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第9話 姫

春樹が返事に困っている様子を満足そうに眺めたあと、咲子はぐるりと部屋を見渡し、キャビネットの脇に置いてあった立花探偵事務所の証明書に目を止めた。


そこにはこの事務所の所長、戸倉美沙の名やフランチャイズ登録番号等が書いてある。

「ここの所長さんは女性なのねえ。ずっとお休みなの?」

「はい。少し休養中なんです」

話題が変わったことにホッとしながら春樹は答えた。


「私のカンでは若い娘さんだね。美人でファッションセンスもいいけど、少しばかり整理整頓が苦手で、だらしない」

「え。何でわかるんですか?」

思わずそう声をあげ、春樹は美沙のデスクの周りを見渡した。

確かに若い女性向きのファッション誌が雑然と壁の書棚に突っ込まれ、使うのかどうか分からない化粧ポーチやマニキュアの小瓶がサイドテーブルのかごの中に放り込まれている。

春樹は気にならなかったが、同じ女性から見たら、宿主の残像が見えるのだろうか。


「そして、気は強いけどロマンチスト。惚れっぽいくせに、好きな男に好きと言えない内向的な面もある」

「・・・そうなんですか?」

今度は春樹にはピンと来なかった。

ただ、何とも言えないダメージを感じ、気分が萎えた。美沙の恋愛観など、今は聞きたくない。


「そこに小説が数冊あるじゃない。同じ作者の本を私も何冊か読んだの。だから、似てるのかなあって思ってね」

咲子の視線の先には仕事用ファイルに並び、薄い文庫本やペーパーバックが数冊、突っ込まれていた。

翻訳ものらしく、確かに同じ作者のものが多かった。

「そこには入ってないけどさ、16歳くらいの時初めて読んだ、エジプトの歴史小説がとても記憶に残っててね。ファラオをめぐる争いに巻き込まれた小国の14歳のお姫様が、敵国の王子に恋をするのよ。こっそり敵国の王子と会い、他愛もない話をし。けれどその戯れが、ついには自国を窮地に追い込む羽目になって、大好きな実の兄を死なせてしまうの」

急に物語のあらすじを語り出した咲子は、一瞬39歳という年齢を感じさせない、何とも言えない若々しさを醸し出した。

春樹はなぜか厳粛な気持ちになり、ただ黙ってその依頼人を見つめた。


「そのお姫様は結局その敵国の王子に騙されてた事に気付くんだけど、もう、遅くてさ。自分も敵国の兵に捉えられながら、言うの。『死の馬よ。どうか私を連れ去っておくれ。光の届かぬ海の底へ。息も出来ぬ土の下へ。愛などと言う、残酷な言葉のない、闇の国へ』」


咲子はそこまで言うと、満足するでもなく、楽しげでもなく、ただぼんやり一点を見つめて黙り込んだ。

この人はここへ何をしに来たのだろう。

ただ寂しさを紛らわしたいだけなのか、話し相手が欲しいだけなのか。

春樹は沸き上がってきたそんな疑問を胸に押し込めながら、少し腫れ物に触るように言ってみた。


「そのあとでお姫様はどうなったんですか?」

「あっさり殺された」

「可哀想に」

「幸せよ」

「え・・・」

「馬鹿な女は死ねばいい」

静かな呟きの中にカミソリのような鋭いものを感じ、春樹は息をのんでじっと正面の女の目を覗き込んだ。


「咲子さん?」

「ん?」

「あの・・・」

「ああ、ごめん。邪魔だったよね。もう帰るから」

「いえ、邪魔なんてこと無いです」

「明日また来ていい? この時間に」

「あ、・・・はい」

「よかった。じゃあ、明日またね。楽しみにしてる」


咲子は口元だけで微笑むと、フワリと香りを漂わせながら身を翻し、振り向くこともなく部屋を出ていった。

静かで妖艶で大人の香りを漂わせながら、その内面は少女のように一途で頑なで激しい風を閉じこめている。

春樹は初めて女の人を“怖い”と感じた。

理解できないが故の恐怖だ。


咲子の内面の風に晒されたら、自分みたいに脆弱な葉っぱはきっと、呆気なく消し飛ばされてしまう。

明日また来ると言ったあの人は、自分に何を期待しているのか。

明日までに新たな町田の情報が、何か一つでも欲しいのか。

もし、明日になっても明後日になっても、結局なんの情報も集められなかったら、どうすればいいだろう。

こんな深いところまで咲子の人生を覗き見ながら、規約通り初動調査料だけもらって“はいサヨナラ”なんてことを、彼女は許すのだろうか。


《琥珀だね。なんて綺麗なんだろう。・・・欲しいな、それ 》

何のつもりだか分からない咲子のそんな言葉をふと思い出し、春樹はほんの少し、身を震わせた。



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