第二十二章
やがて夕食が終わり、食卓はまた父さんと僕の二人になった。
母さんは台所で食器を洗い、蘭がそれを手伝っている。蘭がしきりに猫の話を母さんにしているのが聞こえてくる。母さんは不思議そうに相槌を打ちながら「猫、飼いたいの?」と聞くと蘭は「うん、出来れば、その内にね」と笑いながら答えている。
僕はそんな声を聞きながら、自分の席から動けないでいた。父さんもいつもよりも飲む酒は少なめで席を立たない。
「……」
「……」
洗い物の水の音と、蘭たちの会話の声が二人の間の沈黙を埋め合わせてくれる感じがして、僕はなんとか席についていることができるようだった。僕は、食後に出されたお茶を口に含みながらどこかにいい言葉はないか、テーブルの上を探していた。
探しながら、色々な事が頭をめぐっていく。
学校の事、今の生活の事、猫の事、本の事、妹の事、僕がやりたいと思っている事……。
僕は妹の事が羨ましかった。
勉強も運動も、あとから生まれたあいつにかなわず、自分が見てもその差は歴然。父さんや母さんの僕への落胆や妹への期待を、直接言われたことはないが僕なりによくわかったつもりだった。僕はどこかへ居なくなりたい気分だったんだ。認められようと無理をしていた所があった。努力をしても叶わないことはある。
「……太陽、何か悩んでるのか?」
「えっ?」
気がつくとリビングには父さんと僕の二人しかいなかった。たぶん、妹は風呂にでも行ったのかもしれない。母さんもどこかへ姿を消していた。
「うん、まあ。……いや、なんでもないんだ……」
母さんにはあんな質問してしまったけど、よく考えれば、こんな事を聞いても仕方がないんだから。
「言ってみたらどうだ。言うだけでも違うときはあるだろう?」
「……うん」
僕は、何か色々言いたいことがあったんだ。本当はもっと前にこんな風に聞いてほしかった……いや、話しておくべきだったのかもしれない。うまく言葉にできず、僕は母さんにした質問と同じ質問を繰り返していた。
父さんはお茶を一口飲んだ。
沈黙が耳に痛い。
その間が恐く。僕は今言った言葉をすべて取り消したくなった。
そして、まるで用意しておいた答えを言うかのようにそのまま言葉にした。
「お前の好きなようにやればいい」
「……」
「ただ、父さんや母さんがいることを忘れるな」
「……うん」
父さんはそれだけ言って席を立つとリビングを出て行った。僕は一気に緊張が解かれた頭で父さんの言葉を噛みしめる。
残りがすくなくなった湯飲みを覗き込みながら、僕は考えた。
家族とか、居場所とか、大学とか未来とか、猫や本やここ最近の事、それに園田さんのこと……とか。
「あれ、お兄ちゃん、どこか行くの?」
パジャマ姿で濡れた髪をタオルで拭いていた妹に声をかけられた。
「うん、帰ろうかと思って」
「ええ!? 今から!? 今日は泊まっていくんじゃないの?」
蘭が声を上げる。僕は玄関で靴を履きながら、背を向けたまま答えた。
「やっぱり、あいつが心配だし」
「あいつってクロちゃん?」
「よく考えたら、まずいかなって思って」
「そっか」
こんな所で言い訳に使われていると知るとあいつは嫌な顔をするだろうな、と鋭い目をした猫の顔が浮かぶ。
きっと、今から帰ると「遅かったじゃない。私、お腹が空いたわ!」とか「喉が渇いたわ、お茶を淹れてくれる?」など言うに違いない。
僕は猫の事を思い出すと思わず吹き出しそうになった。その様子に首を傾げる妹は、諦めたのか納得したしたのか、それ以上止めなかった。
「ねえ、今度来るときはさ、クロちゃん連れてきてよ。その方がいいよ、絶対」
「そうだな」
蘭の言葉に僕は頷く。妹の言葉に見送られ、僕は家を出た。
外は、もう暗かった。
僕は走りだした。