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第二十六章

 本。

 サインをすれば、これから起きるかもしれない災厄を防ぐ事ができる。その引き換えにサインをした人間が死んでしまうという謎の本だ。

 本当にそんな事が起きるのか、それを確かめる事はできない。

 本の事は秘密にされ、本に関わった人間は死ぬか記憶を失っているからだ。

 本当にそんな災厄が起きるのか、それすらもわからない。前兆のようなものもなく、異変を感じる事もない。

 普通だったらこんな話を信じるはずもない。

 それも、本を持ってきたしゃべる猫や記憶を失った関係者に会いでもしなければの話だ。

 残念だけど、これは本当らしい。

 少なくともサインをしたら死ぬ。そして、サインをした人間を知る人達の記憶から、その人物の事も消えてしまうのだ。

 ページを開いた本を前に、生き物を思わせる不気味なペンを握りながら、すでに一時間以上もペン先を降ろせないでいた。

 それをもう何日も繰り返している。

 名前を書くことができない。

 この本にサインをしなければ、誰かが死んでしまう事やそれが自分にしかできない事だとい事、そして何より、僕自身がここにサインをすると決めたんだ。決めたはずなのに……。

 死んでも、忘れられても、それでも、蘭や母さんや父さん、園田さんに生きてほしいと思ったんだ。だけど……。

「恐い……」

 恐いんだ。死ぬ事が。

 少し前までいつだって死ねるくらいに思っていたのに、いざとなったらとても出来ない。

 手が震え、小刻みに揺れるペン先はとても名前なんか書ける状態じゃない。この気持ち有類ペンを握っているだけで吐きそうだ。

 この本にサインをした人たちは、どうしてこんな風に震えもせず名前を書けたのだろう?

 書いたら死んでしまうのに、普通の精神状態で書けるはずない。

 でも、名前! 名前、名前! 名前を書かないと!

 黒田太陽。今まで一番多く書いてきただろう漢字の組み合わせ。目をつむっていたって書けるはずなんだ。

 それが、もう書くと決めた日から何日も経つ。明日は書く、明日は書くと思い、書けずに今も書けない。

 本の針はずいぶん進んでいた。時計で言えば、十一時の所をすでに回り、あと僅かで十二の場所で針が重なる。

 もう時間がない。時間がないんだぞ……!

「太陽、悩んでいるのね?」

「……」

 デスクの上に飛び乗った猫は、大きな瞳を細めながら、本の前で身動きのとれなくなった僕を覗き込んだ。

 猫は相変わらず僕に書くように催促する事、書かせないようにすることもない。

「おそらくあと三日ほどかしらね」

「……」

 猫の言葉が強烈に胸に響いた。

 もう、あと三日。

 猫が言うのだから、きっと間違いない。

「くっ……」

 すっかり冷たくなった手で必死にペンを落とさないように握りしめる。そうでもしなければペンを握っている感覚すらもなくなってしまう。

「僕は……」

 弱虫だ。

 それすら言葉にできなかった。

 やらなきゃいけない事はわかっている。その方法もわかっている。その意味もわかっている。

 それなのに、一歩も進めない。

 猫は、僕の言葉を待つようにただゆったりと尻尾を揺らしていた。

 猫は何も言わない。

 いつの間にか呼吸をするのを忘れていた、僕は大きく息を吐き出した。

「少し、外、歩いてくる……」

「そう、いってらっしゃい」

 外はすでに日が落ちていた。

 行く当てもなく、ただ歩いた。

 商店街には家路に急ぐ会社員やОLの姿が見える。僕は後ろから歩いてくる彼らに追い越されながら、目的もなくただトボトボと歩いていた。いつの間にか、園田さんの家の方に歩いて来ていた事に気がつき自分でも少し嫌になった。

 こんな所に来て、どうしようって言うんだ。

 ほんの僅かにでも、園田さんに会えるかもしれないと期待していたのか? そんな事をおきるはずがないのに。

 それに会ったからと言って何がおきるわけじゃない。

 僕は園田さんの家の近くの僅かな遊具とサッカーができなそうなほどの開けた空間のある公園のベンチに腰かけ空を眺めた。

 こうしていても時間が過ぎていく。

「……ああ」

 思わず声が漏れた。

 何故、誰にも言ったらいけないんだ?

 誰かに言いたい! 不満とか愚痴とか弱音とか、これから死んじゃうかもしれない事をいいたい! ……同情されたい。大変だねって、辛いねって言われたい……誰かと憐れんでほしい、優しい言葉をかけてもらいたい……。

「書きたくない……」 

 書きたくないんだ。生きたいんだ。本当は!

