第十四章
「それは、窓のところに寝ている猫を見たんだよね? きっと空の色が写って青く見えたんだと思うよ」
何食わぬ顔でそう言って誤魔化した。
僕の言葉に彼女は露骨がっかりしたように「そうですか……」と肩を落とす。表情のコロコロとよく変わる可愛い子だった。
僕はダメ押しに「うちの猫は黒猫なんだ、名前もクロっていう、まんまの名前でね」と補足までした。
「なんなら、見に来るかい?」
「い、いえ……大丈夫です」
いくら行動的な彼女でも、一人暮らしの見知らぬ男の部屋に猫を確認しに訪ねてくることもないだろうと思い、平気な顔でウソをついた。
青い猫を見かけたら連絡をする約束をして、彼女の連絡先と彼女が気にしていた病院の名前を聞いてから僕たちは別れた。
彼女の姿を見送り、僕は急ぎ足で家に向かった。帰ると、昼寝をしていた猫がドアの開く音に反応して顔を上げた。
「おそかったわね」
「ま、まあね。生どら買ってきたけど、食べる?」
「そうね……」
猫は少し考えるように窓の外に目を向けた。
「少し散歩してくるわ。どら焼きはそのあとにする。お茶を用意しておいて」
「あ、ああ……」
猫は自分で窓を押し開けるとわずかに開いた隙間からすると身をくねらせて外へと出た。窓の外に出た猫はすで黒猫になっていた。
ここの所、猫はよく散歩に出かけていく。どこいっているのかは知らないがいつもの感じだと三十分は戻ってこないはずだ。
僕は猫が出て行って見えなくなるのを確認すると、急いであの黒い本を本立てから取り出した。この本に触るのは二回目、本を本立てに入れた時と、取り出した時の今だ。まだ、一度も開いたことはない。
改めて、気持ちの悪い本だ。どこか生き物的なものを感じる。
僕は深呼吸してから厚い表紙を捲った。
各ページには、一番下には名前。おそらく直筆のサインだと思われたものがある。
僕はどんどんページを飛ばし、三分ニを過ぎたあたりでのその名前を見つけた。
森宮悠樹。
しっかりとした達筆な字が独特な赤黒いインクで刻み込まれている。
書いた人間の年齢や顔写真、どこに住んでいたとか、どこでこれにサインしたのかということは書かれていない。
その人物がどんな人間であったかを示すものはその名前と筆跡ぐらいしかない。
「……これって」
森宮悠樹のサインの上には、おそらく森宮悠樹がサインをしたことによって回避された出来事が書かれているわけだが……。
「何なんだ、この字……」
それは、日本語ではなく。また英語でも、フランス語でもドイツ語でもない。およそ、巷で見かけるようなどのような文字とも違う。記号のような、絵や模様のような、そんな文字だ。もしこれが芸術作品だと言って美術館に展示されていても少しも不思議ではないし、古代から伝わる神の文字だと言って遺跡などにあったとしてもなんら不自然には思わないだろう。奇妙に思えるのは、それをまるで日本語を読むかのように僕が読めるという点だ。
そして目を惹くのは、ここに書かれている内容だ。そこには森宮悠樹がサインをしたことにより、救われた人間の数と共にその内容が書かれている。
森宮悠樹のサインによって救われた人間の人数が……
僕はほかのページも開いてみた。その一つ前は上屋正三という人物だ。
これだって……。
両者は救われたと推測される人間の数が極端に違う。その内容も信じがたいものだ。
「ともかく茜ちゃんの名前は森宮だったな。森宮悠樹って人がきっと彼女の関係者だ……」
この人物は病院に関係しているはず。
医者とか、もしくは職員、入院患者とか? どちらにしろ、この筆跡からして彼女のお父さんとかかな?
病院の名前は確認済だ。
僕は、森宮悠樹の名前をメモすると、本に触ったことがばれないようにもとの位置に収めた。
明日、病院に行ってみるか……。
僕は書いたメモをポケットの中に押し込んだ。