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第十九章

 事態は急変した。

 それは彼に出会って一ヶ月後の事だった。

 疲れ切った彼は明かりも点けない玄関で座り込んだまま動かなくなっていた。

 もう二時間近くその場に座り込み言葉もない。

 携帯と電話が鳴り響くが、それすらも聞こえていないかのように彼が出ることはなかった。 

 彼は疲れていたのだ。


「……」


 また、電話が鳴った。

 しかし、彼は動かなかった。私も動かない。私は彼をジッと見つめていた。

 電話は鳴り続け、やがて留守番電話に切り替わり、相手はメッセージを入れることもなく電話を切った。

 彼はここ数日で色々なものを失った。

 仕事と金を仕事仲間の裏切りにより失い、婚約者は彼の親友のもとへ去って行った。

 彼の元に残ったのは多くの負債と、皮肉にも本と私だけだったというわけである。


「……」


 彼は、サインをするだろうか?

 私は考えた。

 彼はきっとサインはしないだろう。

 そう私は考えた。

 彼がサインをしなければ、多くの人間が死ぬ。それは彼を裏切っていった人間達も死ぬ可能性があり、うまくすれば彼が生き残ることも考えられる。

 となれば、復讐のために彼はサインをしないだろう。

 もし、サインをしなくても彼が生き残る可能性はある。彼の能力があればこの現状などいとも簡単に打破し、新たな成功を手にすることも可能だろう。

 もっとも、彼がその気になるのかという問題と、彼が災厄の中を生き残れるのかという問題が残ってはいるのであるが。


「猫、いるんだろう?」


「ええ、ここにいるわ」


 私はその場から動かず彼の問いかけに答えた。

 彼は不意に立ち上がると部屋の電気をつけた。電灯が急に闇を裂いたので、私は一瞬視界を奪われた。

 私が瞬きをしていると、彼はキッチンでお湯を沸かし始めていた。


「なあ、お茶でも飲むか?」


「お茶? 興味ないわね」


「まあ、そういうなよ」


 そう言って彼はキッチンの中をあさっていた。どうやらコーヒーを探しているらしかったが、見つけることができなかった。そのかわりに日本茶を見つけたらしい。

 どこからかの贈り物だろう。入れ物からしても上等品だ。

 不慣れな手つきで急須に茶葉を入れ、お湯を注ぐ。それから湯呑を二つ用意した。彼は私の前に一つ、自分の前にも一つを置く。

 湯気のたつそれを、私は覗き込んだ。

 澄んだ翠色の水色に、立ち上る香り。

 私は彼に薦められるまま、慎重に少しだけ口に含んだ。

 甘みのあるさわやかな味わいだった。


「失敗したよなぁ、今回は予想外の連続だった」


「頭のいいあなたでもそんなことがあるのね」


 彼は自分で淹れたお茶をすすりながら、宙に目を向け、自嘲気味に言葉を吐き出した。

 予想外の出来事だけというわけでもない。実際には冷静さを失った彼の判断ミスもあった。そして、冷静さを失わせるほどに周到に罠も用意されていた。


「まさか、稟香までいなくなるなんてな……」


 冷静さを装いながらお茶を口に運ぶ彼の手は震えていた。

 怒りか悲しみか。それが誰に向けられているものなのかは私には計りかねた。

 稟香とは彼の婚約者だ。同時に秘書でもあった。かなり有能な人間であったことは確かだが、逆に言えば、裏で彼女の手引きがあったと考えてもおかしくはない。もっとも、今の彼がそんな可能性にまで考えが及んでいるかどうかは定かではない。


「今までは……」


 彼はしばらくなんでもない話をした。

 学生の時の事や仕事の事、友人、仲間、恋人稟香との出会い、今までの目標と功績、恩人の事……。

 この会話には意味はない。思いつくままにしゃべることで心の整理をする。人間が冷静さを取り戻そうとするときによくする方法の一つにすぎない。

 私はその儀式にただ無言で付き合った。

 その中で私はおのずと理解した。

 彼のまわりに実に多くの人間がいる。多くの人間が彼を助け、協力し、利用し、そして裏切ったのだ。しかし、後者はほんの一部に過ぎないのだろう。でなければ、彼は今の地位を得ることはできなかったはずだ。

