第五章
一週間。
洗濯物を移動して、駅前の百均で買ってきた小さな座布団を、猫が指定した場所に置いた。
猫は「もっとふかふかのがいい」と不満気であったが、ひとまず寝る場所はそれで過ごしている。
食事の度に濃いお茶を入れ、生どらはコンビニでなんどか買ってきた。キャットフードを買ってきてみたが、見向きもしない上、「猫用? ふーん」と鼻で笑われてしまった。
なぜ、猫にキャットフードを与えて、馬鹿にされなければならないのかよくわからないが、それ以来キャットフードは買っていない。
例の本はあれから触れてもいないが、本に埋め込まれた時計の針はわずかにだが進んだようにも見える。
どうやら動いているのは確からしい。
それ以外は相変わらずの日々が続いている。
部屋から出るのは最小限。
寝て起きて、つけっぱなしのままの冒険に旅立ち、レベル上げとレアアイテムを求めての戦いのループ、いつのまにか時間が過ぎて日が暮れる。
そんな日々だ。
こんな非日常的な事が起きたというのに僕の生活は少しも変化しない。
密かに期待していた本を巡っての事件や、猫と本を追う追っ手が現れたり、不思議な力が覚醒したり、満月の夜に猫が美女になったり……。
そんな事はこの一週間では起こらなかった。
もしかしたらだが、今後もそんなことは起きないのかもしれない。
変わった事と言えば、猫がいるようになった分、少しだけ生活リズムが一定してきたことだろうか。猫は無駄に生活リズムが規則正しい。
朝は早いし、食事の時間も一定している。
そのたびに用意しなければならないので、自ずと僕自身も同じ時間に食べる事になる。何度も用意するのは面倒だからだ。
気になる事と言えば、猫があれから本の話をしないことだ。「サインした方がいいんじゃないの?」などと少しでも口にしたり、それらしき事をほのめかすこともない。
てっきり、なんだかんだ言って、サインさせる流れにもっていくのではないかと警戒してはいたのだが、そんな素振りはまるでない。
猫の行動は不可解だ。
もし何か天変地異のような大事件が本当におきるのだとしたら、猫だって無事では済まないはずではないのか。
それともまだ一週間しか経っていない、ということなのか?
本の針だってほとんど進んでいない。
まだまだ長期戦だぞ、チャンスをうかがっているんだぞ的なことか?
僕は単調なレベル上げ作業を淡々と繰り返しながら、そんな事ばかり考えていた。
おかげで経験値も素材もお金も幻想界では順風満帆な生活ができそうだ。
「……」
大体、常識的に考えて、こんなものにサインする奴などいるとは思えない。
もし、死ななかったとしても、死ぬといわれているのに試しに書いてみようという奴もいないだろう。
猫も不思議だが、この本も不思議な本だ。
厚さはちょっとした辞書ほどある。開ける勇気はないが、中身が気はならない事はない。
しかし、呪いがあったり、急にしゃべり出したり、本を開いた瞬間にドギャーン! とかいう謎の効果音とともに「フッフッ、今、本を開いたわね?」なんて猫がゴゴゴ……と立ち上がるような急展開が起きても困るので開けないわけだが。
「そういえば……」
猫の名前、なんていうんだろ? まだ聞いてなかったな。
☆
私は薄暗い部屋の中にトンッと降りたった。
ここは常にカーテンが引かれ、昼間でも淡い光のみがわずかに透過してくるだけだった。
部屋の空気はその雰囲気と同じように床に沈殿している。
積もった空気の層を引き裂きながら私は足を進めていった。
冷たい空気。冷たい床。薄暗い部屋。そしてベッド。
味気ない介護用ベッドに人間が一人横たわっている。
私はベッドに飛び乗ると、横たわるその男を覗き込んだ。
「朝子、散歩を終えてきたのか……」
「おはよう正三。今日も目覚めることができたわね」
私はそう言って、ベッドの男、上屋正三に朝の挨拶をした。
さわやかな朝、というわけには締め切られた部屋である以上言うことはできない。
もっともそれは、それ窓の開閉よりもベッドの近くにおかれた医療機器の音がわずらわしさによるものかもしれない。とはいえ、これが今彼の生命をこの世界に繋ぎ止めているのだ。
病と老衰。
彼の命は日を追うごとに小さく、そして力を失っていっている。
「朝子……」
朝子とは彼の妻の名だ。そして、私の今の名前でもある。
彼の妻はもう何年も前に亡くなっている。事故であったと以前彼から聞かされた。
「まさか、自分がこんな風になるなんてな……体は動かず、起き上がるのですらやっと、用を足すのでさえ一苦労だ」
「でも、今日も目が覚めた。あなたはまだ生きているわ」
口癖のように言う彼の台詞に私もまたいつもと同じように言葉を返した。
彼は細くなった腕で自分の体を支えながら、懸命に体を起こそうとした。私はその光景を手伝うこともせずただ待った。
そんな僅かな助力であっても、プライドの高い彼が拒否することを知っていたからだ。
彼は、若者の何倍の時間をかけ体を起こし、そして微笑んだ。
「実はずっと、考えていた。だから寝ていない」
「そう」
私は彼の言葉に頷いた。
広い屋敷の広い部屋で、身動きもままならず、明かりも自分でつけにいくことはできない彼からすれば、眠りを拒否した事は孤独をいつも以上に感じさせたに違いない。
私はベッドの横の棚に腰を下ろし、ちょうど彼の視線と同じくらいになった。
彼は自分の手を見つめたまま、しゃべりにくそうにゆっくりと言葉をつむぐ。
「あの本、残りの時間はどれほどある?」
「まだ少し残っているわ」
私はベッド脇に置かれたあの本に目を向けた。
針は残り四分の一ほどのところを回ってきている。ここまでのペースで針が動いていくならば残り時間はおそらく三ヶ月ほどだろう。
「そうか、ならば私の時間もまだあるのだな。人間の言う事などあてにならんという事だ」
彼はそう言って短く息を切らしながら「くっくっ」と笑った。
確かに、すでに医者の言う彼の余命はとうに過ぎていた。
「……その針が重なる前に私が死ぬ事もないだろう?」
「……」
私は答えなかった。
ただ彼の勘のよさに少しだけ感心した。
「とはいえ、やっと決心がついた。……その本にサインをしよう」
「そう」