 だって、サインしたら死んじゃうんだぞ! 

 まだ、女の子と手をつないだ事もないのに!

 僕は一人頭を抱えながら、ベンチでうずくまる。

 サインしたくない。死にたくない。

 当然じゃないか。死んだ上にみんなの記憶からも消えて、誰も覚えてくれてなくて……。

「えっ?」

 気がつくと大きなぬいぐるみのような白い犬が僕のことを見上げていた。

「わんっ」

「うわっ!?」

「こ、こら! そっちはダメだって言ってるのに! あっ……」

「えっ? 瑞樹ちゃん?」

 よく見れば白い犬のリードの先には、この前見た制服姿ではない普段着姿の瑞樹ちゃんの姿があった。

「黒田さん、ですよね?」

 暗くなってよく見えなかったのか、おずおずと僕の顔を見ながら名前を口にする。

「うん」

「よかった。間違いないですよね。人違いだったらどうしようかと思っちゃいました」

「う、うん」

 声を弾ませる彼女に僕は曖昧に頷いた。

 この前、あれほど警戒していた印象が強かったせいか、知り会いに声をかけるような彼女の口調に逆に緊張してしまう。

 それにこんな場所にいて、変に思われないだろうか、ストーカーみたく思われないか、僕は頭の中で適当な言い訳を考え始めていた。

「あ、犬、飼ってたんだ。散歩中?」

「はい、この子元気がよくて、こんなに大きくても子供なんですよ」

 明るく話す彼女と僕の膝に手をつき、何やら匂いを嗅いでいる園田家の白犬は上機嫌に尻尾を振っている。すでに柴犬ほどの大きさがあるが、しっかりとした太い足はこれからまだまだ大きくなるよと言っているかのようだ。

「グレートピレニーズっていうんですよ。すごく大きくなる種類で、名前はベルっていうんです」

「そうなんだ」

 やや早口でベルを紹介する彼女はこの前会った印象とずいぶん違っていた。普段着だからか、二度目だからか、僕は少し押され気味になりながら、社交辞令でベンチの隅によって席を薦めた。もちろん、座らない事などわかっている。

 特に親しくもない一度会っただけと座ってまで話し込む事もない。

 しかし、予想に反して「じゃあ」と言って僕のとなりに腰かけた。

 と同時に二人の間には妙な緊張感と沈黙が居座った。

 あ、あれ? 何だこれ?

「……えっと」

 ベルが今度は僕の靴の匂いを嗅ぎ始めたので、その頭を撫でてやろうと手を伸ばそうとした所で、彼女が思い切ったように口を開いた。

「あの、この前の事なんですけど……」

「この前……?」

 あっ、と僕は察しがついた。彼女が妙に早口だったのも、隣に座ったのも、きっと僕がした告白を姉の菜ノ葉さんに伝えた答えを言おうとしての事に違いない。

「姉の事なんですけど……」

 僕は息を飲んだ。どんな答えが返ってくるか、大体の予想はついている。

 僕は慌てて手を振り、彼女の言葉を遮った。

「ごめん……」

「えっ?」

 ほとんどわかっている。彼女の様子からしても察しがつく。答えを聞かなければ少しだけだけど、胸に希望を灯しておくことができる。

 僕がいなくなった時に、僕の頭の中にいる想像の菜ノ葉さんが悲しんでくれる。あの時告白したから、そう思える。あの時の答えを聞かなかったからそう思える。

「伝言、伝えてくれたんだよね?」

「はい」

「だったら、それだけでいいんだ。答えは聞かなくても大丈夫なんだ」

「……そう、ですか?」

 二人の間にまた沈黙が流れた。僕は穴を掘ろうと画策しているベルの揺れる尻尾を見つめながら、必死に言葉を探す。

 幸いな事に、その間、何故だか彼女も待ってくれていた。

「……実は……」

「は、はい!」

「実は、これから大切な用事があって、それでその前に気持ちだけ伝えておきたかったんだけなんだ」

「大切な用事?」

 彼女が怪訝な顔をする。僕は大学生だし、学校はどうするのだろう? とかそんな事を想われるかもしれない。それにそんな用事を前にして気持ちを伝えたいなんて、何だか言い訳としても変だと思う。

