向いている場所かなんてよく知っています。
交番の少し先に行くと、道路のそばにのっそりと立っている真っ赤な鳥居。その下でみんなは鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしてしばらく時を過ごします。
不思議です。夢中になって遊んでいると、問い詰められ困惑した昨日の記憶も、遥か後方へと流れて行きます。ふっと気づいた時には、二時間が立っていました。
「疲れたねー……」
額の汗を拭いながら、紗耶香は笑います。「でもなんか、すっきりした!」
「オレも!」
「あんたは最初から気にしてなんていないでしょー」
「何を! サヤカこそ怒られてめそめそ泣いてたんだろー!」
「違うわよ! バカにしないでよ!」
……この二人も今や、通常営業です。
気がつけば、もうお昼の時間も過ぎています。あおいがそろそろ、起きているかもしれません。ご飯をあげなければ。
「交番まで戻ろうよ!」
未菜の声に、みんなは交番へと駆け出しました。
帰って来てみると、お巡りさんはいなくなっていました。
「巡回中」と書かれた札がかかっています。パトロールに出向いているのでしょう。
そしてあおいは──まだ寝ていました。
「起きないね……」
そっとしゃがみ込むと、優衣はその頭をやさしく撫でてあげます。その横で牛乳を器に注ぎながら、友洋がふと思い出したように言いました。
「ネコって、もとは『寝る子』っていう名前だったのが短くなったんだって、本に書いてあったなぁ」
へえ、とみんなは口々に感嘆の声を漏らします。友洋のうんちくもさながら、その的確な名付けのセンスに、です。
「確かに、よく寝てるよねー」
「こんなに寝てたら、夜は眠くなくなっちゃうんじゃない?」
「きっとネコは夜更かしなんだよー」
……だんだん声が大きくなってきました。
あおいが起きちゃう。そう思った優衣は、五人に向かって指を立てます。
「しーっ。あおいちゃんを起こしちゃったら、かわいそうだよ」
はっとしたようにみんなは口を閉ざします。
さわさわさわ、さわさわさわ。
静かになった交番の中に響くのは、あおいを撫でる細やかな音だけで────
ぐーーっ。
「…………」
誰でしょう、今お腹を鳴らしたのは。
和真たちは目だけでお互いを詮索しようとします。その時、二度目が鳴りました。
顔を真っ赤にして俯いたのは、優衣です。
「……ユイ、お腹空いたの?」
「すごいタイミングだったねー」
「はぅ……」
みんなに囃されて、優衣は恥ずかしくて死にそうです。
どうして今、お腹が空いてしまったんだろう。優衣は自分の身体を呪いますが、どうしようもありません。
「オレたちも一旦帰って、お昼食べよっか」
和真が言いました。そうだね、とみんなも後に続きます。出遅れた優衣、一番後ろをとぼとぼとついて出ました。
ゴオオオオ───!
爆音が響き渡ります。長い長い翼をいっぱいに広げ、飛行機が六人の上を飛んで行きました。
「来るのおそいよーっ!」
優衣は涙目で叫んだのでした。
春の海、ひねもすのたり、のたりかな。
季節が逆転しているとは言え、そんな古の和歌を彷彿とさせるような綺麗な秋空が、その日は東京を覆っていました。
しとしとと降り注ぐ陽光の下を、幾つもの飛行機が飛び交います。羽田の町は今日も、平和です。
いつも通りの警邏を済ませたお巡りさんは交番に自転車を停めると、中へと入りました。お腹が減っているのは、お巡りさんも同じです。
「腹へったー……」
呟きながらふと下を見ると、そこにはあの子ネコがちょこんと座っています。
ここを出た時には、まだ眠っていたはずです。飲みかけの牛乳のお皿が、脇に置かれています。
朝も昼も晩も欠かさずここに来てお世話をしていくあの子供たちが、思い浮かびます。
ふっと息を吐くと、お巡りさんは子ネコ──あおいを抱き上げました。
真ん丸の瞳が、お巡りさんを魚眼レンズみたいに映しています。
お巡りさんとあおいは、真正面からしばらく見つめ合いました。
確かに、可愛い。お持ち帰りしたくなるくらい可愛い。今なら、あおいを最初に見つけたという萩中和真の気持ちも、分かる気がします。
誰にとっても、子供は可愛いものなのです。まして、子ネコともなればその愛らしさは格別でしょう。
思わずお巡りさんは、魅入ってしまいました。
──それにしても。
あおいを高い高いしながら、お巡りさんはふと考えました。
和真たちが発見した当時、あおいは段ボールに入れられて茂みの奥深くにまで連れていかれていたといいます。考えてみれば、不自然なことです。捨てネコだとしたって、もっと手前に置いておけば済む話ではありませんか。
先日の野犬の話といい、どうにも違和感を拭い切れません。実は近いものを未菜も抱いていたのですが、彼女はまだそこまでは思い至ってはいないのです。
「羽田署が昨日調べた限りでは、野犬は六頭だったが……」
もっといるかもしれないな。直感で、お巡りさんはそう思いました。
あおいはまだ持ち上げられたまま、足としっぽをぶらんぶらんと振っていました。