第十二章
この本の針が重なった時、そのときを境にして災厄の前兆と同時に、彼の病の原因と治療法が究明される。彼を病室に束縛していた病は去り、自由になる可能性が生まれるのだ。しかもその可能性はかぎりなく高い。
彼はまったく違った世界を見るだろう。彼の好きな姉と同じ世界を歩くことができる。私はそう彼に告げた。
「そうなの……? シエルの言うことだから、きっとそうなのかもしれないけど……」
私の話に悠樹は驚いたようではあったが、意外にも喜んでいるようではなかった。神妙な顔でしばらく沈黙が続く。
私はそんな彼の答えをじっと待った。
私は彼がどんな人間なのか、半年ほどで理解したつもりでいる。
病に犯され、今までの多くの時間をその病とともに過してきたとはいえ、彼の時間はまだ始まったばかりだ。何かを楽しむのも、何かに挫折するのも、何かに後悔し、後悔しつくすにも十分すぎるほど時間がある。
あと僅かだと思われていた時間が実はそうではなかった、限られていたと思われていた可能性は実は広がりをもっていた。
この事実を知ったとしても……
「……僕、それでも、サインをするよ」
悠希は静かに、そう言った。その顔はさきほどよりもさらに決意を固くしたようだった。
「……そう」
私は彼の意志にただ頷き、そしてその理由を問いかけた。
「うーん、なんでだろ? 僕、ずっと死んじゃうことばっかり考えてたんだ。死んじゃうことがすごく怖くてしかたがなかったんだ」
「そうでしょうね」
「この前の病室でも、この病室でも、前からいた人も、同じ時期に入った人も、あ
とから入った人も、死んじゃう人がたくさんいた」
悠樹は、今は一人になっている病室を見渡しながら、ここを去っていた人間達の影でも追うように視界をめぐらせる。
「それで思ったんだ。死ぬことよりも、誰かがいなくなっちゃう方が怖いって。もし、お姉ちゃんがいなくなって、みんな死んじゃって、僕一人になったら……」
「……」
「僕ね、僕がいる間、お姉ちゃんにはずっと生きていてほしいんだ。それはこの本で叶うってことでしょう? この本に名前を書くのはみんなに死んでほしくないっ
てことかな……」
彼は少して照れたように結論をつけ、本を開き名前を書く所をあらためて確認した。
「今書くの?」
「うん、お姉ちゃんが夏休みに入る前にしたいんだ」
なるほど、そういうことか、と私は思った。
悠樹は本からペンを取り出すと、そのペンで「森宮悠樹」と名前を書いた。
ここに名前を書くためだったのだろう、私は少し前から彼が自分の名前を書く練習をしていたのを知っていた。そのかいもあって、そこに刻まれた文字は小学生とは思えないほどしっかりとしたバランスのとれた四文字だった。
私は名前が書かれた事を確認すると、一つ息をついて彼に視線を向けた。
「悠樹、一つ聞いていいかしら?」
「なに?」
「あなたはここにサインをしたけど、どんな人ならここにサインしなかったと思
う?」
「……? サインしない人? それは……」
私の質問が意外だったのか、悠樹は難しそうな顔をして考える。
私はその答えが出るまで、じっと彼をそばで待っていた。
質問が難しかったのか、彼はずいぶん時間をかけてからふと、何かを思い出したのかのように口を開いた。
「……あのね……元気な人、かな」
「元気な人?」
まだ答えの糸口をわずかに掴んだだけなのか、彼は探るように慎重に言葉を探しているようだった。
「病気なんかしたことなくて、元気で、健康な人……この前ね、一般病棟に散歩に行ったんだ。そしたら、大人なのに、大騒ぎしてる男の人がいたんだ。死んじゃう! って」
悠樹は身振り手振りでその男のマネをしてみせてくれた。
それで思い出した。その場面は私も外から見ていた。体格のいい二十代半ばの男であったと思う。悠樹ほどの男の子が付き添いで、病院に来ていたのだ。何でもないような怪我であったと思うが、本人だけが大騒ぎしていたのである。
「きっと、普段あんまり怪我とか病気とかしないんだよね。だから、すごく怖かったんだと思う。きっと、そういう人は、怖くて書けないんじゃないかな?」
「なるほどね……」
私が納得したように頷くと彼は少し安心したのか、いつものように笑ってから、少し視線と声のトーンを落として言った。
「でも、やっぱりまだ僕も少し怖いな……」
「……後悔しているの?」
「うんうん、違うんだ。僕、本当は、シエルにすごくありがとうって言いたかった
んだ」
「私に?」
「うん。僕が死ぬ意味ができて、生きていた意味ができた気がする。ここにいて、僕は何もできずにいたけど、最後に自分のやりたい事を選ぶことができた気がするんだ。シエルが来てくれたおかげだよ」
「……」
「……ただ、死ぬのは初めてだから少し怖くて」
「そうね」
私は悠樹が眠るまでそばで何でもない話をした。彼も最後の日となるとわかって
いたはずなのに、いつもと同じように話、時を過した。
次第にうとうとし始めた彼の眠りとともに私は病室をあとにした。
いつもの昼寝の時間だった。私はいつものように部屋を出ると、もうその部屋には戻らなかった。