第六章
私は少し間をおいてからそう返した。
もしかしたらと思ったが。予想していたとはいえ……。
「意外だったか?」
「ええ、そうね。私は、もっとあなたが生きることに執着すると思っていたわ」
私は彼の言葉に率直な感想を述べた。
この大きな屋敷も、部屋にある高価な絵、質のいいカーテンや毯も、何気なく飾ってある埃をかぶった歴史のある貴重な調度品も……すべて彼が一代で成功し、手にしたものだ。
死はそれを別つものとなろう。
実のところ、私は彼が本にサインするとは思っていなかった。
「私はあらゆるものを失った……」
彼は静かに言いながら、私につけた名前を口の中で反芻した。
朝子は、もうずいぶん前に亡くなっている。事故でなくなったのだ。危篤状態の彼女の元に、彼は仕事を優先して戻らなかった。結果、彼はそのときの取引で自らの財を不動のものとし、家族、子供たちの信用を失った。
「私はお前が、朝子が最後にくれたチャンスだと思う」
「どうかしら?」
「守ってやろうと必死だったんだ、信じてもらえないかもしれないが」
「そう」
その言葉が私に向けられたものではない事はすぐに察しがついた。時折、彼は朝子に謝罪とも弁明ともとれる事を口にする事があった。
今もまたそうだった。彼はなくなった妻や離れて行った家族の幻影をその目にうつしている。
幻影と現実を行き来する事も最近は多くなってきた。
「それに、老いれば席を譲るものだ」
彼は一つため息をついた。
「若い頃にそう言った。だが、私は譲るタイミングを間違えた。だから、もう間違えたくはないんだ。……朝子、一つ頼みがあるんだ」
「何かしら?」
「孫娘。覚えているか?」
「ええ、ここに来たことがあるわね」
彼の血縁者の中で唯一彼の元を訪れる人間だ。
その真意を私が知るよしもないが、私がここに来てから訪問者の中で、金で雇われた人間以外の唯一の人物である。
「あれの親は、私が殺したようなもんだ……もし、あの子に何か困ったことがあったら……」
「あったら?」
「一度だけ助けてやってほしい」
「一度だけ?」
「そう、一度だけ。もし、どうしてもの時に、一度だけ」
「……そう。別にいいけど、確約はできないわよ」
私の言葉に彼は動きづらくなった顔をわずかに動かし、また微笑んだ。
「それでかまわない」
「なら、約束しておきましょう」
私の言葉を確認すると、彼はゆっくりとした動作でベッドの脇においてあった黒い表紙のあの本を手にとった。
厚みのある表紙をめくると、表紙の裏に赤黒いペンがはめ込まれていた。それを手に取り、さらにページをめくる。
めくられていくページの一枚一枚にはそれぞれ一枚につき一人の名前が書かれている。
「……ここか」
「ええ」
サインの場所を示すためのアンダーラインがそのページの下の方に引かれていた。
そのページは白紙で、サインをする欄以外、ほかには何も書かれてはいない。
「まるで契約書だな。私の最後の契約書、白紙の契約書……といったところか。こんなに心躍る契約書は初めてだ」
彼の言う通り、もし白紙の部分に何らかの文言が書かれていたとすれば、それはまさに何かの契約書といっても差し支えないないだろう。
ただ、名前を書くまでは、いや、名前を書いたとしても、書いた人間がその内容を知ることはない。
彼は表紙裏にはめ込まれていたペンを手で転がし、その細工に感心した。
そのペンは細かな細工と赤黒い色合いが印象的だった。
手にとって間近で見れば、その細工がどこか生物的で、まるでペンそのものが何かの生き物、もしくは生き物の一部に見えることに気がつく。
彼は近くにあった薬の入った紙袋に試し書きをしようとしてペンを走らせたが、紙袋にその痕跡を残すことはできなかった。
「……?」
「そのペンはその本にしか書くことはできないわ」
「ふふ……なるほど……」
彼は妙に納得したように頷くと、今度は本の空欄に自分の名前を記した。赤黒くわずかに滲んだインクが薄いクリーム色をした紙の上に刻み込まれた。
上屋正三。
すっかり細くなってしまった彼の腕から書かれたものとは思えぬほど、その字は力強かった。
「一つ、聞いていいかしら?」
「うん?」
「この本にサインをしたあなたに聞いておきたいの」
「うむ」
「どんな人間だったら、この本にサインをしなかったとおもう?」
「……サインをしない人間、か」
彼は私の言葉を反芻しながら少し考えた。
「……私がもしもっと若かったら、もっと悩んだだろうな。長く後悔をしたが、それでもまだ足りない……時間が解決するほどに、私の時間は足りていなかった……」
「そう……」
「……そんな所か。さて、少し休むとしようか」
彼はそう言ってベッドに再び体を横たえた。
最後の眠りだ。
私は彼が眠りに落ちるのを見届け、静かにその場をあとにした。