 彼はこれからまた別の人間に助けられ、今回の成功と同じように浮上することができるに違いない。

 おそらく彼自身、そう思っているのではないか……? 私にはそう思われた。

 彼はひとしきり話終わると、本棚にしまっていたあの本を取り出した。

 彼が普段読むビジネス書、哲学書、自己啓発書などの中でも一際異様雰囲気を醸し出すその本のページをめくった。

 彼はよく本を読む。

 しかし、あの本を開いたのは今回が初めてだ。


「この本に書いてある事、それにお前が言っていた事、本当なのか?」


「ええ」


 私はいつものように簡潔に答えた。


「……信じられないんだよな」


「でしょうね」


 それが事実であったとしても、信じられないことは間々あることだ。たとえそれが目の前で起こったことであっても、理論的に説明されることであっても「信じるしかない」という言葉に代表されるように、納得がいかなくとも人間はそのことを強引に受け入れていくしかない。


「でも、本当だとしたら……俺は、これにサインをするよ」


「……そう」


 私はそう答えた。


「なぜ、サインをするの? サインをしてしまえば、あなたは死んでしまうのよ」


「ああ、そうみたいだな……」


 そう言いながら、彼は新しいページを開いた。真新しい何も書かれていないページにサインをする欄だけが設けられている。


「ここか……」


 彼はペンを手に取った。

 決断をした時の彼の行動は速い。とはいえ、この決断と行動は何かに急き立てられるようだ。いつもの彼とは少し異質に見えた。


「俺がここに名前を書くということは俺が死んでしまうということだろ? 書かなければ、俺は生きて、他の誰かが死ぬってことだったよな」


「ええ、そうよ」


「もし、名前を書かなければ……もしかしたら、もしかしたらだけど、俺は生き延びて、あいつらは死ぬかもしれない」


 そうだ。その可能性がある。

 殺気の籠もる声が沈む。もしも思いだけで人を殺すことが可能なら、今この瞬間にも誰かを死に追いやっていたことだろう。


「わかってるんだ。そうなればいいって、俺も思ってる」


「……」


「でも、俺には、死んでほしくない人間もたくさんいるんだ。俺が、ここまで出来たのも、その人たちのおかげなんだから」


「……」


 彼の発する気配や匂いが言葉と一致していない。彼は破壊や血を欲しているのに。

 しかし、だからこそ人間は興味深いとも言える。


「サインはする……」


 彼は大きく深呼吸をした。

 そして、一気に本に自分の名前を刻み込んだ。


「これでいいのか?」


「ええ、そうね」


 字は乱れていた。書いている手が震えていたのだ。


「一つ聞いていいかしら?」


 私はいつものようにそう言葉をかけた。そう、いつもと同じ質問をするためだ。


「どんな人間なら、サインをしなかったか? だって……?」


「ええ、そうよ」


「そんなこと……」


 彼はわずかに焦点が合わなくなった瞳を震わせながら、血が滲むほどに爪を噛んでいる。


「孤独な奴じゃないか? 孤独な、仲間も友達もいない奴、そんな奴だよ、自分だけで、他人と関わり合いもない奴は、誰がどうなろうが関係ないだろ!?」


「……そう」


「なあ、猫、それよりも、このサイン、もう消せないのか? やっぱり取り消すことはできないのか!?」


「できないわ、そのペンで書いた以上は消すことは不可能よ」


「なんでだよ、なんで、俺ばっかり、こんな役……死にたくないんだよ! 誰が死んだってかまわうものか、俺が生きてなきゃ、仕方ないじゃないか!」


 彼は奇声をあげ叫びながら、テーブルの上にあった食器を振り払った。食器の割れる音と共に、彼の手からも血が滲んだ。


「助けてくれ! 猫、お前ならできるだろ? 助けてくれよ! こんな話はなしだ! 現実じゃない!」


 私に掴みかかろうとする彼の手から、するりと逃げる。私は彼の問いには答えなかった。


「……孤独な人間、ね」


 私はまた歩き出した。


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