第七章
「うん……」
猫がムクリと起きる。
「お、目を覚ました。猫はよく寝るっていうけど本当だな」
僕はゲームパッドを手にしたまま起きたばかりで開き切らないで目つきが悪くなっている猫を一瞥してすぐに画面に視線を戻した。
ちょうど手が離せないところだ。
猫はダンボールの爪とぎで爪を研ぎ、爪の状態を目で確認してからもう一度爪を研いで仕上げをする。それからテレビ画面を前に座る僕の真後ろに足音もなく近づき静かに座った。
「……」
「……」
緊迫した戦闘と白熱の音楽、手汗で濡れたゲームパッド。ゲーム世界で剣と盾を手に、仲間から援護されながら、巨大な敵の注意を引き、躍動感ある剣捌きと与えられたスキルを駆使して敵を討つ。
勝利は目前……。
「太陽、のどが渇いたわ」
「ちょっと待てよ、もうすぐ終わるから」
わかっていたさ。
起きるといつものパターンだ。
猫は僕にお茶を入れさせる。
とはいえ、こっちも取り込み中だ、そう簡単に手を離すわけにはいかない。今ここで僕が倒れれば、仲間に被害が……。
「電源切るわよ」
「いや、ちょっと、待てって、オンラインなんだぞ! それに今ボス戦だし!」
「猫がやったって言えば?」
僕の言葉などまるで興味がないかのように、猫は顔を洗う。
とんでもない事にこの猫は本当にやる。
今まで二回もコンセントを抜かれ、強制終了を強いられている。今までは事なきを得たがこんなタイミングでやられてたまらない。
「そ、そういえばさ、猫ってやっぱりよく寝るんだな。よく寝る子で、ねこって言うって何かで読んだような気がするよ」
僕は話題をそらそうと努めて調子よく言った。
「まあね」
猫はおもむろにゲーム機のコンセントを覗き込んだ。
「ちょ、ちょっと、待てって、そうだ、猫も夢とか見るのか、あんだけ寝てるってことは」
その言葉に猫はふっと動きを止めた。
「そうね……昔の事とか。よく見るわね」
「昔の事? それってどんな?」
「秘密」
猫はコンセントに興味を失ったのか、寝床になっている座布団のところに戻り、ゴロンと横になった。どうやらおとなしく待つ気になってくれたようだ。まあ、急げと催促するような無言のプレッシャーが背中に突き刺さってはいるのだが。
「あの……」
「まだ?」
「いや、もう終わるから、五分待って」
「三分で終えなさい」
「くっ……」
確かにスムーズに行けば、ギリギリ三分ほどで終わる展開だ。どうやら、このゲームのパターンを猫も覚えてしまったらしい。
僕はチラッと時計を見た。
もうこんな時間だったのか、確かに一区切りつけたいな……。
ミスしなければ勝てる。みんなミスするなよ。
祈りが通じたのか、戦いに勝利を治め、僕は冒険の旅から離席する。
「お茶でいいんだよな?」
「そうよ、濃い目ね。お茶の葉はけちらないで。お茶がまずくなるわ」
やれやれ……。
お茶を入れるためお湯を沸かし、急須にお茶葉を多めにいれる。
全く、どんな味覚だ。
お湯を注ぎ、百均で買ってきた猫用の湯のみ濃緑の液体を猫に差し出した。急須の中に残った残りは僕のマグカップに入れる。
うう、すごい濃く出てるぞ。
漫画とかで見る高級寿司店とかで出てきそうな感じだ。
猫は顔を近づけ温度を確認してから器用にお茶を飲んだ。
「ふん、まあまあね」
本当かよ。文句がないならいいんだけど。
窓の外は日も傾きかけ、空が赤くなり始めていた。窓際に腰かけ、歩いていく人影に目を向けた。
もうすぐだよな……。
猫が来てからというもの、生活リズムは以前よりはるかに安定している。
何せ、お茶に食事にといろいろと用意しなければならないからだ。
一日中寝ているようでいて、猫の生活は意外にも規則正しい。
「あ……」
僕は思わず身を乗り出して頭を窓にぶつけそうになった。
通りの向こうから彼女が歩いてくる。
園田菜ノ葉。
コンビニで遭遇したときは思わず隠れてしまったが、このぐらいの距離からならじっと見ていられる。
もっとも、見ていられると言っても、この近所に住んでいると思われる彼女がここを歩いていくこの時だけ。そもそもこの時間帯に彼女がこの道を通るということを知ったのも偶然だった。
ほかの行動パターンを僕は知らない。ただ、僕にとって一日の楽しみであることにはかわりない。
「きれいな子ね」
「うん、まあ……」
猫も覗き込むように彼女の姿を見たが、すぐに彼女の後ろ姿だけしかみえなくなった。
彼女の顔や正面が見えているのは三分にも満たない。僕はそれでも名残惜しく彼女の後ろ姿が見なくなるまで、彼女のことを見続けた。
「好きなんでしょう?」
「別に、そんなんじゃないよ……」
「うそが下手ね、ごまかすというレベルにも達していないわ」
「……」
猫は相変わらずの口調で言いながら、湯のみからお茶を飲んだ。
僕もカップを口に運んだ。口がふさがっていれば答えない理由にもなる。
「で、告白はしたの?」
「……!?」
思わずお茶を噴出しそうになった。
「だから……!」
「してないのね」
「ああ、そうだよ。告白なんかしても……」
「フラれるだけ。かしら?」
猫は俺の言葉を遮り、僕が言おうとした言葉をそのまま続けた。
「確かに、彼女とあなたではつりあいが取れないものね」
「くっ……」
僕は言葉を返すことができなかった。確かにそう思う。自分でもそう思っていたからなおさら言い返せない。
前からそう思っているし、わかってもいる。彼女とは同じ大学だし、年齢は違うが学年だって同じだ。同じサークルだし、これだけだったらなんの引け目もないはずだ。
「……」
でも、僕はどこかで道を踏み外してしまったような……そんな感じだった。
彼女が何か遠い存在のような気がしてしまう。
テレビやネットで見るアイドルや女優みたいなものだ。見ていることしかできない存在。それが僕にとっての彼女だ。
そして、始末の悪いことに日に日にその感覚が強くなっていく。彼女をここで見るたびに、どんどん……。
本当は、もうどうしようもないほどになっている。そう思う。
「さてと」
猫はぐっと伸びをする。
「お腹が空いたわ。食事にしてくれる?」
「まったく寝てしかいないくせに」
猫が急に話題を変えたので、僕はすぐに今の思いを心のどこかへと追い込んだ。
「そうだ、前から聞こうと思っていたんだけど」
「何?」
「お前、名前はなんていうんだ?」
「名前? あら、私に興味があるの?」
猫は少し驚いたように目を見開きながらゆったりとしっぽをゆらした。その口調は明らかに茶化している。
「そういう意味深な事じゃなくて」
「好きに呼びなさい。呼びたいように呼べば答えるわ」
「そ、そっか、そういうもん?」
「変な名前で呼んだら返事しないけどね」
そう言って猫は少しだけ笑った気がした。
猫は不思議な存在だった。
まったく読めないような答えや行動をとったりする。僕は、本当にこの猫が僕の創造の産物ではなく、確かにそこに存在しているのだな、改めて思った。