第九章
「うん、まだ考え中」
妹は猫を撫でながら言った。
その意識はさっききよりも確実にこちらに向いている。どうやらリスク軽減策は成功したようだ。
蘭は運動だけでなく学業の成績もいい。
どれくらいいいのか? 少なくとも僕よりは遥かにいい。高校も僕よりいいところに行っているし、そこでの成績も優秀ときている。その上、生徒会所属だ。このまま行けば大学だっていいところを狙えるだろう。
「お兄ちゃんはどう思う?」
「うん? どうって……そうだな……」
僕は少しだけ考えるように間をとった。正確には考えるフリをした。
自分よりも優秀な妹に、引きこもっている事を隠している僕が何か答えを示せるとは思えない。正直、妹に何を言ってやったらいいのか、どんなアドバイスをしたらいいのか、皆目も見当もつかない。
蘭はおそらく、僕がまだ実家にいる時の印象が残っているのだろう。そのころは僕だってまだ勉強を頑張っていたし、その頃、中学生だった蘭には勉強を教えたりもしていた。
現役の高校生が中学生に教えているのだからたいした話でもない。蘭からすれば優秀なできる兄だと思っているかもしれない。
ただ、現実はそうでもない。
受験で失敗。予備校に通いながらの始まる絵に描いたような堕落と下降する成績。
その結果、当初見向きもしなかったレベルの大学に通っているのだ。もっとも、その大学ですら足を運べていないのが現状だ。
蘭がやっている勉強内容で、蘭よりも点数をとれる自信がない、という事を自信を持って言う事が出来る。
立場は逆転しているのだ。勝っているのはこの世に生きている時間と彼女が勉強している間に身につけたゲームの知識ぐらいのものだ。
「お兄ちゃんの行ってるとことかどう? お兄ちゃんなんでそこにしたの?」
「……うん、まあ、そうだな……」
妹のまっすぐな瞳に僕は言葉を濁した。変な汗がじわりと背中を伝う。
真実を知らない妹のその目は不出来の兄を信頼しきっている。妹と猫は兄の言葉を待ち、こちらを見上げていた。
「……い、いい所だよ。講義はわかりやすいし、かわいい子も多いな、女の子のレベルも高いって言うか……」
普段使いなれない言葉を使ったためにアクセントがどこか不自然だった。
「本当?」
「お、おう……でも、お前には向いてないかもぁ……」
「なんで?」
「うちの大学、外国語にはそんなに力入れてないみたい、って言うか、あんまりいい噂を聞かないっていうか……」
僕はてきとうな事を口から出るままに言った。実際の所、本当にそうかはよくわからない。蘭が語学に興味があったのを思い出してとっさにそういったのだ。
「そうなんだ……お兄ちゃんと同じ大学でもいいいかなって思ってたんだけどな……」
「いや、辞めておいた方がいいかもなぁ、うん、残念だけど、別のところを考えた方がいいと思うよ」
がっかりした様子の蘭を見ながら、僕は安心して一人胸を撫で下ろす。
こうして、僕は兄の名誉と妹の幻想を守り切った。
やれやれ……。
僕は手慣れた手つきでお茶を入れ、湯のみの一つ妹の前に、もう一つを猫の前に置いた。
「ええ? お兄ちゃん、クロちゃんはお茶飲むの?」
「えっ?」
しまった、いつものクセで……!?
猫専用の湯のみを猫の前に置いてしまった。
驚いて笑っている蘭の横で猫が睨んでいる。
「い、いや、これは、自分で飲もうと思ったに決まってるだろ?」
僕はすばやく猫の前から湯のみを取り上げ、何事もなかったかのようにお茶をすする。
「ああ、私のお茶よ、何するのぉ」
蘭が猫を抱き上げながら、声色を変えて猫が言っているかのようにセリフをつける。
やめてくれ、猫が睨んでる……。
「あ、そうだ、なんか作ってあげようか?」
「い、いや、いいよ。今日はここに来たのは何かのついでだろ?」
「うん、まあ、そうだけど……じゃあ、また遊びに来てもいい?」
「お、おう、いいぞ」
「本当? やった、じゃあ、そのときはクロちゃんにもなんか買ってくるね」
それからしばらく何でもない話をして、蘭は猫を充分堪能したあと帰って行った。
「やれやれ……」
「……いい子ね」
「でも、こんな時間までここにいてよかったのかな? 用事があったんじゃないのかな……」
「あなたに会いにきたのでしょう?」
猫は蘭の座っていた座布団の上、毛並を直しながら言った。
「まさか……」
何のために? そんな意味のない事を?
怪訝な顔の僕に猫はフンとため息をつく。
「あなたがあなたを思っているように、彼女があなたを思っているとはかぎらないわ」
「……」
それから、猫はいつものように僕にお茶を要求するのだった。
「その湯のみ、ちゃんと洗ってよね」
「わ、わかってるよ」