「ま、まあ、答えは聞かなくてもわかっているしね」

「そうですか」

 僕が彼女に笑いかけると彼女は慌てて顔を背けた。

「あの、その用事って、そんなに大変な事なんですか?」

「うん、まあ、そうかな……もしかしたら……」

 もしかしたら、もう会うことはないだろうし、そう言おうとして言葉を飲み込む。

 そんなことを言い始めたら、堰を切ったように言葉が溢れてしまいそうだった。

「もしかしたら?」

「うん、少し遠くに行くんだ。どうしてもいかなきゃならなくて……」

 僕は声が震えはじめたのが自分でわかり、慌てて言葉を区切った。手が震えている。ベンチに座っているのに、膝が笑っている。

 情けない。今にも投げ出してしまいそうなのに、こんな事を言って……。

 冷え切った僕の手にふと柔らかな温もりが触れる。

「えっ?」

 瑞樹ちゃんが僕の手を握っていた。顔を上げると彼女と視線がぶつかった。

「あ、あの、頑張ってきてください!」

「……!」

 握られた彼女の手の感覚に、僕はいつの間にか震えが止まっていた。

「……瑞樹ちゃん」

「はい」

「ありがとう」

 僕が笑いかけると彼女はパッと手を離した。

「別に、変な意味はありませんから。な、何か、深刻そうな顔をしていたから」

「うん」

 僕は彼女の感謝しながら立ち上がった。

「ずいぶん、暗くなっちゃったね。散歩の途中だったんでしょう? 家まで送るよ」

「いえ、大丈夫です、近所ですし」

「そっか、そうだよね」

「……」

 僕は彼女に何と言ったらいいのかわからなかった。いい言葉が見つからず、もう一度お礼を言った。

 彼女は少し困ったような顔をしていたように思うが、すっかり暗くなった外で、公園の僅かな電灯の中では彼女の顔色はよくわからない。

 僕は、彼女に別れを告げ、家へと急いだ。

 今なら……。

 早足がいつの間にか走り出していた。

 本当は、誰かが、いつか助けてくれるとか、誰かがきっとやさしくしてくれるとか、手を差し伸べてくれるとか期待しないふりをして期待して、待ってないふりをしながら待っていたんだ。どうして、誰も僕の事をわかってくれないんだとか……そんな風に思っていた。

 認められたい、認めてもらいたい、称賛されて、褒められて、ちやほやされたい。みんなから認められて、初めて自分のいる場所があるような気がしていたんだ。

 誰もが用意されているそんな場所が、僕には用意されていなかった。そう思っていた。

 でも。

 僕の事なんか、どうでもいい存在なのかと思っていると思っていた母さんや父さんも僕の事を心配してくれて、見ていなかっただけでいつでも手を差し伸べてくれようとしていた。

 僕の事を、必要としてくれる妹がいて、期待されていないって思っていたのに、期待されていたり、信用されていないと思っていたのに信用されていたり、たくさんいる多くの人間の中で、僕も唯一の存在だったりしたんだ。

 僕は家に飛び込むと、本の前に座っていた猫が顔を上げた。

「遅かったわね」

「うん」

 猫に頷いた。僕が出て行った時と同様に本もペンもそのままだ。

 今なら書ける。

 僕は帰ってきた勢いそのままにデスクに向かい、ペンをとった。開かれたページは、何も書かれていない白紙のページ。そこには名前を書く欄だけが存在する。

「サインをするの?」

「ああ、サインをする」

「そう」

 猫はいつもと変わらぬ調子で言うと僕の手を見て言った。

「そんなに震えていて名前なんて書けるの?」

 止まっていた震えがまた起き始めている。でも、もう心は決まっている。

「手ぐらい震えるさ」

 そう言った声も震えている。

 サインをしたら死ぬんだ。恐くないはずがない。死ぬのが恐いなんて普通の事だ。

「恐いならやめてもいいのよ」

「やめない。これで、父さんや母さん、蘭……それに、園田さんが死ななくて済むかもしれないんだから」

「ええ、そうね」

 猫はいつもどおりだった。

 ありがたかった。

 僕は気合をいれてペンを走らせた。

 そのページに弱弱しくもしっかりとした字で僕の名前が刻まれた。

 涙がこぼれていた。

「……っ」

 そんな僕を見上げ、猫は初めて見せるような優しげな瞳と口調で僕に問いかけた。 

「ねえ、太陽。サインをしたあなたに聞いておきたいことがあるの……」

 猫の言葉に僕はゆっくりと頷いた。 


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