第二十三章
私は瀬戸一の件を反省していた。
あのような形でアクシデントが起こり、半ば錯乱に近い状態でサインをされてしまった。
彼の勢いに任せたあの行動には落胆させられた。私は彼の立場からどのような判断をするのかが知りたかった。しかし、彼の行動は突発的で思慮に欠けるものだった。
彼の行動そのものが、人間に一面を表したものだとしたら、それはそれで意味があったかもしれないが、それを自分に言い聞かせるのに、私はしばらく時間を要さねばならなかった。
今度は、慎重に人選しなければならない。
健康で若くて、現在成功に縁がなく、そして仲間や友人との関わりが少なく、恋人もいない。
……孤独な人間を。
私は街を歩き、人の流れを眺めながら、家々を覗いて回った。
いろいろな人間がいる。
いろいろな人間がそれなりに生活している。
とはいえ、条件にあうような人間は意外といないものだ。いたとしても、私の興味を引くような存在でないこともある。
私は街を歩き、塀の上を歩き、昼夜を問わず探し続けた。
そんなある日の事、私は一人の大学生に目をつけた。パッと見は可愛いらしい顔立ちの中肉中背の大学生だが、どこか冴えない。
彼の部屋の向かいの家の屋根の上から、しばらくその行動を観察することにした。
彼は、かろうじて昼夜逆転していないだけで日々ゲームに明け暮れ、食事の買出しのために外へ出る以外はほとんど外出をしない。
一週間の内で一度も鳴ることのない電話。メールなどのやり取りをしているようにも見えない。彼は大学生のはずだが、彼が学校へ行ったのを見たのは彼を観察しはじめた頃に僅か二回だけだった。
それも授業にほとんど出る事もなく大学を出てしまった。その後の彼は、フラフラと街を歩いて家に戻ってきただけだった。
挨拶をするような友人もいないのか、彼から挨拶する事も、誰からかされることもない。
彼はおそらく自分で選んで、この生活をしているのだろう。しかし、彼がその生活を楽しんでいるようには思えない。
もちろん、その時々で一喜一憂あって過ごしてはいるが、何かから目を背けるように過ごしている。私は彼に興味が沸き始めていた。
若くて、健康で、時間を持て余し、そして孤独に過ごす者……。
少なくとも条件にも当てはまっている。
少なくとも、瀬川一のようなアクシデントは彼には起こらないだろう。
さて、どうしたものか……?
私がそんな風に彼に興味を抱き始めていたときの事だった。
本に新たなページが作られ、何もなかったページに、サインをする欄が浮かびあがった。
時計がまた動きだす。
人類に何か災厄が迫っている。
「……いい、タイミングね、さて」
あなたはサインしてくれるのかしら? それともしない?
私は彼の所、黒田太陽の部屋へと向かいとんだ。
猫がもってきた本の針はすでに四分の三を回っていた。
僕は、あの日、実家から帰ると何度も本を読み返していた。そして、本に載るどの話もネットで話題になったり、ニュースになっていない事を再確認した。それどころかどれも些細な記事にも、個人のコメントにもなっていない。
それに対してずいぶんと時間をかけたが僕には見つけられなかった。
「ずいぶんと針が進んだわね」
「うん」
猫がそばで言った。でも、針がどんなに進んでも僕には関係はない。
僕は本を読んでは調べを繰り返していた。本の内容だけならすでに何度も始まりから終わりまで読み返している。
「実家はどうだったの?」
「うん」
僕は猫の言葉に頷いた。
あの日、遅く帰ってきた僕を猫は少しも責めなかった。そして、ここ数日、本に向かう僕に対してお茶の催促もしなかった。僕は久しぶりに猫と会話をしたのだと思う。
「なんか、思ってたのと違ってた」
「そう」
猫は寝床である座布団の上で頷くと、それ以上何も言わなかった。その沈黙はまるで、「そうだったでしょう?」とでも言いたげだ。
確かに、僕が思っていたのと違っていた。
家や蘭、母さんも父さんも……僕には、帰れる場所、そこにいてもいい場所があった。
だからこそ、僕の中で気持ちが固まって行った。
「……実はサインをしようと思うんだ」
「そう」
僕の告白に、猫はいつも通り淡々と頷いただけだった。何となくその反応が想像できていたので、僕も特に意識する事なく言えたのかもしれない。
「で、やり残したことは?」
「……」
予想外の言葉に一瞬頭が真っ白になった。
次の瞬間、真っ先に浮かんだのは園田さんの顔だった。
その顔が浮かぶと一気に胸が熱くなった。
園田さん……。好きだったんだよな。
でも……。
「どうせ、告白してもダメだろうから、告白しないのね」
「おい、僕が自分で言うならまだしも、他人から言われるとカチンってくるぞ」
人ならともかく猫に言われるなんて!
「大体、本当にダメがどうかなんてわからないだろう。僕だって、その気になったら!」
「その気になったら?」
息を巻いたものの、言葉が続かない。振り上げた拳をそのまま下げる。その気になったところでどうにもならない事もある。というかどうにもならない事の方が多いだろう。
「試してみたら?」