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第十七章

 猫が出ていったあと、僕はしばらくそこに座り込んでいた。

 日が傾き、僕の影が床に伸び始めた頃、僕は森宮悠樹の病室をあとにし、重い足取りで自分の家へ足を向けていた。

 猫は茜ちゃんのもとへと向かったのだろうか? 茜ちゃんに連絡をしておいた方がいいのだろうか?

 いやたぶん、それは意味がない。

 意味があったとしても今の僕にはそれができるほどの気持ちの余裕はなかった。

 頭の中に猫と出会ってからの事と本の事がグルグルと回っていた。


「……!」


 そうだ、あの本だ。

 実際、期日までにはあとどれくらいあるのだろう?

 いや、そうじゃない。あの本にサインしたら、死んでしまうっていう?


「いや……」 


 ……それでもない。

 本にサインをしないとどこかで誰かが……もしかしたら多くの人が、死んでしまうということ……?


「ああ、もう、なんだよ、それ……」


 バスの中で僕は頭を抱えた。

 ほかの乗客の視線が集まっている。自分で思っていたよりも大きな声を出していたのかもしれない。

 僕は集まった視線に何度か頭を下げると、バスの外に視線を移して誤魔化した。

 空が赤かった。

 いつものように夕日が沈んでいく。

 規則正しく点滅する信号、それに従い動く車と人、すでに明かりの点いている窓もある。

 何もない、何もおこらない一見して平和な光景がなくなってしまうようなことが起きる?

 そんなこと誰が信用する?

 上屋正三という人間はサインしたことによって二十億人の命を救ったことになっていた。

 二十億って……? 戦争よりも遥かに規模が大きい数字じゃないか。 

 世界で、って言ったって、もしもそれが本当に起きたとして、そこまでの被害が出ていたとしたら絶対に日本にも飛び火したはずだ。

 そしたら、こんな光景も今頃なくなっていたに違いない。


「……そんなこと……」


 そんなこと、どうして信じられる?

 誰も死んでないし、病気なんてないし、それに……。

 僕は考えつく否定的な理屈を、心が落ち着くまで並べようとした。すると、堂々巡りになる自分の思考の中で、時折それは顔を出す。

 それに、どうして誰にも知ってもらえないんだよ……。

 世界とか、人類を救う話だぞ!?

 仲間とか、信じてくれる人とか、そんな人がいてもいいじゃないか。僕が本にサインして死んだとして、そのことを誰かが知っていてくれてもいいはずじゃないか……。

 そんなことまでして、誰にも認めてもらえないなんて……。


「えっ!?」


 僕は思わず身を乗り出し、バスの窓に顔をつけた。

 あ、あっ!?


「……!」


 その光景は声にならなかった。

 交差点で一台の車が右折しようとして自転車と衝突した。自転車に乗っていた小学生くらいの女の子は十メートル近く飛ばされ、乗っていた自転車は別の方向にはじき出されていた。


「お、おい、あれ大丈夫か!?」


 バスの乗客の一人が言った。

 ヒヤリとした嫌な感覚が胸に落ちた。

 大丈夫……とてもそんな風には見えない。

 道には女の子の存在を残すかのように赤く濡れ、彼女はピクリとも動かなかった。


「おいおい! 何だよ!」


「大丈夫かしら?」


「……!」


 まさか、死……? 

 騒然となるバスの乗客はみんな僕が坐る座席側に押しかけ、事故現場を目で追っていた。

 あおの勢い、あの血、自転車、車……。

 通行人の悲鳴と慌てて降りてきた自動車の運転手の姿が目に焼き付く。僕の気分が悪くなるほど動悸し、今にも呼吸が詰まりそうだった。

 しかし、その騒然とした乗客と現場をよそにバスは信号が変われば今までと変わらずに進行しはじめた。その事故はバスの進路には関係がなかったからだ。


「あの子……」


 死? いや、確かめてないけど、あれは、もしかしたら……。 もしかしたら……?

 僕は気分が悪くなっていた。

 この雰囲気も、バスの中も、疑問も、事故も、このまま家に帰ることも我慢できず、弾かれたように停車ボタンを押していた。次の停留所でバスを降り、僕はその現場まで走った。

 あの子は、あの子はどうなった!?

 見も知らぬ女の子の安否のために、僕は普段わずかな運動すらしないクセに転びそうになりながら全力で走っていた。すでに人だかりができたその現場で、やじ馬をかき分けて進むと、そこにさっきの女の子がいた。


「……」


 血と女の子。女の子が人形のように寝かされている。

 その光景にゾワリと突然冷や水でもかけられたかのように寒気がした。

 人間は、こんなことになるのか?

 さっきまで自転車に乗っていた子だぞ、さっきまで、この交差点を渡っていた子だぞ……!

 なんで動かないんだ、声を出したり、泣いたり、叫んだり……なんで、しないんだ……!?

 生きているのか、死んでいるのか、僕にはわからない……僕は、人が死んだ姿をこの目で、目の当たりにしたことがなかった。血の匂いも、雰囲気も、そのことそのものも、僕はわかっていなかった。

 どこかで救急車の音が聞こえる。運転手が呼んだのかもしれない。


「……」


 頭の中がグラグラする。

 僕は魂でも抜かれたようにふらふらとその場を離れ、そこから歩いて家に帰った。


   


 家につくと、すでに猫が帰っていた。猫は僕の様子を見てもいつもと変わらなかった。


「遅かったわね」


「途中で、事故を見たんだ……」


「そう」


「女の子が、車にひかれて……」


「それは運が悪かったわね」


 猫の言葉に思わず僕は顔を上げた。


「運が悪かったって、女の子が、僕よりも小さな女の子が事故に遭ったんだ、もしかしたら死んだかもしれないんだ!」


「それで?」


「それでって、大変な事だろ!?」


「それは悲しい出来事だったわね」


 猫はそう言って伸びをした。その様子はまるでいつもとかわらない。むしろ、何を言っているのだ? とでも言いたげでもある。


「な、なあ、もし、もしもだよ、僕がこの本にサインするのがもっと早かったら、あの子は死なずに済んだりしたのかな!?」


「それはないわ」


 猫は少しも悩むことなく、あっさりと答えた。


「でも、この本にサインをすれば、人が助かるんだろ!?」


「サインをすれば、起こる災厄を回避したり、何らかのことがおきてそれを防ぐ。それによって人が死ななくなるのよ。あくまでも大きな出来事を防いでいるだけ、小さな出来事で死んでしまうものは仕方が無いわ。その子がもし本当に死んだのならそれは運命と言えるでしょう」


「運命……? あの子が死んだのが運命だって? あんな小さな子が死んだかもしれないのに!?」


「多くのあなたより小さな命が毎日死んでいるわ。それに、その子を助けることがあなたの役割ではない」


「役割……」


「あなたは医者ではない、仮に医者だったとしても、すべての人間を救うことはできない。それに本当にその子の命がなくなるのかどうかわからないわ。もしなくなってしまったとしても、それはあなたの範疇の外にあるものよ」


「……」


 僕は押し黙った。

 猫の口調はいたって冷静だった。

 納得したわけじゃない。

 猫の言う通り、今の僕に何もできないことは確かなことだった。

 僕はあの本棚におさめられているあの本を見ていた。


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