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第十章

 私は公園の木の上から、その建物に出入りする人の流れを見つめていた。

 真新しい薄桃色の壁、二重に作られた大き目の自動ドアを抜けていくと、そこには広い受付カウンターと待合のための長椅子がいくつも並んでいる。行き交う人間は年齢を問わず様々な人間が自分の順番を待っている。 

 この時間は特に人の出入りが激しい。

 私はその正面入り口を横目に、建物の横に回り込むとフェンスに開いた穴を潜り、塀に飛び乗った。そこは先ほどの正面の喧騒とは違い、急に外と内を区別されてしまったかのように外界の音が遠ざかり、消毒のような化学的な匂いが鼻につきはじめた。

 この病院って場所の特有の匂いには何度来ても慣れないわね……。

 私はさらに外壁に沿って、施設の奥へと歩いていく。一般病棟を抜け、特別病棟へまでやってきた。

 ここまで来るとさらに人の姿は少なくなった。

この病棟はまだ作られたばかりでそれほど患者を入院させているわけではないようだ。

 この場所に、こんな不釣り合いな物を建てたとしても、この病院が意図しているような患者が集まるとは思えないけどね……。

 私は通路の窓の開いた場所を見つけると、そこから足音も立てずに侵入した。

 建物の中の雰囲気は外とはガラリと変わる。建物中央に作られた中庭から陽光が温かく、そのまま廊下に置かれた長椅子の上で昼寝をしたくなった。


「うん?」


 私が廊下を歩いていると、踊るように跳ねるような不思議な調子で歩く白いワンピースの黒髪の女の子が歩いてくるのに気がついた。

 普段なら気が付くはずなのに、彼女の独特な雰囲気に私は反応するのが遅れてしまった。

 その子は私の姿を見つけ目と目があった。最初は不思議そうな顔をしていたが、ニヤリと愛らしい顔立ちの子らしからぬ笑みを浮かべた。

 敵意はない。

 彼女なりの単なる挨拶だ。私もそれに返した。


「見つからないようにね」


 彼女はそれだけ言うとどこかへと消えていった。私はしっぽを振って答えると、目的の場所へと再び足を向けた。

 人気のない通路と階段を上り、私はその部屋へとやってきた。

 病室の入り口には「森宮悠樹」と名前がかけられている。私はわずかに開いた扉をわずかに手で押し開け、隙間から中に身をくねらせながら中へ入る。

 四人部屋の病室だったと思われるが、現在は一人しかいない。窓際に置かれたベッドに腰かけた彼は外の景色を眺めていた。


「あ、シエル! おはよう!」


 彼は私の存在に気がつくとパッと笑顔になって両手を広げ、歓迎してくれた。

 シエルとは今の私の名前だ。彼が私につけてくれたものだ。

 彼がこの部屋の住人、森宮悠樹。年齢は今年十歳になる。

その年齢と大差ないほどの期間をこの病院といくつかの病室で過している。

 私は彼のベッドに飛び乗ると、そこには手のつけられていない昼食がそのまま残されていた。


「食べなければダメよ。元気にならないわ」


「よかったら食べてもいいよ」


 私の言葉に彼は悪びれるわけでもなく言った。

 彼は食が細い。

 そのせいか同年齢の男の子と比べるとずいぶんと華奢に見えた。

 一度メニューを見てから「好みじゃないわ」と遠慮すると「僕もなんだ」と彼は笑った。

 彼の病は現代医学では原因不明で治療法も確立されていない。一般人と同じ生活を送ることは困難なようだが、ここで過している分には問題はない。  

 私が彼のところにやってきてすでに一ヶ月ほどが経過しているが、彼がその病で苦しんでいる場面には出会ったことはない。

 彼に預けた本の針もまだほとんど進んでいない。針はまだ時計で言うところの一時に当たる所までしか行っていない。このペースで行けばタイムリミットまで一年はかかるだろう。

 私はこうして彼に会って、ともに時間を過して、そして夜には外へ帰るという生活を送っている。ずっと一緒にいてもよいのだが、看護婦などに見つかり面倒な事になるのを防ぐためだ。

 この一ヶ月ほどで、私は悠樹がどんな人間なのか、少しづつ理解できるようになった。

 彼は、きっとこの本にサインをするだろう。もしかしたら、もう決心だってついているのかもしれない。

 彼は穏やかで、気のやさしい人間だったし、自分が死ぬことで、誰かが助かるなら死んだってかまわない。どうせ自分は死んでしまうのだから、そう思っていると思う。

 彼の心の半面は諦めがある。


「……」


 しかし私は知っていた。

 この本の針が重なった時、そのときを境にして起こる何らかの災厄の前兆と同時に、それとはまったく別のところから彼の病の原因と治療法が究明される。それがわかれば、彼がこの病気で死ぬことはないのだ。

 それを彼に伝えるべきかどうか、その判断を迷っていた。


「それで、この前、お姉ちゃんがね……」


「あなたはお姉ちゃんが好きなのね」


「うん。もちろん、シエルも好きだよ」


「うれしいわ」


 忙しい親に代わって毎日のようにお見舞いに来る森宮茜は彼の姉だ。確か高校二年生だったか。おとなしい悠樹とは対照的に行動的で活発な姉だった。


「シエルのこと紹介したいんだけどな」


「ダメよ、病室に猫がいたら変でしょう。それに、会ってもただの猫のフリをするわ」


 私の言ったことがおかしかったのか、悠樹は吹き出して言った。


「青い猫なんていないよ? しゃべらなくてもすぐわかっちゃうと思うけど」


「そのときは色を変えるわ。……そうね、黒とかがいいかしら?」


「色変えられるの!? すごい! 見せて見せて!」


「機会があったらね。でも、無いほうが望ましいわ」


「そっか、残念だなぁ」


 悠樹はさも残念そうに肩を落とした。私はふと病室の時計に目をやった。


「もうこんな時間ね、そろそろ彼女が来るわ」


 定期的に来る看護婦などはベッドの下などに隠れてやり過ごすが、滞在時間の長い茜の場合はそうはいかない。私はいつも彼女と入れ替わるように病室を出て行くのだ。


「本当だ。シエル、また明日も来てね」


「ええ、また明日も来るわ」


 悠樹はそう言って名残りおしそうに手を振ってみせた。これもいつもの光景、毎日の私たちのやり取りだ。

 私は耳を立てて、彼女が近づいてくるのを確認すると、彼女の足音のする方とは逆の方に足を向けた。


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