第二十五章
僕が口ごもっていると、黒くなった猫がいつの間にか少し離れた塀の上からこちらを見下ろしていた。「どうするの?」と興味津々に猫の目が向いている。
どうするも何もないじゃないか。
「いや、いいんだ。だったら日を改めるから」
本人がいないのだから仕方がない。それにこんなに怪しまれているわけだし……。
僕は彼女に背を足早にこの場を立ち去ろうとした。猫の尻尾がつまらなさそうにヘニャリと塀に落ちた。
落胆したのかも知れない。ただ単に、つまらないと思っただけかもしれないが、猫の期待を裏切ったようだ。
でも、だって仕方がないじゃないか。本人に会えたわけじゃないし、言ったって信じてもらえる感じじゃないし、それに何より緊張感が途切れてしまった。
頭のどこから湧いて出て来るできない理由に背中を押され、心地のいい方向へ歩き出そうとしていた。
なんて事はない。色んな事にそうやって理由をつけてきたし、納得させてきた。
今日は、日が悪かった。猫に案内してもらったし、またいつでもやってくる事ができる。
「……」
僕は彼女に背を向け、家に帰ろうと思った。
僕は曖昧な薄ら笑いを浮かべながら、自分の足を見ていた。
こうやって……このまま、帰っていいのか?
心の中で不安が蠢いた。
頭の中を埋め尽くす言い訳の合唱が一斉に沈黙した。
……このまま帰ったら、きっともうここには来られない。
「ごめん、やっぱり今のなしだ!」
物理的に来る事ができなくなるんじゃない。きっと、また同じ事を繰り返してしまう。
今、今がチャンスなんだ。
僕は振り返ると彼女に向かいあった。
「?」
「ずっと園田さんの事が好きだったんだ! ずっと、言いたかったんだけど言えずにいたんだ。だから、今日はそれを言いにきた!」
「……!?」
シンッ。と静まり返る。
彼女とまともに視線がぶつかり合う。大きく見開かれた瞳が僕の視線から逃げるように肩を掴んでいた手に向けられた。
「あの、離してもらっていいですか?」
「あ、ご、ごめん……」
「……」
彼女に言われ、僕は慌てて彼女から離れた。離れた後、僕が掴んでいた肩をさする彼女に、僕は申し訳ない気分になった。
なんて声を掛けたらいいのかわからない。
僕がもう一度謝ろうとした瞬間、彼女が僕に目を向ける事もなく言った。
「今の……お姉ちゃんに?」
「う、うん、すまないけど、伝えてくれる?」
「……」
彼女はうつむいたままコクンと頷いた。
「あの……」
「……瑞樹」
「えっ?」
「園田瑞樹、私の名前」
「ああ、そうか。まだ聞いてなかった。瑞樹ちゃん、お願いするよ」
「……うん」
瑞樹ちゃんが小さく返事をしてくれたが、もう僕の顔を見てくれる事はなかった。
いきなり、こんな伝言を頼まれたら当然の事かもしれない。
僕はうつむいたままの彼女に何か気の利いた言葉で別れようと思ったが、何も思いつかなかった。
「じゃ、あの……またね」
「……」
気持ちが落ち着かないまま、僕は足早にその場を離れて行った。
しばらく歩くと、一人になった所で猫が僕に声をかけてきた。
「まさか、妹に告白とはね」
「伝言だよ、伝言! だいたい……」
「だいたい?」
「もし、OKだったらどうするのさ。決心が鈍るだろ」
……だいたい、本人を目の前にしたらとても言えるとは思えなかった。
僕にしては上出来だ。きっと、瑞樹ちゃんは伝えてくれるに違いない。
「ふーん」
それに告白したとしても、サインをしてしまえば記憶は消えてしまう。
告白だって、僕の自己満足に過ぎない。
そうは思っていても、家に着くころには僕の心は不思議と満たされていた。
☆
「ねえ、お姉ちゃん……」
「何?」
姉の部屋のドアを背にして、瑞樹は静かに切り出した。
菜ノ葉が帰ってきたのは黒田太陽が帰った三十分後の事だった。
瑞樹は帰宅した菜ノ葉の部屋を訪ね、着替える姉を見ながら慎重に言葉を選ぶ。
姉は容姿端麗、成績優秀を地でいくような人物であった。姉に言い寄る男はたくさんいるだろうが、姉にはそれを寄せ付けない独特の感じがあった。
そんなものになど、興味がないとでもいうかのように。瑞樹はそんな姉を、自分とは全く違う存在だと、どこか距離をとって冷静に観察していた。それと同時に憧れに似た感情も持っていた。
姉は妹という立場から見ても女として魅力的だと思った。
「あのね……」
「うん」
姉は鏡の前で髪をすきながら背中で妹の声を聞いている。瑞樹はその姿をまじまじと見つめてしまう。
「お姉ちゃんの知り合いって人が尋ねてきたんだ。大学の人みたい」
「えっ? 誰?」
「黒田さんって人」
「黒田さん?」
今まで姉に告白した男を瑞樹は何人も知っていた。家まで来た人間だって一人や二人ではない。その現場に立ち会う事も少なからずあった。
でも……。
「黒田太陽って人、お姉ちゃんと同じ歳くらいの人なんだけど」
「黒田太陽さん? ちょっと思い出せないな」
「……そう」
一度も羨ましいと思ったことはなかった。
今までは。